こわーい話...
yahho
第1話 芒原の虫翅
とある国に高名な僧がいた。隣の国のお殿様が身罷られ、そこへと向かい供養した。その帰り、家路につく途中のことだった。
自分の寺までは二つの山をこえねばならぬ、一日でたどりつけぬ道であったため、僧は宿をとることにした。
行きは良かった。晴天で特に順調な道のりであり、途中知己の僧がいる寺に泊めてもらっていた。
(失敗したのう。)
僧は思った。行きと同じ道のりのはずが、帰りは妙に足が重かった。予定の三分の二ほどのところで日は暮れ、今宵泊まるはずの寺につけなかった。
僧は修行中の身として、従者をつけておらず、馬もいない。
周りは芒すすきだらけの平原で、野宿をしようにも野犬の遠吠えが聞こえる。群れで襲われたらたまったものではない。
そんな急ぎ足の僧の目にうつったのは、古びた民家だった。僧は足をはやめ、茅葺の家の戸を叩く。
「ごめんください、少しよろしいですか。」
出てきたのは若い夫婦だった。僧は事情を話し、物置の隅でもいいので一晩とめてもらえないかと頼んだ。
「まあまあそれでは、長旅でお疲れでしょう。」
若い奥方は、僧をもてなした。たいしたものはありませんけど、と出されたなすときゅうりはたいそううまかった。
対して、旦那のほうは怪訝な目でじっと僧を見ていた。
致し方あるまい、若い夫婦の家にのこのこと旅人が上がり込むなどと。
僧の手持ちは少ない。最低限の旅賃しか持ち合わせていない。
それなのに、客人として夫婦は扱い、別部屋に寝床を用意してくれた。
柔らかな布団をありがたく思いながら、僧はなにかできることはないかと考えた。
そして、自分にできるのは、経をあげることくらいだと思い、経を唱え始めた。
いつもなら、経を唱えはじめると、終わるまでずっと集中しているのだが、今日は妙に外の音が気になった。
芒が風に揺れる音の他に、なにか鈴のような音が聞こえた。
(虫か。)
僧は経を唱えつつ、耳を澄ませる。
すると、その鈴の音は人の声だとわかった。
「どうするんだい、おまえさん。」
この家の女房の声だ。
「どうもしないよ。それでいいじゃないか。」
鈴の音のような声は、旦那のものだった。
奇妙な声だと僧は思った。しかし、一度はじめた経はやめない。
「そんなんじゃだめだよ、おまえさん。あたしゃ一人になりたくないんだ。」
女房は声を上げる。
聞こえないつもりで話しているようだが、僧の耳は人より優れていた。聞き耳はよくないと思いながら経に集中しようとするが、やはり声が耳に入る。
「あんたがそんなつもりでも、あたしはやるんだからね。」
(なにをやる気だ。)
僧の背筋がぞわりとした。
経をやめて喧嘩する二人を止めるべきか、それとも。
いや、経はやめない。やめないほうがいい。なぜか、僧は思った。
どうしてだろう。全身がざわつく。とうに剃りあげてつるつるになった頭まで毛穴が粟立つようだ。
(なんだ、これは。)
「さあ、やるよ。」
建てつけの悪い襖がひらかれた。
そこにはぎょろりとした目をした女が鉈を持っていた。
僧は眼球だけ動かし、口は経を唱えたままだ。
「どこへ行った、あの僧は。」
女はかさりかさりと音を立てて僧の前を横切る。
しかし、僧に気づかない。
「どこだ。逃げたのか。」
女が部屋を出る。
伸びた影は奇妙な形をしていた。到底、人のものとは思えぬその影は、もう一つの奇妙な影と重なった。
「探そう、あんた、探すんだよ。でないと、でないと。」
女は焦っていた。何を焦っていたのか。
「あんたを……。」
りりんと、鈴の鳴る音が聞こえた。
その音に続いたのは、紙をくしゃくしゃにするような咀嚼音だった。
咀嚼音は続いた。
僧はそのあいだ、ずっと経を唱えた。
唱え、音が終わるとともに、外へでた。
若い夫婦に挨拶することもなく、目を合わせることもなく、家の外にでると。
薄い茶色の虫の翅が落ちていた。
りぃん、りぃん。
芒の草むらから聞こえる虫の音が聞こえ、消えた。
僧は、ぼろぼろの虫の翅に手を合わせると、経を唱えたまま、夜明けまで歩き続けた。
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