崩壊世界で書を紡ぐ
廻る猫
第1話 Hello,World.
彼女は、今日もページをめくっていた。
淡い光が漂う巨大な書庫の中で、ただ一人。
アルカヌム大図書館――世界に存在したあらゆる書物を収める“秘匿の書庫”。
柱時計は止まり、扉を開ける者もいない。だが、彼女の時間は本の中で流れ続けていた。
「……ふう。これで全部読み終わった。」
規則的に並べられていた中の最後の一冊を閉じる。
知識は頭の中に満ち、心の奥底で静かに波紋をつくる。
もっと知りたい。
もっと、自分の言葉で世界を理解してみたい。
そんな思いが、久しく頭から消えていた“外に出る”という発想を呼び起こす。
「……せっかくだし、外の空気でも吸ってみようか」
外にある有象無象のことは、もう忘れた。
なぜならこの結界に守られた空間は、常に静かで、常に同じで、何より“安全”だったから。
世継は杖と、数冊のメモ帳を抱えて、長く閉ざされた扉へ手を伸ばした。
指先が触れた瞬間、結界がゆるやかに解けていく。
何百、何千年と張り続けていた防護の魔法が、ガラスのように砕け散り─
ギィィ、と扉が開いた。
外気が流れ込む。
はじめて嗅ぐ匂いのように思えて、世継は小さく息を飲んだ。
「……なんだか薄暗い?」
懐かしいはずの外の景色は、まるで違っていた。
石造りの街並みは崩れ、舗道はひび割れ、建物は風に削られたように傾いている。
遠くまで続く廃墟は、まるで別の国――いや、別の世界だ。
世継はゆっくり一歩踏み出す。
足元の砂利が、控えめに音を立てた。
「……誰もいないの?」
返事はない。
風が吹き抜けるだけだ。
空は薄曇りで、太陽はかろうじて位置を主張している。
けれど、どこか色が褪せて見える。
――違和感。
それは、地面だけではなかった。
街角の影が、ゆっくりと形を変えた。
世継は目を細める。
影ではない。
影のようなものが、蠢いている。
「……あれは」
黒く、ねばつくように歪んだシルエット。
目のようなものが無数に瞬き、足とも触手ともつかない形状が石畳を這っていた。
頭の中の知識が口をついて出る。
「…ショゴス?」
その名を呟くと同時に、その塊は一瞬、こちらに“気づいた”気配を見せた。
本能的な反応で、ぞわりと肌が粟立つ。
世継は咄嗟に杖を構える。
「ショゴスは人の街に出てくるような存在じゃないはず…」
何かがおかしい。
書物の中にあった常識と、この光景は一致しない。
街は滅んでいる。
空気が違う。
生物の気配が希薄すぎる。
――いつ、こんなことに?
ずっと、ずっと、この書庫で本を読んでいた。
その間に、世界は何を経験したのだろう。
ショゴスは、泡が弾けるような音を立てて形を変え続けている。
こちらに向かってくる気配は今のところない。
世継のある考察が脳裏をかすめる。
「私……長く読書しすぎたのかな」
冗談めかして呟いた声が、崩れた街に虚しく響く。
彼女は杖を握り直し、一歩を踏み出した。
(この世界に何が起きたんだろう)
そう考えて歩き出す世継の背後で、ショゴスはビルの影の中へ逃げ込んだ。
――これは、彼女が「記録者」から「現実の観測者」へ変わる物語の始まりだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます