第4話 蠢く砦

 朝の光が、砦の輪郭を切り取っていた。

 崩れた城壁が、天を噛んでいる。矢狭間は半分欠け、見張り塔は首を折った獣みたいに傾いている。堀は干上がり、底に黒い泥と錆びた鉄片が散らばっていた。

 砦都市レムノス、かつては辺境戦線の要だったという。だが今は都市ではなく、死んだ器官がまだ動こうともがいているようだった。


 城門の前で足を止める。扉は溶けていた。魔法の熱で石が飴のように垂れ、そのまま固まっている。黒いガラス質の表面に、俺たちの影が歪んで映る。

 門の向こうから、金属が擦れる音が漏れてくる。規則的ではない。ぶつかり、離れ、また寄る。鎧の音だ。中にいる奴らのものだ。


「登れる」


 ニナが城壁の崩れた部分を指す。瓦礫が階段のように積み重なっている。俺は頷き、先に登る。石の角で掌を切る。血は少し出たが、すぐに乾く。

 城壁の上から見下ろした光景に、息が止まった。

 広場が、蠢いていた。

 数十、いや百はいる。鎧を着た兵士の屍人ゾンビが、目的なく徘徊している。兜の隙間から歯を鳴らす音が、波のように重なって聞こえる。その中に、小さな影がいくつか混じっている。ドワーフだ。背は低いが、筋肉の塊みたいな腕で地面を掻きながら動いている。

 鎧の金属音が反響して、頭蓋の中まで響いてくる。


 中央の防衛塔が、黒く焼けて聳え立つ。その麓に、何かが積み重なっていた。

 死体の山。

 焼け焦げたローブ、折れた杖に、散らばった骨。魔法陣の焦げ跡がまだ地面にへばり付いていた。円の中心に、灰になりかけた人影がいくつも重なっていた。魔力を出し切って果てたのだろう。救済を求めて、死の引き金を引いた。

 俺の手が、勝手に拳を作る。

 俺にとって魔法は、憧れだった。だがもう違う。この世界ではただの自殺装置だ。

 

 彼女の目が、死体の一つに釘付けになる。小さな杖の芯。その隣に、大人のローブに包まれた小さな骨。教師が生徒を庇ったまま、一緒に燃え尽きたのだろうか。


俺は肩を叩く。今ここに戻すために。彼女は小さく頷くが、手の震えは止まらない。


「倉庫だ」


 俺は西側を指す。俺は広場の端、壁に挟まれた低い建物の列を指す。兵站庫に違いない。保存のルーンらしき、光も遠めにかすかに見える。入口の前を鎧の数が二、三体、ゆるく回っているだけだ。密度は広場ほどじゃない。短時間であれば、リスクは低い。


「油と塩、だな」


 俺は言う。本格的に冬がやってくる前に、絶対に必要なもの。

 ニナは何も言わない。ただ、指でナイフの柄を二度叩く。了解の合図だ。

 瓦礫を降り、城壁の内側へ。足音を殺し、呼吸を伸ばす。広場を避け、崩れた建物の影を縫って進む。鎧が目の前を横切る。腐った顔が兜からのぞいている。眼球は白濁し、顎は外れかけている。まだ、気付かれてはいない。

 

 倉庫の裏口を見つける。扉は半開きだ。中は暗いが、完全な暗闇ではない。ニナが指先に小さな火を灯す。最小限の光。棚が並び、袋と壺がいくらか積まれている。

 乾燥豆の袋。重い。持てるのは半分だけだ。 油壺。底が割れて、大部分が漏れ出している。それでも残りを布で包む。塩袋は湿気で氷みたいに固まっているのを、肘で割って小袋に分けて詰める。ふと目についた、奥の小さな布包みを持つ。これ以上は無理だ、欲張れば死ぬ。


 荷を抱えて振り返ると、入り口に影が立っていた。

 ドワーフの屍人ゾンビだった。

 低い唸り。筋肉の腕で、扉の枠を掴んでいる。次の瞬間、奥から別の唸りが返ってくる。


 ニナの手が動く。

 風が、起きた。小さな風圧だ。崩れかけた棚が、微風で倒れ、扉の前の鎧の数が一体、二体、瓦礫に絡まってよろめく。

 魔力に反応したのか、広場のざわめきがこちらへ角度を変えるのが分かる。たった一段の初期魔法ですらこれだ。


「走るぞ!」


 俺は荷を背負い直す。重すぎる。だが捨てない。ニナが先導する。裏口から飛び出し、崩れた城門へ向かう。だが門は瓦礫で塞がっている。

 後ろから金属音が迫る。退路はない。


「地下だ」


 ニナが地面を指す。格子の蓋。鉱道への入り口、ドワーフの補給路であろう場所。下からは湿った空気と、何かが蠢く気配。


 選択肢はない。格子を開け、飛び込む。


 狭い。天井が低く、俺は腰を曲げて進む。呼吸が速くなる。暗闇の中、壁を手探りで進む。

 角を曲がると、前方に複数の影。ドワーフの屍人が鉱道を埋めている。低い唸り声が石壁に反響する。


 ニナの手が、震えながら上がる。


「使うな!」


 俺が止める前に、彼女の指先が白く輝く。


 爆炎。


 初級魔法なんてレベルじゃない。恐怖が制御を狂わせたのか、炎が鉱道を満たす。屍人が吹き飛び、天井の一部が崩れる。熱風が頬を焼く。


 同時に、地上から凄まじい咆哮が響く。砦中の屍人が、一斉にこちらを感知したに違いない。

 ニナが崩れ落ちる。鼻血が顎を伝う。魔力の反動だ。


 俺は彼女を担ぎ、崩れた天井の隙間から無理やり這い出る。そこは砦の外壁の向こう側だった。

 

 肩が裂けたが、どうにか抜けた。


 無我夢中で走る。堀を飛び越え、街道へ出る。ただひたすら砦から離れる。


 砦の影が背後で薄れていく。金属のざわめきも、石の腹に飲まれる。

 もう追ってはこない距離まで来た、と思った瞬間、ニナが吐いた。


 息が浅い。吸っても吸っても足りないみたいに、喉だけで空気を押し出す音。

 肩が震え、歯が鳴る。手が、恐ろしく冷たい。


 「......ごめん」


 彼女が絞り出すのは、いつもよりか細い声だった。誰に向けた謝罪か分からない。

 俺は答えない。答えれば、魔法のせいで崩れた彼女を“許す側”に回ってしまう。


 俺が止めて、もしあの炎がなければ、俺たちはあの坑道で押し潰されていたかもしれない。結果、生き延びた。それだけが全てだ。


 少しして、吐くような咳が一度だけ出た。唾と胃液の匂いが草に落ちる。

 それでやっと呼吸が戻り始めたようだ。


 暫く息を整えながら歩くと砦の外縁に、崩れかけた詰所を見つけた。屋根は半分残っているし、視線も切れる。扉を閉め、その辺の板で補強する。ようやく、息ができる。


 泥と血と灰で、二人とも真っ黒だった。

 俺は無言で鍋を取り出す。乾燥豆を一握りだけ入れ、水を注ぐ。熾火の小さな輪の上に鍋をかける。油を少しだけ垂らし、塩を二つまみ落とす。塩が落ちた瞬間、湯気が“食べものの匂い”に変わる。匂いが変わるだけで、腹が帰ってくる。


 それから、倉庫の奥で見つけた小さな布包みを開く。


 干し牛肉。将校用の上物だろう。普通の兵士には回らない、薄く切られた赤身。胡椒と岩塩がまだ表面に光っている。一枚を指でつまむと、肉の繊維が美しく裂ける。


 ニナの目が、今日初めての色を見せる。


 鍋に一枚だけ入れる。もったいないが、今日は特別だ。生き延びた褒美。スープがほんのり赤く染まり、肉の香りが立ち上る。胡椒の刺激が鼻腔を満たしていく。


 椀に注ぐ。ニナが受け取る手が、かすかに震えている。


 一口、啜る。


 肉の旨味が、舌の上で弾け飛ぶ。豆の素朴さに、将校の贅沢が溶け込む。胡椒が喉を焼き、塩が全体を引き締める。生きているという実感が、腹の底から湧き上がる。


 ニナの頬に、ほんの少し血の気が戻る。


「......おいしい」


 彼女にしては珍しい、食事の感想。それ以上は言わない。ただ、椀を両手で包むように持ち、ゆっくりと飲む。


 遠くから、まだ金属が擦り合う音が残響する。群れは砦の中で渦を巻き続けている。俺たちのことはもう忘れているだろう。


 スープが冷める前に、もう一口。

 今日も、生き延びた。

 それだけが、確かなことだった。


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