漱石とモハメット


「漱石とモハメット」

サキコは、日本代表として、ロンドンで開催された世界カサブランカファンクラブの上映会に参加する機会があった。母の愛理はハリウッドのワーナーで脚本助手を務め、この映画の制作にも関わっていた。サキコの叔父はリックのモデルとして知られ、サキコ自身はすでに有名な脚本家として活躍していた。

上映会場には、出演したイングリッド・バーグマンも招待されていた。彼女は微笑みながら、意外なことを口にした。

「この映画、初めて観ました。素晴らしい映画ですね」

聞いていた観客は、単なるジョークだと思って大笑いした。しかし、実際には彼女は、カサブランカが上映されていないと考えていたのだった。

上映会が終わり、国際ファンクラブの仲間たちと友情を温めた後、サキコと助手のケイコはホテルに戻った。ロビーで二人は、ピンクシャンペンを手にしながら話す。

ケイコはにこりと笑いながら言った。「あの図書館、調べておきましたよ」

「ありがとう。明日行くわ」とサキコ。

「了解です。お供します」とケイコ。

サキコはふと思い出した。以前、夏目漱石の『虞美人草』を映画化したとき、監督がこう語ったのだ。

「キリスト教とイスラム教は、同じルーツを持っている。あの嘆きの壁でメッカとキリスト教の聖地が仕切られているなんて、おかしい話だ。キリスト教を守るある集団に、口封じされてしまったのだ」

その言葉が、今もサキコの心に残っていた。ロンドンに来た今、その言葉の意味を確かめずにはいられなかった。


ロンドンの雨は、図書館の石畳を薄く洗っていた。

サキコは、漱石が晩年に書き残した断片の上に、静かに指を置いた。頁は古く、紙はわずかに黄ばみ、文字だけが時間を押し返すように立っていた。

漱石は、コーランそのものについて多くを語らなかった。

だが沈黙には理由がある。

サキコは、それを知り始めていた。

「同じルーツ……か」

彼女はその一文を、何度も読んだ。

“Abrahamic root.”――漱石が残した唯一の英語のメモが、淡い鉛筆で端に残っていた。

キリスト教も、ユダヤ教も、イスラムも、同じ一本の血管から枝分かれした宗教。

ならば、なぜ争うのか。

そして、なぜ真実を語る者は、いつも遠ざけられるのか。

その疑問は、彼女がロンドンに来た理由でもあった。

閉館まであと十五分。

高い窓から落ちる夕光だけが、静かな閲覧室の空気に線を引いていた。

その光の先に、古い目録カードが一枚だけ歪んで差し込まれているのを、サキコは見つけた。

表には、誰かの癖のある字で、こう書かれていた。

“Soseki — Suppressed Notes (1907–1914)”

漱石――抑圧された記録。

「抑圧……?」

サキコはカードを裏返した。

裏には、短い書き置きが鉛筆で記されていた。

“Access restricted by Order of the Covenant.”

契約の結社の命令により、閲覧制限。

契約の結社――その名を、彼女はどこかで聞いていた。

キリスト教世界の“防衛”を名乗り、歴史の“修正”に関わってきた影の組織。

漱石が沈黙を選んだ理由が、静かに形になり始めていた。

ページの向こうに、漱石の影が見える気がした。

彼は知りすぎた――それだけのことなのだろう。

そのときだった。

閲覧室の奥で、コートを着た男が一人、サキコの席をじっと見ていた。

目をそらさず、わずかに頷いた。

まるで、「気づいたな」と言うように。

胸の奥で、冷たいものがゆっくり動いた。

サキコは、そっとノートを閉じた。

漱石の沈黙が、自分の身にまで伸びてくる音がした。


了解しました。

以後 サキコ・ミウラ(SAKIKO MIURA) に統一します。

先ほどの章も、人物名をすべて サキコ・ミウラ に置き換えて再提示しますね。

(文章内容は変えず、名前だけ修正しています。)


《第2章 警告》

ロンドンは夕方になると、空気が少しだけきしむ。

サキコ・ミウラは図書館を出て、灰色の階段を降りながら肩越しに振り返った。

先ほど自分を見ていた男の姿は、もう窓越しに見えなかった。

だが、消えたことがむしろ不自然だった。

石畳に落ちる雨は細く、風に混じって彼女のコートの裾を濡らした。

「契約の結社……」

その名前を口にした瞬間、ロンドンの街が少し遠くなったように感じた。

情報は少ない。

表舞台に出ない。

ただ、歴史の分岐点には、必ず彼らの影がある――それだけが、学者たちの間にかろうじて残された噂だった。

サキコは、図書館で写した漱石のメモを確認した。

“Abrahamic texts… 14th disciple… erased.”

アブラハムの伝統。

十四番目の弟子。

消された名。

消された、という言い回しは、漱石には珍しい。

彼は事実を淡々と書く人だった。

だがその日は、何かを急いでいた。

文字の線はわずかに揺れていた。

彼女が考え込んでいると、背後で足音が止まった。

「サキコ・ミウラさんですね?」

低い声。

振り返ると、昼に見たコートの男が立っていた。

年齢は四十代。黒い革手袋をはめている。

顔には笑みも敵意もない。

ただ“確認”のために話している、という空虚な声。

「どなたですか」

「あなたが閲覧した文書について、お話ししたいことがあります」

男はそう言って、一歩だけ近づいた。

距離はまだ三メートルあったが、冷えた金属のような空気が、首元に触れた。

「漱石のノート……あなたは、もう少し読んだ方がいい。中途半端に理解するのは、危険です」

「危険?」

サキコは眉を寄せた。

男は頷いた。

「特に“十四番目の弟子”については。あれは宗教学でも歴史学でも扱われない領域です。扱ってはいけない、と言ったほうが正しい」

「どうして?」

「世界が壊れるからですよ」

言葉は淡々としていたが、その静けさこそ脅しだった。

「では、なぜ漱石は触れたんです?」

サキコの問いに、男はほんのわずか、表情を揺らした。

「賢い人は、ときに愚かにもなる」

それだけ言い残すと、男は歩き出した。

だが十歩ほど進んだところで、振り返らずに言葉を落とした。

「あなたも、賢い選択を」

その背中が霧に混じるように消えていった瞬間、サキコの胸の奥で何かがはっきりした。

――漱石は、消された真実に触れた。

――そして今、その真実に自分も触れようとしている。

雨が強くなった。

だがサキコは立ち止まったまま、ポケットの中でノートを握りしめた。

「十四番目の弟子……」

声に出すと、その言葉は意外なほど静かで、重かった。

漱石が沈黙した場所の続きを、自分が書き継ぐ。

その意志が、冷たい雨にも揺れずに立ち上がってくるのを感じた。

サキコ・ミウラが資料の束を机に広げていると、控えめなノックの音がした。

「入ってるよ、ケイコ」

扉の隙間から顔をのぞかせたのは、長年の助手・ケイコだった。

いつものように大きめのトートバッグを肩に下げ、手にはコンビニの珈琲を二つ持っている。

「差し入れです。徹夜でしょう? 顔がちょっとこわいですよ、サキコさん」

「徹夜になるつもりはなかったんだけどね。気づいたら朝だったわ」

ケイコは苦笑しながら机の上に珈琲を置き、資料を一枚手に取った。

「これ……“十四番目の弟子”の章、だいぶ進んでますね」

「ええ。ようやく骨格が見えてきたわ。ユダが、もう一人の弟子――

“転がる石(ローリング・ストーン)”と呼ばれた人物を歴史から消したという仮説」

ケイコは目を細め、興味深そうに頷いた。

「サキコさんは、本当に“消された史実”があったと思ってるんですか?」

「歴史に穴がある時は、誰かが意図的に埋めた可能性がある、ってだけよ。

それに……」

サキコは資料の束の中から一枚の古写本のコピーを引き抜いた。

「ここ。削られた跡の部分。これは偶然じゃない」

ケイコはサキコと違って、確証よりも“バランス”を重んじる性格だ。

だからこそ、彼女の反応はサキコにとって大事な指標になる。

「ただ……」とケイコが言った。

「もし、これが本当のことだったら、歴史学者や宗教学者の一部は反発しますよ。

『十四番目の弟子が“石と共に歩む者”だった』なんて、理解する人は少ないでしょう」

サキコは、静かに笑った。

「だからこそ書くんじゃない。

“歴史に残らなかった者たちの物語”――それが私たちの仕事でしょう?」

ケイコはやれやれと肩をすくめたが、その目はどこか楽しげだった。

「わかりました。じゃあ私は周辺資料を洗い直します。“石”の象徴がどの時代にどう扱われていたか、宗教横断で調べますね」

「助かるわ。あなたがいてくれると本当に助かる」

ケイコは軽く会釈して部屋を出ていった。

残った静けさの中で、サキコは珈琲に口をつける。

冷めかけた苦味が、むしろ思考を鋭くさせた。

——十四番目の弟子。

ユダがなぜ彼を消したのか。

彼は“何を転がし”、何を“伝えたくなかった”のか。

サキコのペン先が、また走り始める。


了解しました。では、前回からの物語のトーンを保ちつつ、

サキコ・ミウラと助手のケイコが動き出す 次の章 を続けます。


《続き》

午後になって、サキコは執筆をいったん止めた。

机の横で光るスマートフォンに、ケイコからメッセージが届いていた。

――「例の“石”の象徴、面白い資料を見つけました。編集室に戻ったら話します」

いつもながら、仕事の早い助手だ。

サキコは上着を羽織り、編集室へと向かった。

***

編集室に入ると、ケイコが既に大きなホワイトボードを広げ、

複数の付箋を貼りつけていた。

「サキコさん、これ見てください」

ケイコが示したのは、紀元前から各地で使用されていた“石の隠喩”の一覧だった。

「まず、メソポタミアでは“石”は契約。

ユダヤ教では“礎”や“導き”。

ギリシャでは“転がる石”は、運命に抗う者の象徴として扱われていたようです」

サキコはうなずきながら、ホワイトボードに目を落とす。

「つまり……『転がる石』と呼ばれた弟子は、

運命に抗い、約束を破り、既存の教義から外れた存在だった可能性があるってことね」

ケイコは腕を組み、続けて言う。

「はい。それと……もう一つ気になる点が。

“石”は時代によって、神に近い象徴として扱われることもあれば、

“信仰を揺るがすもの”として扱われることもあったんです」

サキコの目が鋭く細まる。

「ユダがその弟子を“消した”理由が、それなのかもしれない」

ケイコは小さく息をのみ、ゆっくりと頷いた。

「つまり……十四番目の弟子は、イエスの教えを歪ませる可能性があった。

もしくは、イエス自身の真意を“別の形”で伝えてしまった――」

「どちらにせよ、ユダにとって“危険”だった。

彼が裏切り者になる前から、既に何かが起きていた……ということね」

サキコはホワイトボードを見つめながら、手元のメモ帳に一行書きつけた。

——“転がる石の弟子は、裏切りを予見した者である。”

ケイコは息を吐き、少し笑みを戻した。

「サキコさん。やっぱりテーマがだんだん重くなってますよ?」

「重くなるのは仕方ないわ。

消された者を描くっていうのは、いつだってそういうことよ」

ケイコは付箋をもう一枚取り出し、ホワイトボードの端に貼った。

「じゃあ私は次、“十四番目の弟子”が記録から消えた年代をもっと正確に調べてきます。

複数の写本に“跡”が残ってるはずです」

「お願いね、ケイコ。あなたの勘は外れたことがないから」

「へへ。サキコさんの勘に引っ張られてるだけですよ」

軽い足取りでケイコが部屋を出ていく。

残された静けさの中で、サキコは再びメモ帳を開いた。

歴史とは、残されたものだけでは語れない。

むしろ―― 消されたものこそが真実に近い。

サキコの胸の奥に、ひとつの確信が生まれつつあった。

“十四番目の弟子”は、消されるほどの理由を持っていた。

そしてその理由こそが、物語の核心である。

ペン先が再び走り出した。


ロンドン大学図書館の午後は、いつも静かだった。

分厚い石壁が街の騒音を閉ざし、

古い時計の針の音だけが、広い閲覧室に淡く響いている。

サキコ・ミウラは、漱石が英国滞在中に参照したとされる

古い宗教学関係の資料を前に、眉を寄せていた。

その隣の席は空いている。

助手のケイコは、別階の古文書室へ資料を取りに行っていた。

ふと、背後に気配が落ちた。

「三浦サキコさんですね」

声の主は、閲覧室の規律に似つかわしくない、

黒いロングコートの男だった。

図書館のスタッフではない。

そして、この場の誰とも空気が違っていた。

「ここは静かな図書館よ。私に何の用?」

サキコは声を低め、資料を閉じた。

男はひどく静かな声で言った。

「あなたが調べている“ある記録”について警告に来ました。

ここロンドンでは……触れないほうがいい話があります」

サキコの胸に冷たいものが落ちた。

「漱石の渡英時代に関する調査よ。誰に迷惑をかけているの?」

「あなた自身です。

あなたが読み始めた文献は、百年前にも“封じられた”。

漱石自身も、最終的には手を引いた」

男は机の上に封筒を置いた。

「彼が手を引いた理由を知りたいでしょう。

ですが、深追いすれば……あなたと、同行者のケイコさんにも危険が及ぶ」

その名前を出された瞬間、

サキコは椅子を握った指に力が入るのを感じた。

「ケイコのことを調べたの?」

「必要な範囲で。

あなたが退けば、我々は何もしない」

「“我々”?

あなた、どこに所属しているの?」

男は答えず、代わりに小さく首を振った。

「漱石が触れなかった領域――

それは“イエスの十四番目の弟子”に関するものです。

その存在を文献から消したのは、歴史ではなく“意思”です」

男は踵を返し、静かに閲覧室を離れていった。

重いコートが床を擦る音だけが、奇妙に長く響いた。

サキコは、図書館特有の冷気の中で、

しばらく封筒を見つめていた。

やがて、震える指で封筒を開けると、

中から古びた羊皮紙が一枚、姿を現した。

そこには英語でもアラビア語でもない文字で、こう刻まれていた。

“弟子は十四人いた。

ひとりは石となり、ひとりは影となった。”

サキコは息を飲んだ。

その瞬間――

「サキさん!」

階段を駆け上がってくる足音とともに、ケイコが姿を見せた。

「なんか変な人が、私にも声かけてきて……サキさん、大丈夫?」

サキコは羊皮紙を胸に抱え、はっきりと言った。

「ケイコ、急いで席に座って。

――歴史は、私たちに何か話そうとしている」

ロンドンの冬の光が、大きな窓から差し込み、

羊皮紙の文字をぼんやりと照らした。


「わからない。でも――ただの資料じゃない。」

サキコは震える指先で羊皮紙の端を押さえ、光の角度を確かめるようにそっと傾けた。

その瞬間、文字の影がわずかに揺れ、インクの線が別の形に見えた。

ケイコが小さく息をのむ。

「……サキさん、これ、さっき見たときと違いません? こんな模様、ありました?」

サキコはゆっくりとうなずいた。

「動いているの。記録じゃなくて、導こうとしている……そんな感じがする。」

講義室の扉が、ひとりでに微かに鳴った。

二人は反射的にそちらを見たが、誰もいない。

冬のロンドン特有の湿った冷気だけが、廊下から流れ込んでくる。

ケイコは席で身を縮めながら囁いた。

「サキさん……さっき、あの“変な人”が声をかけてきたの、もしかして、この羊皮紙のことを……?」

サキコは答えず、羊皮紙に浮かぶ文字の揺らぎを追った。

そこに現れつつあるのは、地図の輪郭のようでもあり、古い紋章のようでもあり、まだ形を定めていない何かだった。

「ケイコ。」

サキコの声は低いが、確信を帯びていた。

「これが示す場所へ行かなきゃいけない。私たちが――選ばれたのかもしれない。」

ロンドンの冬の光はさらに弱まり、羊皮紙だけがわずかな温度を帯びて、手の中で脈打つように光った。

「サキさん……本当に行くんですか? 地図みたいに見えるけど、はっきり読めないし……危なくないですか?」

ケイコの声には不安が混じっていた。講義室の冷たい空気の中で、その揺らぎだけが生々しく響いた。

サキコは羊皮紙を机に広げ、静かに見つめていた。

文字はゆっくりと滲み出し、霧のように形を変え、細い線となって絡み合い、やがて一つの象徴――円と、その中心を貫く斜線――を浮かび上がらせた。

「危ないかもしれない。でも、行かなくてはならない気がする。」

サキコはそう言いながら、紙面を指先でそっとなぞった。

ケイコは椅子に座ったままサキコを見つめた。

「でも……さっきの人、ただの変質者じゃなかったのかも。私たちをつけてたみたいで……」

「わかってる。」

サキコは言葉を遮らず、しかし迷いのない声で答えた。

「でも、この羊皮紙が“選んだ”のだとしたら、もう後には引けない。」

そのとき、講義室の奥の暖房が低く唸る音を立てた。

窓の外では、ロンドンの空が夕方の色を失い、墨を流したような濃い灰色に変わってゆく。

ケイコは小さく手を握りしめ、決意を固めたようにサキコの隣へ歩み寄った。

「……わかりました。サキさんひとりで行かせるわけにはいきません。助手ですから、ついていきます。」

サキコはその言葉にわずかに微笑み、羊皮紙を丁寧に巻いた。

「ありがとう、ケイコ。」

部屋の扉がかすかに揺れたように見えた。

誰も触れていないはずなのに、薄暗い廊下の方へと、冷たい風が吸い込まれていく。

羊皮紙の中の線が、まるで呼応するかのように、一瞬だけ強く光った。





んん

廊下の奥に立つ窓から、冬の光がゆらゆらと差し込んでいた。

サキコは羊皮紙を広げ、文字の揺らぎに目を凝らした。

線は微かに動き、まるで呼吸しているかのように変化する。

「サキさん……これ、本当に読めるんでしょうか?」

ケイコは椅子に座り、手を組みながら不安そうに見つめた。

「読めるかどうかは問題じゃない。感じるの、何かが私たちに語りかけているって」

サキコの声は低く、しかし揺るぎなかった。

文字の波紋の中に、薄い線で描かれた地図のような形が現れた。

サキコは指先でその輪郭をなぞり、さらに文字を追った。

「ここ……どこかで見た記憶がある……でも思い出せない」

そのとき、廊下の向こうからかすかな足音が響いた。

「……誰か来た?」

ケイコが耳を澄ます。

「追跡者……かもしれない」

サキコは羊皮紙を胸に抱え、立ち上がった。

二人は廊下を走り抜ける。

足音が背後から迫る中、サキコは薄暗い光の中で文字をちらりと見た。

線がまた揺れ、今度は“模様”のようなものを浮かび上がらせた。

「サキさん……!」

ケイコが小さく叫ぶが、サキコは振り返らず前だけを見る。

廊下の曲がり角で、影がふいに消えた。

「……え?」

ケイコが息をのむ。

サキコの胸に、誰かの存在が触れたかのような感覚が走った。

その瞬間、低く穏やかな声が耳元で響く。

「サキさん、ここからは私が――」

振り返ると、誰もいない。

ただ、影のような気配だけが残り、廊下の冷たい光に溶けていった。

サキコは羊皮紙をぎゅっと握った。

「……誰かが、私を守ってくれている」

ケイコは目を丸くした。

「サキさん……本当に、誰か来てくれたのですね」

「名前はわからない。でも、行くべき道は示されている」

羊皮紙の文字が最後に光を放ち、かすかな輪郭を描く。

それは、14番目の弟子の名と、消されかけた歴史の影をかすかに示していた。

二人はしばらく立ち尽くす。

誰もその正体を知ることはできない。

でも確かに、歴史の声が、二人に届いていることを感じていた。

――冬のロンドンの空は深く灰色に染まり、羊皮紙だけが淡く光を帯びていた。

サキコは静かに息を吐き、ケイコの手を握った。

「これから……行くしかないわね」

ケイコはうなずき、二人は影に包まれた廊下を進む。

モリオの存在は影の中に隠され、誰もその正体を確認できない。

だが確かに、サキコは一人ではない。

羊皮紙の光は消え、静寂が部屋を満たした。

それでも、歴史はまだ語り続けている――二人にだけ、微かに、確かに。


あとがき

もちろんです。こちらが、これまで整理したあとがき部分の日本語文です(修正・追記済みの最終版):


あとがき

夏目漱石とイスラム教(モハメット教)

都電「面影橋」から次の駅でサキコは降りた。

そこには大学があり、サキコは以下について長々と講義を始めた。

「漱石がイスラム教について関心を持ったのは、主にロンドン留学時代(1900年〜1902年)で、彼の『宗教一般に対する関心』の一部として研究されました。」

「調べた主な資料では、漱石の蔵書や手紙などから、彼がイスラム教に関して具体的に参照した資料として、お手元にあるものが知られています。」

Thomas Carlyle の著作

特に『On Heroes, Hero-Worship, and The Heroic in History(英雄と英雄崇拝)』の「The Hero as Prophet. Mahomet: Islam(予言者としての英雄。マホメット:イスラム)」の章を読み込んでいます。

漱石はこのカーライルのマホメット観を通じて、英雄的な人物の精神性や歴史における役割といった側面からイスラム教に触れました。

Gibbon の著作

エドワード・ギボンの大著『The History of the Decline and Fall of the Roman Empire(ローマ帝国衰亡史)』には、イスラム教の勃興に関する記述が含まれており、漱石もこの部分を参照していたと考えられています。

その他、宗教史や比較宗教学に関する資料

漱石の留学時代の研究は広範な比較宗教学的視野を持っていたため、イスラム教をキリスト教などと比較する視点も持っていました。

「さて作品への影響ですが、漱石が調べたイスラム教に関する知識は、代表作の一つである『三四郎』に明確に反映されています。」

広田先生のモデルと描写

作中に登場する広田先生は、モハメット教の研究者という設定になっています。

広田先生のモデルは、漱石が敬愛していた内村鑑三とも言われており、漱石は広田先生を通して、当時の社会に対する精神的な批判や人生に対する達観した思想を表現しました。

作中での具体的な言及

広田先生の言葉として、「モハメット教の信者などになって見れば、今少しいい事があるだろう」という趣旨の発言が残されており、既成のキリスト教や世俗に対する批判的な視点、あるいは異文化・異宗教への関心としてイスラム教が用いられています。

これは、留学中に「異端の予言者」としてイスラム教に触れた漱石の関心を反映していると言えます。

「漱石にとって、イスラム教の研究は単なる学問だけでなく、当時の日本の精神的状況や文明批評を行うための重要な参照軸の一つとなっていたと考えられます。」

「ここで、ひとつの仮説ですが、

キリスト教とイスラム教は同じ考えではないのか?

宗教の違いは、ときに文化や国を隔てる壁のように語られる。もしその壁が思っているよりも薄いものだとしたらどうでしょうか。

キリスト教とイスラム教は、歴史の中で対立や誤解が強調されてきた。しかし、両者の根をたどれば、共通点の多さに驚かされる。たとえば唯一の神を信じるという教え。キリスト教の神(ヤハウェ)も、イスラム教の神(アッラー)も、もともと同じとされる唯一神である。さらに、アブラハム、モーセ、イエスといった人物は、両者にとって重要な預言者であり、聖書とコーランの両方に登場します。

決定的な違いと思われている“イエス”という存在も、実はイスラム教では敬意をもって扱われている。神の子とするキリスト教に対し、イスラム教は偉大な預言者の一人と位置づけられている。立場の差こそあれ、否定ではなく尊重が前提だと思います。

では、なぜ「違う宗教」として強く意識されてしまうのか。

原因は、教義そのものよりも、歴史と政治、そして人間の感情が作った“距離”にあるのかもしれない。争いの背景には宗教そのものではなく、権力や領土、文化摩擦が絡んでいた。つまり対立は教義ではなく、人間の問題だった可能性がある。

もしこの二つの宗教が「同じ源を持つ」という認識がより深まったなら、世界は少し優しくなるのではないか。宗教は異なる言語で語られただけの、同じメッセージを伝えているのかもしれない。

神はひとつ。

そのシンプルな真理に立ち返ることができたとき、宗教間の壁は、私たちが思うより容易に溶けていくのではないでしょうか。」






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