第4話 揺らぎ

 朝。

 山の屋敷は霧が薄れ、障子越しに淡い光が射し込んでいた。外では鳥が鳴き、炉の火がぱちぱちと音を立てている。

 蜘蛛丸は薬湯を調合しながら、昨日の惨状を思い返していた。焦げた鍋、折れた箒、そして紫煙に包まれた薬棚。思わず苦笑が漏れる。

「……本当に、次は何を壊す気だか」

 その独り言に、背後から声が飛んだ。

「もう壊さない。むしろ、掴むぜ」

 蜘蛛丸はぴたりと手を止めた。振り向けば、諒が湯呑みを両手に持って立っている。寝癖のついた髪、まだ寝ぼけたような顔――けれど目だけは真っすぐだった。

「……掴む?」

「うん。蜘蛛丸さんの心」

「……。何を言っておる」

「いやー。昨日、手伝い全部失敗したからさ。せめて、気持ちくらいは成功させてえなって思って」

 軽く笑って言う諒の表情に、冗談ではない熱があった。その真剣さが、蜘蛛丸の胸をひどくざわつかせる。

「吾輩は――」

蜘蛛丸は言葉を探すように唇を動かした。

「そういうものを。…もう持たぬ」

「そういうもの?」

「愛し、愛される、というような者を」

 静かに告げるその声には、冷たさよりも痛みが混ざっていた。諒はしばらく黙っていたが、やがて一歩、近づいた。

「……でもさ?決めたとしても、心って動くもんじゃん?」

「動かぬように縛っておる」

「んだそれ?縛れるもんなん?」

「……長く生きれば、な」

 蜘蛛丸はゆっくりと視線をそらした。

それでも、諒がまた一歩近づくのが分かる。

「それでもさ、俺は……好きだよ?」


 蜘蛛丸の手がわずかに震えた。薬匙が瓶の縁を鳴らし、静寂が割れた。

「……馬鹿者。何も知らぬくせに」

「そりゃ知らないけどさ。感じたんだよ。昨日」

 その言葉の真っ直ぐさが、蜘蛛丸の胸を貫いた。

長い孤独の中で、誰にも触れられなかった場所に、火がともるような感覚。彼はそれを振り払うように、袖で口元を隠した。

「……これ以上は、近づくな」

「どうして?」

「お主を、喰いたくなる」

 その声は、脅しのようで、どこか震えていた。

諒は驚きながらも、少しだけ笑う。

「なら、もう安心だわ」

「安心?」

「たぶん俺、もうあんたに“喰われてる”から」


 蜘蛛丸の瞳が揺れた。紫の光が淡く震える。そして、言葉を返せないまま、諒の視線を避けた。


 ――外では霧が完全に晴れ、山の木々が黄金に光っていた。蜘蛛丸の胸の中で、忘れていた“ぬくもり”が小さく芽を出していた。

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