第38話 綻び

 春一番の翌朝。 屋敷の空気には、まだ冬の名残りがひっそりと混じっている。諒は布団から半身を起こしながら、ぼんやりと伸びをした。隣では、青年の姿に戻った蜘蛛丸が静かに寝息を立てている。

「……朝ごはんどうしよ」

 と呟いた瞬間――


 ズザザザァァッ!!


 諒の体がぐいっと前のめりになり、気づけばクリーム色の耳と尻尾が出現していた。 りうだ。

『さむいぃぃぃぃぃ!!』

 諒の心の叫びとは裏腹に、りうはそのまま勢いよく障子を開けて外に飛び出したかと思いきや、雪に突っ込んで5秒後には戻ってきて、再び諒の体を乗っ取ったまま、

「……ひゃっこ……」

 膝から崩れ落ちる。


 その直後、諒の体がビクッと震える。

 ぱちん。黒い耳と尻尾が生え、瞳が金に染まる。怜ヶだ。

「…………最低だ、あの犬ぅ……ッ!」

 震え上がって悪態をつきながら、諒の体のまま四つん這いでこたつへ走る。

「こたつこたつこたつこたつ……ッ!!」


 ドサァッと飛び込み、こたつ布団を全身で抱きしめる。 諒の意識は奥のほうで『今日も騒がしいなあ…』とため息をついていた。


 すると突然――

 すぅ……

 狐が浮上してくる。 耳は赤金、目は銀。諒の体がすっと伸び、所作が優雅になる。

「……騒々しい。朝というものを少しは味わえ」

 そんなことを言いながら、次に一番最初にしたことは――こたつに滑り込むことだった。

「……ぬくい……。悪くはない……」


 諒(内心)は頭を抱えた。その騒ぎの中、障子が静かに開いた。

「……相変わらず、騒がしいことよ」

 ふらつきもなく、霊力が満ちた気配をまとって、蜘蛛丸が廊下に出てくる。 青年の姿になって一晩。声も表情も、以前よりずっと生気にあふれていた。

 しかし、一歩踏み出した瞬間。ふっと風が入り、薄い“粉”のようなものが畳に散る。 蜘蛛丸の瞳が細くなる。

「……結界が……ほころんでおるな」

 狐はこたつに顎を乗せたまま、片眉をあげる。

「ほう……?」

「僅かなものだ。だが……妙な気配が混じっておる」

 蜘蛛丸は風の流れを読むように目を閉じた。 紫の瞳の奥に、わずかな警戒の色が宿る。

 しかし――


 ゴンッ!!


「痛ッ!!」「何すんだ犬ぅ!!」「だってあったかいんだもん!」

 りうが突然割り込み、諒の体の耳と尻尾がころころ入れ替わりながら騒ぐ。 こたつ布団争奪戦が始まり、三者が同じ体で入れ替わりながら布団を奪い合う奇妙な地獄図。

「返せー!!」「お前こそどけ〜!」「静まれ小童ども!」


 こたつは揺れに揺れ、諒の体は忙しなく耳と尻尾の色を変える。

 蜘蛛丸は額を押さえてため息をつく。

「……これでは気配も読めぬわ」

 口調は呆れながらも、どこか楽しそうだ。 表情がふっと緩んだ瞬間、諒の体からふわりと本人が浮かび上がるように戻る。

「……蜘蛛さん、大丈夫?」

 諒の問いに、蜘蛛丸は静かに頷き、

「諒がおるなら問題ない。……今は寝起きで気分も妙に良いのでな」

 と、優しく目を細めた。諒の胸が、こたつより温かくなる。


 ――その“ほころび”は、まだ名を持たない――

 

 春の風の奥。ほんのわずかな湿り気と、遠くで鳴るような鈴の音。その正体に気づいた者は、まだ誰もいなかった。

 蛙は、この日、遠くの木の影からただ静かに屋敷を見ていた。 冬眠から醒めた蜘蛛丸を一瞥して、再びその気配を沈める。


 まだ――“前日”だからだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る