袖の香はひそやかに薫る 平安身代わり恋ものがたり

深山くのえ/角川文庫 キャラクター文芸

第1話

 きぬれの音が、どこからか近づいてくる。

 また、誰かが用事を言いつけにきたのか。よりづくえほおづえをついてまどろみつつ、ぼんやりとそう思った。

 早く宮中に帰りたい。いくらこの家の大事な姫君の婚礼の夜とはいえ──いや、大事な婚礼の日にまで、わざわざ呼び寄せて嫌がらせをするなど、度が過ぎている。どうせ高貴な公達きんだちとの婚礼を見せつけて、おまえとは立場が違うのだと思い知らせたいとか、そんな魂胆だろう。そうでなければ、わざわざ自分一人を呼び出す理由もない。

 だいたい当の姫君とて、あれほどじゆだいしたがっていたのだ、望んだ縁談というわけでもなかっただろうに。

 とにかく、夜が明けたらすぐに帰ろう。自分はもう、ここの姫君の女房ではないのだから──

「…………」

 麗子はふと、目を開ける。

 衣擦れの音が止まった。自分のつぼねのすぐ横で。

 小さな話し声。

 みしり、と床を踏む足音がする。

 女のそれではない。

 せつ、理解した。自分がどうして呼び出されたのかを。

 しまった。謀られた──

 麗子はとっさに文机の上にあったおうぎつかむ。

 身代わりになどなるものか。まだわたしを小生意気なだけの女だと思っているなら、大間違いだと知らしめてやる。

 麗子が身構え、振り返ったのと同時に、勢いよくが開き、上背のある男がぬっと身をかがめて入ってきた。

 つりどうろうの薄明かりが、男の顔に差す。

 ……えっ?

 おそらく悪意の誘導によってここへ来たはずの男の、その顔。

 違う。

 来るであろう男の顔なら、知っているのだ。でも違う。まったく違う。記憶にある顔より、もっと美しい。

 入ってきた男のほうも、麗子を見て虚をかれたように目を見張っている。

 これはいったい、どういうことだ。

 麗子はかずにはおれなかった。

「……あなた、誰?」

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