第7話「這う巻物」
午後九時。フラクタルの扉が開いた。
入ってきたのは、二十代後半の男だった。長髪。無精髭。服は絵の具で汚れている。目は血走り、頬はこけている。
「いらっしゃい」
氷柱の声に、男は小さく頷いた。
カウンター席に座り、リュックから細長い筒を取り出した。
「陸(りく)です。ここで、変なもの引き取ってくれるって」
「コーヒー三百円と交換」
「はい」
陸は筒の蓋を開けた。
中から、巻物が現れた。
古い。紙は茶色く変色し、端は擦り切れている。
氷柱は巻物を受け取り、カウンターに広げた。
描かれているのは、地獄絵図だった。
炎の中で苦しむ人々。鬼に追われる亡者。血の池。針の山。
色彩は褪せているが、筆致は見事だ。
「江戸時代のものだね」
「祖父の蔵から見つけました」
陸の声は疲れている。
「これ、虫が湧くんです」
氷柱は巻物を見た。
確かに、紙は虫食いだらけだ。小さな穴が無数に開いている。
「虫食いだね」
「それだけじゃないんです」
陸は顔を伏せた。
「この巻物を模写しようとすると……虫が見えるんです」
「虫?」
「はい。紙の上を這う、小さな虫。最初は気のせいかと思ったんですけど、何度も見えて」
陸の手が震える。
「夜、寝ると悪夢を見るんです。虫に食われる夢。体中を這われて、皮膚を食い破られて。目が覚めると、全身に虫刺されみたいな痕があって」
氷柱はサイフォンでコーヒーを淹れ始めた。
「それ、本当に虫刺され?」
「……わかりません。でも、この巻物を見てから、ずっと続いてるんです」
「いつから?」
「三ヶ月前です」
陸は巻物を見つめた。
「俺、画家を目指してるんです。でも、全然売れなくて。スランプで、何も描けなくて」
「で、この巻物を見つけた」
「はい。これを模写すれば、何か掴めるかもって思って。でも……」
陸の声が小さくなる。
「描けないんです。この巻物を見てると、虫が湧いてくる気がして。怖くて、筆が持てなくて」
氷柱はコーヒーをカップに注いだ。
「お前の才能を食ってるのは、巻物じゃない」
陸は顔を上げた。
「え?」
「お前自身だ」
氷柱はコーヒーを陸の前に置いた。
「この巻物に、呪いはない。虫食いはあるけど、それは経年劣化。虫が湧くわけじゃない」
「でも、見えるんです――」
「幻覚だ」
氷柱は冷たく言った。
「お前は描けない自分を認められない。だから、巻物のせいにしてる。『巻物が呪われてるから描けない』って」
陸は黙った。
「違いますか」
「……違わない」
陸は顔を伏せた。
「俺、才能ないんです。何年も描いてるけど、一枚も売れない。誰にも認められない」
「で、諦めたい」
「はい」
陸はコーヒーに口をつけた。
「でも、諦めたって言いたくない。だから、巻物のせいにした。『呪われた巻物のせいで描けない』って言えば、自分の才能のせいじゃないって思えるから」
氷柱は巻物を見つめた。
「この巻物、美しいね」
「……はい」
「描いた人は、才能があった。技術もあった。でも、お前にはない」
陸は唇を噛んだ。
「わかってます」
「わかってるなら、なぜ描き続ける?」
「……わかりません」
氷柱は巻物を巻き戻した。
「この巻物、三万で買うよ」
陸は目を見開いた。
「三万?」
「ああ。江戸時代の絵巻物。虫食いはあるけど、保存状態は悪くない。三万なら安いくらいだ」
陸は立ち上がった。
「ふざけるな!」
陸の声が荒れる。
「同情してるんですか! 才能のない俺に、金を恵むつもりですか!」
「同情じゃない。適正価格だ」
「嘘つくな!」
陸は巻物を掴んだ。
「この巻物は、俺のものだ。お前に売る気はない!」
氷柱は何も言わなかった。
陸は巻物を引き裂いた。
ビリビリと音を立てて、紙が破れる。
地獄絵図が、バラバラになる。
「こんなもの……いらない!」
陸は破れた巻物をカウンターに投げつけた。
破片が散らばる。
「三百円」
氷柱は冷たく言った。
陸は財布から小銭を取り出し、カウンターに叩きつけた。
店を出る。
氷柱は破れた巻物の破片を拾った。
地獄絵図の一部。
炎に焼かれる亡者。
鬼の顔。
血の池。
美しい。
氷柱は破片を一つ一つ、拾い集めた。
翌日。
陸は再びフラクタルに来た。
「いらっしゃい」
氷柱の声に、陸は頷いた。
カウンター席に座る。
「コーヒー、三百円」
陸は小銭を置いた。
氷柱はコーヒーを淹れた。
陸に出す。
陸はコーヒーを飲んだ。
何も言わない。
一時間後、陸は店を出た。
翌日も、陸は来た。
コーヒーを飲み、一時間座って、店を出た。
その次の日も。
その次の日も。
陸はフラクタルの常連になった。
一週間後。
氷柱は陸に尋ねた。
「絵、描いてるか?」
陸は首を振った。
「描いてません」
「なぜ?」
「……描けないんです」
「才能がないから?」
「いいえ」
陸はコーヒーを見つめた。
「怖いんです。描いて、またダメだったら。また誰にも認められなかったら」
氷柱は何も言わなかった。
「だから、描かない。描かなければ、失敗しない」
陸は笑った。
「俺、終わってますね」
「終わってる」
氷柱は冷たく同意した。
その夜。
陸は自宅のアパートに戻った。
狭い一室。キャンバスが壁に立てかけられている。白いまま。
陸はポケットに手を入れた。
何かが触れる。
紙の感触。
取り出す。
巻物の破片だった。
地獄絵図の一部。
炎に焼かれる亡者。
「……」
陸は破片を見つめた。
いつ、拾ったのか。
覚えていない。
だが、確かにポケットに入っている。
陸は破片を握りしめた。
翌日も、陸はフラクタルに来た。
コーヒーを飲み、何も描かず、店を出た。
ポケットには、破片が入っている。
一ヶ月後。
陸は毎日フラクタルに通っていた。
氷柱は何も言わない。
コーヒーを淹れ、陸に出すだけ。
陸は何も描かない。
ただ、コーヒーを飲むだけ。
ある夜。
陸は自宅で、破片を取り出した。
地獄絵図の一部。
炎に焼かれる亡者。
陸は破片を見つめた。
「描けない」
陸は呟いた。
「もう、描けない」
破片をポケットに戻す。
明日も、フラクタルに行く。
コーヒーを飲む。
何も描かない。
それだけだ。
陸は破れた巻物の断片を、ポケットに入れていた。
第7話 了
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