第二話:虚ろな名誉の騎士、ユリウス
玉座の間。ユリウス・フォン・クライネルトは、その完璧な姿勢を保ち、静かにエルシーの前に立っていた。黄金の甲冑は彼の「完璧なる騎士」という地位を象徴し、その顔には一点の曇りもない。彼は、自分こそがこの姫君に最も相応しい男だと確信していた。
「ユリウス騎士団長。貴方には、最も困難な試練を課します」
エルシーの声は、先日の全体会議の時よりもさらに冷たく、彼の鎧の隙間に忍び込むようだった。
「光栄に存じます、姫君。このユリウス、騎士の名にかけて、いかなる試練であろうとも誠実をもって完遂いたしましょう」
ユリウスは胸に手を当て、深く優雅な礼を取った。その動作には、彼が追い求めてきた『名誉』そのものが具現化されているかのようだった。
「結構ですわ」
エルシーは微かに首を傾げた。
「騎士の名にかけて、ですか。では、貴方の『名誉』をかけて、こう問いましょう」
彼女は玉座から一歩踏み出し、ユリウスの、そのあまりに完璧な顔を、正面から見つめた。
「貴方の人生において、『名誉』を守るために、他者を不当に貶めた行い。あるいは、貴方自身の『誠実さ』を裏切った行いが、過去に一つでもあったか。それを、この玉座の間で、大勢の貴族の前で、全てを包み隠さず告白しなさい」
ユリウスの瞳の奥、完璧な虚栄心に守られた核が、一瞬だけ、凍てつくように固まった。
「……姫君、それは」
「お黙りください」
エルシーの声音が、初めて厳しさを帯びた。
「それが、貴方の試練です。貴方が最も大切にする『名誉』を捨て、真実の汚名を負うこと。それが、私への『誠実な愛』の証明となります。そして、貴方の告白に、私を欺く意図や、自己防衛の言い訳がわずかでも混ざった場合、貴方はその瞬間、貴方自身が築いた名誉と、貴方の全てを失うことになるでしょう」
エルシーの紫の瞳は、彼の動揺の微細な揺らぎを見逃さなかった。
(……予想通りだわ。彼は、『名誉』という安全な過去から逃れられない。私と同じ、自己愛の囚人)
彼女の心は、レオンの言葉を知る前の、冷徹な逃避の理性に満たされていた。
ユリウスの額に冷たい汗が滲む。その汗が、彼の完璧な仮面を滑り落ちていく。
「……かしこまりました。試練、必ずや受け入れましょう」
彼は、震える声を悟られぬよう、深く頭を垂れた。エルシーが彼から背を向け、玉座へ戻っていくのを見届けても、彼はしばらくその場から動くことができなかった。
自室に戻ったユリウスは、長年連れ添った忠実な副官、クラウスだけに本音を漏らした。
「……狂気の沙汰だ。この私に、自らの手で反逆の汚名を被れというに等しい」
クラウスは、生真面目な顔に深い憂慮を浮かべたまま、慎重に言葉を選んだ。
「まことに……。ですが、姫君は『潔白を愛で証明せよ』とも。あるいは、閣下の誠実さそのものを試しておられるのではないでしょうか」
その言葉に、ユリウスはわずかに冷静さを取り戻した。そうだ、これは試練なのだ。彼は書斎に籠り、過去の記録を紐解いた。
彼の脳裏に浮かんだのは、五年ほど前のことだった。若き日のユリウスの戦術に異を唱え、些細なミスを指摘した部下の将校がいた。ユリウスは、自身の完璧な指揮官としての名声を守るため、その将校の些細な過ちを針小棒大に飾り立て、「上官侮辱罪」と「職務怠慢」の罪で不名誉除隊に追い込んだ。それは、彼の名誉を守るために、他者の将来を潰した、彼にとって最も触れられたくない過去だった。
(あの件を告白するか……?)
彼はペンを取り、羊皮紙に向かった。あの将校への不当な処罰を、若さゆえの未熟さと傲慢さが招いた「過ち」として告白し、謝罪と共に償いを申し出る。そうすれば、姫の言う「誠実さ」を示し、この試練を乗り越えられるのではないか。
だが、そのインクの染みが、自らの完璧な経歴を汚す永久の
彼の心に、遠い昔の記憶が蘇った。貧しかった幼少期、貴族の端くれとして蔑まれ、嘲笑された日々。その屈辱を二度と味わうまいと、血の滲むような努力で「完璧」を追い求め、今の地位を築き上げた。その完璧な名誉こそが、彼の存在そのものだった。これを守るためなら、ユリウスはいかなる犠牲も厭わなかった。
「閣下、いかがなされましたか」
クラウスが心配そうに声をかける。ユリウスはその羊皮紙を衝動的に握りしめ、くしゃくしゃに丸めて暖炉に投げ込んだ。
「……いや。駄目だ。この記録に
彼の完璧主義が、誠実であろうとする心を蝕んでいった。完璧な記録に傷をつける恐怖が、エルシーへの愛を上回り始めた瞬間だった。
誠実さへの未練が灰と化し、数日が過ぎた。ユリウスは苛立ちと無力感に苛まれ、執務室で無為な時間を過ごしていた。打つ手がない。誠実であろうとすれば名誉が傷つき、かといって何もしなければ、ただの臆病者として笑われるだけだ。
そこへ、副官のクラウスが遠慮がちに入室してきた。
「閣下、お疲れのところ恐縮ですが、一つご報告が……宮廷魔術師、アベル殿のことで……」
「何だ」
ユリウスは不機嫌に答える。
「は。姫君の試練に対し、アベル殿は少しも悩んでおられない、と。それどころか、『これは興味深い定理だ』と笑い、研究室に籠もって楽しげに準備を進めている、と……」
その報告を聞いた瞬間、ユリウスの中で何かが切れた。アベルが、自分との競争を楽しんでいるだと? 嫉妬と、そして強烈な侮辱の感情が、彼の心に黒い炎を燃え上がらせた。
「……そうか。奴は、これをゲームだと思っているのだな」
ユリウスは、それまでの苦悩が嘘のように、すっと表情を消して呟いた。
(愛? 誠実さ? くだらん。そんなものは、騎士の名誉を守るための飾りに過ぎん。エルシー姫は、このユリウス・フォン・クライネルトという完璧な騎士の腕に添えられる、最高の勲章、いや、勝利のトロフィーだ。結局は、誰が最も巧みに立ち回れるか、誰が最も優れているかの勝負だ)
その目には、もはやエルシーへの愛など見えず、好敵手であるアベル、そしてもう一人の競争相手であるアルフォードを見据える、歪んだ闘争心が宿っていた。
ユリウスは、目の前の副官に「しばし待て」と手で合図を送り、新しい羊皮紙を広げ、計画を練り始めた。
ごまかすと決めたからには、その
「さて、クラウス」
彼は顔を上げ、まるで精密な軍事作戦の命令を下すかのように、次々と指示を与え始めた。
「まず、信頼できる部下を数名選べ。お前たちは、これから数日かけて、『団長が愛のために深く苦悩し、やつれている』という噂を宮廷内に流すんだ。悲劇的にな。感傷的にだ。わかるな?」
ユリウスはクラウスの顔を鋭く見つめ、返事を待たずに続けた。
「次に、城下で一番の吟遊詩人を探し出せ。俺が告白を終えた後、その日の夜までに新しい詩を歌わせる。タイトルは『悲しき戯言の騎士』。内容は、愛する女性のために、あえて道化を演じてみせた騎士の物語だ。いいな?」
クラウスは、司令官の常軌を逸した計画に、もはや言葉を失っていた。
「閣下、それは……偽りの物語を、さらに嘘で塗り固めるようなものです。騎士の道に反します!」
「これは勝利への道だ、クラウス」
ユリウスは鏡に映る自分を見ながら、うそぶいた。
「勝利のためには、完璧な舞台演出が必要なのだ」
彼は一人になると、鏡の前で告白の練習を始めた。眉間に深い皺を刻み、苦悩の表情を作る。どの角度で頭を垂れれば、最も悲劇的に見えるか。声に、どれほどの震えを乗せれば、誠実そうに聞こえるか。彼は、自身の作り上げる「悲劇の英雄ユリウス」という
エルシーの前で告白書を読み上げた時、彼の演技は完璧だった。計算し尽くされた苦悩の表情と、練習を重ねた声の震え。そして彼は、エルシーの唇の端に、ほんのわずかな綻びを見逃さなかった。
「……承知いたしました。結果は、いずれ」
それだけを告げて、エルシーは玉座から下がっていった。
(笑った……!)
ユリウスは勝利を確信した。俺の完璧な脚本と演技に、あの氷の姫も心を動かされたのだ。彼は意気揚々と自邸に帰り、祝杯を挙げた。クラウスの絶望的な顔も、もはや目に入らなかった。
噂はすぐに広まった。ユリウスが自ら仕組んだ通りに。
「さすがはユリウス卿、粋なことを」
「愛のために道化を演じてみせるとは」
吟遊詩人の歌も、彼の悲劇的なロマンスを盛り上げるのに一役買った。彼は得意の絶頂にあった。
だが、風向きは数日かけて、ゆっくりと、しかし破滅的な方向に変わっていった。彼が仕掛けた「悲劇のロマンス」という
「反逆罪を恋の戯言にすり替える男だ。その完璧な経歴とやらの裏にも、何か汚いものが隠されているのではないか?」
宮廷会議の場で、一人の伯爵がそう告げると、これを好機と見た者たちが次々に賛同し、ユリウスの過去の功績すべてに対する、前代未聞の再調査委員会が発足した。
ユリウスが自ら作り上げたスポットライトは、皮肉にも彼の過去を暴くための強烈な光となった。連日、ユリウスは尋問室に呼び出された。最初は傲慢な態度で質問を一蹴していた彼も、次第に顔色を変えていく。
「五年前の将校、エドガー・ハーヴェイの不名誉除隊事件について伺います」
調査官が冷たく告げた。ユリウスは一瞬、心臓が跳ねるのを感じた。あの件は完璧に処理したはずだった。
彼の目の前に、一人の男が引き立てられてきた。かつて彼の副官として働き、ユリウスが自ら目をかけ、育て上げた若き士官、ラインハルト大尉だった。ハーヴェイ事件後に左遷された彼だが、その真摯な眼差しは変わっていなかった。
「証言します。ハーヴェイ大尉の日記は、私がユリウス様の指示で書き換えたものです。本来、ハーヴェイ大尉は、ユリウス様の誤った戦術を諫め、部下の命を救った英雄でした……」
ラインハルトの言葉が尋問室に響き渡るたびに、ユリウスの全身から血の気が引いていく。その視覚的なショックは尋常ではなかった。
彼が、自分を信頼し、忠誠を誓った部下を利用し、その人生を捻じ曲げた過去。その作り上げた忠誠の土台が、今、自らが選んだ嘘によって崩れ去る瞬間だった。ユリウスはラインハルトを睨みつけたが、ラインハルトの瞳に宿るのは、後悔と、そして決意の光だった。
さらに、調査は十年前の「グレンフィールドの戦い」に及んだ。ユリウスの最大のライバルと目されていた騎士が、戦死した戦だ。
「当時の兵士、グスタフ・ウッド氏の証言です。彼は、貴方が援軍を意図的に遅らせ、ライバルを死に至らしめたと供述しています」
ユリウスは怒鳴りつけた。
「馬鹿な! あれは濃霧による不慮の事故だ!」
しかし、彼が叫べば叫ぶほど、その声は薄っぺらい嘘のように響いた。彼の完璧な騎士の仮面が、容赦なく剥ぎ取られていく。彼が作り上げた『悲劇の英雄』の物語は、彼を『冷酷な偽善者』へと塗り替えていった。
数週間にわたる調査の結果、ユリウスには偽証罪、職権乱用、そして殺人罪(未必の故意)。具体的で、おぞましい罪状の数々が突き付けられた。もはや弁明の余地はない。彼が完璧な騎士を演じれば演じるほど、その言葉は過去の嘘と結びつき、彼自身を
評決が下された日、ユリウスはもはや生きた心地がしなかった。彼の栄光は地に堕ち、名声は汚泥にまみれた。全ての地位と財産、そして騎士の称号を剥奪され、その身は暗く冷たい牢獄へと突き落とされた。絶望の中で、彼はかつての輝かしい自分と、今の無残な姿を何度も比較し、そのたびに魂が擦り切れるような痛みに苛まれた。壁の冷たい石が、彼の傲慢なプライドの残骸を嘲笑っているかのようだった。
数日後、牢獄の格子越しに、静かに立つエルシーの姿があった。
「……なぜだ」
もはや怒る気力もなく、彼は虚ろな声で尋ねた。
「なぜ、こんなことに……」
エルシーは、初めて彼に会った時と同じ、氷のように冷たい視線を向けた。だが、その瞳の奥には、目の前の無残な男が見せる、最後の虚飾すら見透かすような、怜悧な光が宿っていた。彼女の視線は、彼の汚れた囚人服でも、痩せこけた体でもなく、彼が必死で守ろうとした『虚ろな名誉』の
「あなたは、『名誉』という名の空虚な常識を、愛よりも優先した。私の愛のために、全てを捨てて真実の汚名を負うほどの誠実さがなかった。そのくせ、愛を証明するための試練を、自己の虚栄を守るための完全犯罪へと、異常なまでにねじ曲げた。その倒錯した情熱が、あなたの真の罪を暴き、破滅を招いたのです」
その言葉は、彼の人生そのものを貫く、残酷な真理だった。彼が注いだ「ごまかし」への偏愛が、彼の全ての「ごまかし」を暴いてしまったのだ。そして、エルシーの言葉が、彼の
「だからこそ」
エルシーは、力なくうなだるユリウスを見据えた。
「申し上げます。あなたは変態です。自己愛に溺れる不誠実な変態です」
成功したはずだった。完璧な計画だった。なのになぜ――。エルシーの冷徹な宣告は、自らの嘘によって全てを失った男の、砕け散った魂に、容赦なく突き刺さった。
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