第9話 薄闇の狐
夜が明けきらぬ屋敷の中には、静寂が濃く沈んでいた。 蜘蛛丸はいつものように台所の方で湯を沸かし、ふと思う。 犬も猫も、あの人間の中に戻ったまま出てこない。 妙に静かな朝だった。何かを思い立って蜘蛛丸は薬缶を台に避けてからその場を離れた。
寝間を覗いても、布団は空。 書斎にも諒はいない。 庭の方へ足を向けかけ、ふと、廊下の奥の扉が少し開いているのに気づく。 滅多に使われぬ部屋――光が届かぬ、薄闇の一室。
「……諒?」
蜘蛛丸はそっと戸を押した。 畳に影が落ちる。 そこに、諒がいた。 静かに佇み、何かを見つめるように、動かずにいた。
声をかけようとしたその瞬間、 空気が微かに揺らいだ。
諒の肩が震え、ゆっくりと顔を上げる。 けれど、その瞳はもう――諒のものではなかった。
「……久しいな、蜘蛛の主よ。ここは静かでいい。」
低く、艶のある声。 赤みを帯びた黄色の耳が頭に現れ、銀色の瞳が薄闇を射抜く。 ボリュームのある尾がゆらりと揺れ、静かに空気を撫でた。 諒の体を借りた狐が、そこにいた。
蜘蛛丸は息を呑む。 狐の出現は珍しい。普段は奥深くに潜み、そう簡単には顔を見せぬ。 その理由を察した蜘蛛丸の胸に、冷たい予感が走る。
「……何の用だ、狐」
「用、とな。我がこの薄闇を好むことくらい、そなたも知っていよう。静けさこそが、心を鎮める薬であろう?」
蜘蛛丸の眉が動く。狐は微笑み、尾をゆるやかに揺らした。
「それに――彼奴が泣きそうであったからな。放っておけぬであろう?」
「……泣きそう?」
「そうだ。そなたを見て、心が揺れておる。生きる意味だの、愛だの……人間とは実に厄介なものを抱え込む生き物よ。捨て置けばいいというのに」
その声音は穏やかだが、どこか見下ろすような響きを含んでいた。 狐は顎を上げ、冷ややかに続ける。
「ゆえに我が出てきた。彼奴が壊れぬよう、心の隙を埋めてやるためにな。――高貴なる我が、な」
「……護るために、出てきたというのか」
「当然であろう。我らはあの者の一部、魂の核よ。そなたにどうこう言われる筋合いはない」
狐は一歩進み、蜘蛛丸の前に立つ。 赤金の耳がかすかに動き、尾が畳を擦る。 その目は銀色に光り、まるで相手を試すようだった。
「だがな、蜘蛛丸。お主が揺れると、彼奴も揺れる。……そのことを忘れるでないぞ」
「何が言いたい」
「お主が愛を思い出すなら、彼奴もまた、痛みを思い出すということだ。――似た者同士であろう?」
蜘蛛丸は目を伏せた。 狐は小さく笑い、距離を取る。
「まあ、心配はいらぬ。我がいる間、彼奴は壊れぬ」
「狐……」
名を呼んだとき、 諒の身体がふっと傾ぎ、光のような尾が消えていった。
次の瞬間、諒が力を失って座り込み、息を吐く。 蜘蛛丸は駆け寄り、ためらいつつもその肩を支えた。
「……また、変な夢見てた気がする」
「夢ではない。……お主の中の狐が出ておった」
諒は目を瞬かせ、どこかぼんやりとした表情で首を振る。
「……あいつ、あんまり好きじゃないんだ。俺が気づかないうちに勝手に動いて、誰かを傷つけるからさ…」
その声は小さく、どこか怯えていた。 蜘蛛丸はその言葉に短く息をのむ。
「……記憶は、ないのか」
「ほとんど。たまに夢の中で、冷たい銀色の目だけ、浮かぶ」
「……そうか」
諒は苦笑した。
「……なんか、俺が悪いことしたみたいで嫌だな。でも、狐のやつはたぶん、俺を守ってるつもりなんだろうけどさ…」
その笑顔は弱々しかったが、どこか諦めにも似た優しさがあった。 蜘蛛丸は黙ってその肩を支え、静かに立ち上がる。
薄闇の中、まだ消えぬ香の残り香が、静かに漂っていた。
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