第54話 静かなる封

 その朝、諒は目を覚ました瞬間、胸の内側が空洞のように冷たかった。

 布団の温もりも、自分の腕の重さも実感が薄い。

 ぼんやりと天井を見上げたあと、口が自然に動いた。

「……ここ、どこだ……?」

 屋敷の天井は、何百回も見上げてきたはずなのに。なのに今日は、まるで見知らぬ家の天井のようだった。


 身体を起こし、部屋を見渡した。


 木の床、障子、箪笥、机。毎日触れてきたはずのものたちが、全部“他人の生活の匂い”をしていた。そして、諒の胸の奥で、ふつと小さな声が生まれる。


「……行かなくちゃ……」


 どこへ?

 なぜ?

 それは分からない。

 けれど、“ここにいてはいけない”という不安だけが鮮明だった。



 諒が立ち上がった瞬間、胸の奥で3つの気配が同時にざわめいた。


 りう

『だめだよ!!諒!!いかないで!!』


 怜ヶ

『諒……ねぇ、待って……どこに行くの……?お願い、ここにいて……』


 狐

『諒!!聞け!!お主はまだ外に出てはならぬ!!!』


 その声は、心臓の鼓動に混じって確かに“響いている”。だが—— 意味が結ばれない。

 言葉ではなく、ざわつき、風、音のない叫びのようにしか感じられない。


 諒は眉をしかめて頭を押さえる。

「……うるさいな……何の声だ……?」

 3匹の声を「声」と認識できなくなっていた。



 諒は足を引きずるように廊下を歩き、

 靴をつっかけ、戸口へ向かった。

 3匹は必死に諒の身体に縋りつこうとする。


 りう

『やだ!!行っちゃだめ!!だめだよ!!』


 怜ヶ

『諒……帰って……帰ってよ……お願いだよ……』


 狐

『諒!!!この扉の向こうに出れば——取り返しがつかぬ!!』

 しかしもう、諒にはそれが届かなかった。


 戸を開けて冷気が流れ込む。春に近い冬の匂い——外の空気。諒の足は迷わなかった。ゆっくりと、確信もなく、ただ“外へ”。


 そして—— 屋敷の敷居をまたいだ。


 その瞬間。


 バチッ、と静電のような音が走った。


 そして屋敷全体に薄い光が走り、蜘蛛が巣を張るような細い糸が空間そのものに浮かびあがった。

 狐の結界の上に、蜘蛛丸の結界が重なるように起動したのだった。結界の絲は絡み合い、重なり合い、幾重にも折り重なる複雑さを持っていた。


 狐が愕然と呟く。『……これは……蜘蛛丸の結界……!我の結界より深く、細い……まるで“封”だ……!』


 りう

『くもさん……?なんで……なんでこんな……?』


 怜ヶ

『ねぇ……戻れない……。どうして……?どうしてだよ……』


 諒の体は結界の外に出ると、りう・怜ヶ・狐は諒の身体の奥へ押し戻されるように感じた。


 諒が一歩、二歩——屋敷から離れるごとに、3匹は絶望感に呑まれていく。


 そして——諒の背中が結界の向こうに完全に消えた瞬間。


 屋敷は“閉じた”。


 蜘蛛の巣のような精密な結界が張り巡らされ、内部と外部を完全に分断してしまった。


 狐が息を呑むように言った。

『……これは……蜘蛛丸が、自身以外誰も入れぬように……帰る場所”として残した結界だ……』


 怜ヶの金の瞳が震える。

『じゃあ……蜘蛛さんが帰らないと……僕たち……入れないの……?』


 りうは尻尾をしぼませ、耳をぺたりと伏せて震えた。

『……やだよ……やだ……くもさん……こわいよ……

 なんで、なんでこんな……?』


 狐は歯を噛みしめ、言葉を絞り出した。

『……蜘蛛丸が戻らぬ限り……

 我らはこの屋敷に戻ることは叶わぬ……』


 3匹はただ呆然としながらも諒について行くしかなかった。


 外の風が冬の匂いを運び、家の中には蜘蛛丸の微かな残り香だけが静かに閉じ込められていた。

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