絲縁

@koooda

蜘蛛丸編

山の邂逅と揺らぎ

第1話 出会い

 夜の底を、諒は歩いていた。


 街の灯りはとっくに眠り、残っているのはコンビニの看板の青白い光だけ。人影はない。自販機の前に転がる空き缶が、風に転がって転々と音を立てる。


 知らない街だった。どこをどう歩いたのかも覚えていない。とにかく遠くへ行きたかった。もう何も見たくなかった。

 ビルの間を抜け、線路を越え、舗装が途切れたあたりで初めて夜の匂いが変わった。湿った土と草の匂い。街の音が遠ざかる。

 

 気づけば、山のふもとだった。霧が薄く流れて、木々の影がゆらめいている。夜明け前の空は、まだ藍色のまま。諒は、息をつきながら笑った。

「……もう、いいや」

 声が自分のものとは思えなかった。靴底がぬかるみに沈む。立ち止まったその先、霧の向こうに、人影があった。


 ひとりの男が、静かに立っていた。


 短く整えられた黒髪が風に揺れて、前髪が斜めに分かれて額に影を落とす。両耳で揺れる赤い房の耳飾りが、霧の白の中で異様に目立っていた。

 着物姿。細い体に不釣り合いなほど長い手足。白磁のような肌。

 そして、深い紫の目。その瞳が、諒を射抜くように見た。


 息をのむ。妖艶だった。

 けれど、その表情はどこか、寂しげでもあった。


「……人?」


 声をかけても、返事はない。ただ、男は静かに首を傾げた。細い指が、まるで風の流れをなぞるように動く。諒は、もう笑うしかなかった。

「……ああ、やっと、終わるのかもな」

 そう言って、体の力を抜いた。視界がぐらりと揺れ、霧がぐんと近づいて——

 地面が冷たい。倒れ込む瞬間、誰かが確かにこちらへ歩み寄る気配があった。その白い指が、ゆっくりと伸びてきたのを見た。


 ——そこで意識が途切れた。


 夢のような声が、耳の奥で響いた。

「……お主、息があるか」

「……あのまま死ぬかと思ったわ」

 額に何か柔らかいものが触れる。湿った布の感触。諒はうめき声を漏らした。

「……殺すなら、早くしろよ」

「吾輩は助けている。寝言を申すな」

 声は低く、静かで、それでいて不思議と安心できる。諒はぼんやりと笑った。

「……夢だな、これ」

「夢ならば、目覚めるまでゆっくりしていろ」

 また意識が沈んでいった。


 次に目を覚ましたとき、木の香りがした。古い梁、紙障子を透かして入る淡い光。外からは風にそよぐ竹の音が聞こえた。

「……ここ、どこだ……?」

「吾輩の棲処だ」

 襖の向こうから声が返ってくる。そこに立っていたのは、あの夜の男だった。短い黒髪が陽に透けて紫を帯び、耳元で赤い房が揺れる。紫の瞳はまっすぐこちらを見つめていた。

「お主、山のふもとで倒れておった。……死ぬところであったぞ」

「助けてくれたのか?」

「うむ。吾輩は蜘蛛丸と申す。怪異の端くれよ」

「怪異……?」

「人が人ならざるものと呼ぶ存在だ。だが、吾輩は人を喰わぬ」

 淡々とした口調だったが、どこか柔らかい。諒は苦笑した。

「……怪異に助けられるなんて、皮肉だな」

「皮肉も何も、運命とはそんなものよ。……湯を沸かしておいた。飲むか?」

 差し出された湯飲みからは、薬草の匂いが立ち上る。湯気の向こうで、蜘蛛丸の目が穏やかに細められていた。

 諒はそれを見つめながら、小さくつぶやいた。

「……俺、どこまで歩いてきたんだろう」

「どこから来た?」

「もう、思い出せない。……どうでもいい」

「ふむ。では、お主の旅はまだ途中ということだ」

「途中?」

「行くところがないなら、まだ道の上よ。終わりではない」


 その言葉に、諒は何も返せなかった。胸の奥で何かがほどけるような、そんな感覚だけが残った。そして、気づけば涙がこぼれていた。

「泣くほどのことでもあるまい」

「……体が勝手に……」

「そうか。では、泣いておけ。泣くのも人の生きる仕業よ」


 蜘蛛丸はそう言って立ち上がり、縁側の方へ歩いていった。外の光が差し込んで、彼の白い肌を照らす。


 朝が来ていた。


 長い夜の果てに、ようやく一筋の光が差した。

 それが、諒と蜘蛛丸の最初の出会いだった。

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