第1話 聖地の森と、三百年のラブレター(まだ未読の)

 鳥のさえずりが耳に響く。

 重いまぶたを持ち上げると、木漏れ日が目を射た。

 背中が痛い。石の床に直に寝ていたせいだ。指先がしびれて、うまく動かない。


 目の前には、苔むした石の扉がそびえ立っている。

 表面に刻まれた模様は風化しているが、見間違えるはずがない。

 聖地アーク。

 私たちが結婚式を挙げるはずだった場所。

 そして、私が愛する人に裏切られ、封印された場所。


「……最悪の目覚めね」


「うむ! おはようアリア! よく寝ておったな!」


 足元から野太い声が響いた。

 視線を落とす。

 緑色の鱗に覆われた、二足歩行のトカゲがいた。

 そいつは短い腕を組み、ふんぞり返って私を見上げている。


「……何あんた。非常食?」

「違うわ! 我は……いや、龍神じゃ! この星を管理する……いや、守る神じゃ!」


 トカゲ――自称・龍神は、胸を張った。

 管理? 神様にしては、妙に事務的な言葉を使う。

 だが、その小さな体から漏れ出る魔力は、肌が粟立つほど濃密だった。


「喜べアリア。お主の封印を解いたのはこのわしじゃ。三百年、長かったぞ……」

「三百年……?」

「うむ。世界は変わった。魔法は廃れ、男どもは軟弱になった。だが安心せい! わしがお主のために、最強の「つがい」を見繕ってやるからの!」


「……は?」


「さあ、婚活じゃ! 旅に出るぞ! お主の血を引く強い子を産み、世界を救うのじゃ!」


 こめかみがズキズキと痛む。

 目覚めて数分で、トカゲに子作りを強要されている。

 だが、三百年という数字が、胸の奥に鉛のように沈殿した。


「……カイゼルは?」

「あの若造か? フン、あやつは死んでも死なん男じゃ。どっかで生き恥を晒しておるわ」


 龍神は鼻を鳴らした。

 ……そうね。あいつは、そういう男よ。

 国のためなら、泥水を啜ってでも生き延びる。


「……生きてたら、一発殴ってやるんだから」


 足元に落ちていた革表紙の本を拾い上げる。

 表紙はカビて変色しているが、私の字だ。

 ページをめくる。インクの匂いと共に、当時の記憶がよみがえる。


***


 【三百年前の手記】


 *○月×日 晴れ*

 *カイゼル様と新婚旅行に出発! *

 *行き先は聖地アーク。そこで二人だけの結婚式を挙げるの。*

 *王都から聖地まで、馬車で一ヶ月の旅。*

 *「長い旅になるが、君を退屈させない」って。もう、大好き! *


 *△月□日 雨*

 *旅の途中、カイゼル様が窓の外ばかり見ている。*

 *「どうしたの?」って聞いたら、「幸せすぎて怖いんだ」って。*

 *その手は、少し震えていた。*

 *可愛いところあるなぁ。私が一生守ってあげるのに。*


 *×月△日 雷雨(聖地到着の日)*

 *……嘘つき。*

 *聖地の祭壇の前で、彼は私を見下ろしていた。*

 *その瞳には、何の感情も映っていなかった。*


 *「国のためだ。アリア、お前の魔力を全て「聖櫃(アーク)」に捧げろ」*


 *それは、私の命と引き換えに国を守る結界を張る、禁断の儀式だった。*

 *新婚旅行じゃなかった。これは、生贄を運ぶための護送だったんだ。*

 *私は泣きながらすがったけれど、彼は一度も振り返らなかった。*


***


「……はぁ。馬鹿な女」


 日記を閉じる。

 乾いた音が森に響いた。

 涙は出ない。ただ、胸の奥が空洞になったように寒い。


「さて、行きますか」


 立ち上がり、森の出口へ足を向ける。

 ここから王都までは、馬車で一ヶ月。

 かつて彼と歩いた道を、逆にたどる。

 あの時は隣に彼がいた。今は、やかましいトカゲだけだ。



 王都のカフェ「琥珀の猫」。

 窓から差し込む日差しが、テーブルに幾何学模様を描いている。

 カップの中のコーヒーは、もう冷めきっていた。


 向かいの席には、アルフレッドという青年が座っている。

 彼は考古学者で、古代語(私の時代の言葉)を研究していた。


「……信じられない。君は、この「失われた第三王朝」の言葉が読めるのか?」


 彼は丸眼鏡の位置を直しながら、身を乗り出した。

 色素の薄い茶色の髪は、寝癖がついたまま跳ねている。

 その琥珀色の瞳は、新しい玩具を見つけた子供のように輝いていた。


 ……昔、カイゼルもそんな目をしていた。

 王立図書館で、難解な魔導書を読み解いた時の顔。

 周りの音も聞こえなくなるほどの集中力。


 (……駄目よ、アリア。あんな裏切り者と一緒にしちゃ)


 私は首を振った。

 でも、アルフレッドの熱意は、私の警戒心を少しずつ削り取っていく。

 彼となら、新しい恋ができるかもしれない。

 過去を上書きできるかもしれない。



 けれど、その淡い期待は、物理的な衝撃によって粉砕された。


「おい若造! まどろっこしいぞ! さっさとこやつと「つがって」しまえ!」


 天井のステンドグラスが砕け散り、龍神が降ってきた。

 会場は悲鳴と怒号に包まれる。

 その混乱の中で、アルフレッドは真っ先に、最前列の女性に駆け寄った。


「ミナ! 大丈夫か! ?」


 彼は車椅子の女性を抱きしめていた。

 私の方など、見向きもしなかった。


「……君がいなかったら、僕は一生この謎を解けなかった。ありがとう、アリアさん」


 騒ぎが収まった後、彼は私にそう言った。

 その手は、しっかりとミナの手を握っていた。

 私に向けられたのは、愛ではなく、ただの感謝だった。


 (……知ってた。私なんて、どうせ脇役よ)


 私は口角を持ち上げ、精一杯の笑顔を作った。

「お幸せに」と言って、会場を後にする。

 背後で湧き上がる祝福の拍手が、耳障りだった。



 ホテルの裏路地。

 冷たい石畳に座り込み、膝に顔を埋める。


「……また振られたのか」


 頭上から降ってきた声。

 心臓が跳ねた。

 忘れるはずがない。三百年間、夢の中で何度も聞いた声だ。


「……カイゼル」


 顔を上げると、そこには彼がいた。

 三百年前と変わらない、若々しい姿で。

 夜のような漆黒の髪。

 全てを見透かすような、氷青色(アイスブルー)の瞳。

 夜会服を着こなし、私を見下ろしている。


 彼が立つと、周囲の空気がすっと冷えた気がした。

 路地裏の野良猫が、怯えたように逃げ出していく。

 まるで、そこにいるだけで生命力を奪われるのを本能で悟ったかのように。


「笑えばいいじゃない。……ざまあみろって」

「笑わんさ。……お前が泣いているのに、笑えるか」


 彼は不器用にハンカチを差し出した。

 だが、その手は私の頬に触れる寸前で止まった。

 ためらい。

 あるいは、触れてはいけないものに触れようとする恐怖。


「……許さない」


 私は彼の手を振り払った。

 パチン、と乾いた音が響く。


 その瞬間、カイゼルが目を見開いた。

 驚愕。そして、安堵。

 彼の手が、私の体温に触れても、私が「平気だった」ことに、心底ほっとしているような顔だった。


 私は杖を突きつけた。

 体中の魔力を練り上げる。三百年の眠りで蓄えられた、膨大な魔力を。

 それはただの魔力ではない。星の輝きそのものだ。


「「因果応報(カルマ)」!」


 紫色の閃光が、カイゼルの胸を貫いた。

 彼は避けなかった。

 光が収まると、彼の胸には茨のような紋様が刻まれていた。


「……これは?」

「私が受けた仕打ちを、そのまま返す呪いよ。私が絶望すれば、あんたも絶望する。私が傷つけば、あんたも傷つく。……一生、私の痛みを共有して生きなさい」


 これでいい。

 彼はこれから、私が味わった地獄を体験することになる。


 でも、カイゼルは胸の紋様を愛おしそうに撫でた。

 その手つきは、まるで宝物に触れるようだった。


「……そうか。なら、俺は一生お前のそばにいなければならないな」

「は?」

「お前が傷つかないように守れば、俺も傷つかない。……合理的だ」


 彼はニヤリと笑った。

 何よそれ。

 そんなつもりじゃなかったのに。


「なあ、アリア。俺にしておけよ。俺なら、お前を誰かの脇役になんてさせない」


 彼は真剣な目で言った。

 その瞳の奥が、揺れている。

 ……また、演技?

 それとも、今度こそ本気?


 わからない。

 でも、私の喉が、勝手に言葉を紡いでいた。

「国のために死ね」と言われた、あの日の絶望が、私を突き動かす。


「あんたは、イヤ。……同情で選ばれるなんて、惨めなだけよ」


 私は彼の手を振り払った。

 彼の手が空を切り、力なく下ろされる。

 その顔が一瞬、歪んだように見えたが、すぐに無表情に戻った。


「行くわよ、龍神。……次の街へ」


 私は空へと飛び立った。

 眼下には、王都の街並みが広がっている。

 ふと、背筋が寒くなった。

 カイゼルのあの瞳。……まるで、二度と会えない人を見るような、すがるような目。

 三百年前、私を突き放した時の目とは、明らかに違っていた。


「……なによ、あれ」


 胸のざわめきを振り払うように、私は速度を上げた。

 風が冷たい。


 三百年前、私は結婚のために、この封印された地まで旅をした。

 今は、昔の故郷が懐かしい。

 帰還のため、私はその足跡を逆にたどることにした。

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