第2話「『鳩』、嫁ぐ」

 いにしえの時代、アスカロンの地には女神が住んでいた。


 女神の名はデルケトといい、アスカロンの湖のほとりで定められた「男と交わってはならない」という掟を守り続けることで、その美貌を維持し続けていた。


 しかしある日、女神の純潔の誓いは破られてしまう。


 ギリシア神話における美の女神アプロディーテが、デルケトの美貌に激しく嫉妬し、そしてその美しさが純潔の誓いにより維持されていることを知ると、彼女に誓いを破らせることでその美貌を壊してしまおうと目論んだのだ。


『デルケトよ。男に情欲を催し、男と激しく交わるがよい』


 アプロディーテの唱えた呪文は、デルケトの貞操観念をむしばんだ。


 当初こそ、心の奥底でくすぶりだした己の情欲を強靭な精神で抑え込んでいたデルケトであったが、呪文の力には抗えず、とうとう自分を祀る祭壇に供え物を捧げに来た若い男としとねを共にし、妊娠してしまった。


『どうして……。どうしてこんなことに!』


 強い後悔の念に襲われたデルケトは、その男を殺害し、生んだ半神半人の女の赤子を人気ひとけのない岩場に遺棄した。


 そして下半身を魚に、顔を老婆のように醜くすると、湖に身を投げてしまうのだった……。



 デルケトにまつわる話は神話に過ぎないはずであった。


 しかし、その女神の逸話を熱心に信じていたひとりの男が、妙齢を迎えたセミラミスと対面したことで、彼女の運命が大きく狂ってしまったのは間違いなかった。


「総督殿? どうなされたので?」


「いや、すまない。少し雨宿りさせてくれないか」


「私の粗末な家でよろしければ、どうぞゆっくりしていってください。おい、セミラミス。こちらの方にお酒を持ってきておくれ」


「はい、ただいま」


 セミラミスが十五歳の時、養父シンマスの家に、シリア総督として任地の視察に来ていたオンネスが一泊する出来事があった。


「ありがとう。お? 美しい娘さんだなあ。こう言っちゃ悪いが、とてもお前さんの子には見えないね」


「いえ、実はこの子は捨て子でして」


 養父が自分の生い立ちを詳しく聞かせ、それをオンネスが頷きながら真剣に聞いていた。やがてその全てを聞き終えると、オンネスが口を開いた。


「それは、まるでデルケトの逸話みたいだねえ。……詳しくはおぼえていないが、確かだったな」


 オンネスの話を、養父シンマスは話半分に聞いているようだった。しかし、


「ねえ、君。折り入って相談があるのだがね。このを、わしの嫁として差し出すつもりはないかね?」


 そのシリア総督オンネスが、自分の養子を「半神半人の娘」と見做して結婚を申し出てきたのには、さすがに驚きを隠せなかった。


「そ、総督殿? ご、ご冗談を――」


「いや、わしは本気だよ。本気で彼女に惚れたのさ。どうかね? 結婚を承諾してくれれば一生暮らしていけるだけの金子きんすの贈与と奴隷身分からの解放を約束しよう」


 養父シンマスがとても思い悩んでいるのを見ているのが辛かったのだろう。セミラミスは養父に言っていた。


養父おとうさま。私、オンネスさまと結婚しますわ」


 養父ちちが自分にたっぷりの愛情を注いでくれているのは、よく分かっていた。

 その養父ちちの許を離れて、老いたシリア総督と望まぬ結婚などしたくはなかった。

 でも、自分が嫁ぐことで奴隷の養父ちちが自由を得られるのならば……。


 こうして、大人になった『セミラミス』は親元を離れ、そして栄光の階段を歩み始めるのだった。


 貪欲どんよくに彩られた、血なまぐさい栄光の階段を。

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