第10話 霊障事件解決人・伊田裕美 金くれ・肝くれ(かねくれ・きもくれ)
序章:麻布の寺に住む女
東京・麻布。臨済宗の古刹「湯川寺」。
ここに住むのは二十二歳の若き女性、伊田裕美(いだ ひろみ)。怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の記者として働きながら、日々、霊障事件の解決に奔走している。
彼女の武器は伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。
• たむならの剣:司馬徽・水鏡先生より授かった霊剣。邪悪を討つ使命を帯びる。
• たむならの鏡:湯川寺に安置され、危機の際には住職・村田蔵六和尚に念を送る媒介となる。
• たむならの勾玉:魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして輝く。
戦闘時には梵字が刻まれた黒い法衣「黒梵衣」をまとう。これは邪霊を寄せ付けぬ衣であり、初めて禿鬼と対峙した際に村田蔵六和尚から授けられたものだ。
裕美の日常は質素である。麻布の「ビッグA」で半額弁当を買い、「半額弁当の間」で食べるのが日課。お気に入りはひれかつ弁当。飲み物は一年を通して熱いラテ。冷たいものは好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを食べる。身体を冷やすと邪霊に付け込まれる――それが彼女の信念だった。
彼女を支える人々は三人。
• 村田蔵六:五十代の陰陽師で湯川寺の住職。父のように裕美を見守る。
• 田野倉伝兵衛:雑誌編集長。裕美の取材に依存している。
• 高橋霊光:自称・怪奇現象解決人。だが役立たずで、浮気調査が主な稼ぎ。
第一章:ネットオークション
福島県会津。雪深い山里に、蘆名家の屋敷はひっそりと佇んでいた。
百歳を迎えた当主・蘆名政氏が大往生を遂げてから、屋敷は慌ただしい空気に包まれている。遺族たちは毎日、五つの蔵を巡り、遺品の整理に追われていた。
蔵の中には、絵画、壺、茶器、古文書――由緒ある名家らしい骨董品が並んでいる。だがその中に、妙にぞんざいに置かれた木の箱があった。
縦三十センチ、横五センチほどの小さな箱。埃をかぶり、誰も気に留めていない。
現当主・蘆名尚氏は、何気なくその蓋を開けた。
中には一枚の古地図が収められていた。紙は黄ばんでおり、墨の線はかすれている。
「……地図らしいが、どこを示しているのかさっぱりだな」
尚氏は眉をひそめた。地図に記された文字は、漢字のようで漢字ではない。読めそうで読めない、不気味な筆跡だった。
「宝の地図じゃないか?」と誰かが冗談めかして言った。
しかし尚氏は鼻で笑った。
「馬鹿らしい。こんなものに価値はない」
結局、一族は一致して決めた。
――すべてネットオークションにかけてしまおう。
その決定は、静かに、しかし確実に、遠く麻布の湯川寺に住む伊田裕美へと運命の糸を結びつけていく。
古地図に刻まれた不可解な文字は、やがて「金くれ・肝くれ」と呼ばれる呪詛の名を浮かび上がらせ、蘆名家の血筋を蝕むことになるのだった。
*
東京・鶯谷。
自称「霊障事件解決人」高橋霊光の事務所は、駅前の古びたアパートの二階にあった。表札には「高橋探偵事務所」とあるが、実態は浮気調査ばかり。霊障事件の依頼はほとんど来ない。
昼過ぎ、霊光はようやく目を覚ました。黒縁眼鏡の奥の目は眠たげで、真ん中分けの髪は脂ぎっている。突き出た腹をさすりながらテレビをつけると、蘆名家の遺品整理がニュースになっていた。
「蘆名家の秘宝か……どうせ金になる骨董だろう」
霊光は鼻で笑った。だが、ネットオークションの画面に映る小さな木箱と古地図に目が止まる。
――光っている。
霊光にはそう見えた。誰も入札していないその品に、なぜか心を惹かれた。気づけば「購入」ボタンを押していた。
数日後、手元に届いた古地図を広げる。墨の線は乱れていて、文字は漢字のようで漢字ではない。
「これは……何文字だ?」
考えても埒が明かず、霊光は麻布の湯川寺へ向かった。昼間は伊田裕美が出版社に出勤しているため、寺には住職・村田蔵六だけがいた。
「蔵六さん、これを読んでもらえますか」
霊光は地図を差し出した。
和尚は眉をひそめた。
「これは汚らしい地図だね……女真文字だよ」
女真文字――12世紀から13世紀にかけて中国華北を支配した金王朝の文字。和尚は慎重に目を走らせた。
「文章ではない。地図だ。出発点は東京の青梅、小作。そこから山を二つ越えて、川の裏側……そう記されている」
霊光の目がぎらりと光った。
「わかりました!」
和尚がまだ言い終わらぬうちに、霊光は地図をひったくり、寺を飛び出した。
「なんだ、あいつは……最後に『絶対に開けてはならない』とあったのに」
蔵六の呟きは、冬の冷たい風にかき消された。
第二章:川の裏
東京の青梅。
高橋霊光は小作駅につく。
「この地図によるとここから、北へ山を二つ越えるか」
やっとのことで、山を二つ越えた。途中川があり、霊光の胸はときめいた。
霊光は「川の裏」というのがわからなかった。
近所にはコンビニもない。
あるのは山と川。
「腹が減った」
ふと、見ると滝が流れていた。
「そうか、そういうことか」
霊光は冷たい滝に入った。
思った通り、洞窟がある。
びしょ濡れの霊光はライターをつけて、奥へ奥へと進む。
そして、あたりを付けて、穴を掘り始める。
すぐに見つかった。
30センチくらいの細長い壺だ。
「小さいな、これじゃ、金にしても大したことはないな」
封印を切って、蓋開ける。
白い煙が出てきた。
禿頭で手はあるが胴体は煙、それも二つできた。一つは頭に角が二つある。
「よく出してくれたな、俺は金くれ」
角があるのが肝くれだ。
霊光に地面に座りんで震えるばかり、
「肝くれよ、食っちまえよ」
「わしは命の恩人だよ、助けてくれ」
「しばらく何も食べてないので、頂くよ」
霊光の肩を両手で押さえて、頭からかじる。すでに霊光は気絶している。
「まずいっ、やはり年寄りは駄目だな、早速食料探しに行くか」
肝くれは霊光をぶん投げて洞窟より出ていった。
*
山道を歩く介護師・高足恵子。
夜の山は静かで、足音だけが響いていた。
家に帰る途中、ふいに強い風が吹いた。
木々がざわめき、落ち葉が舞い上がる。
その瞬間、恵子の姿は消えた。
足跡だけが土に残り、風が止むと同時に闇が戻った。
*
東京・警視庁。
セキュリティに守られた刑事部捜査一課の課長室。
深夜、誰もいないはずの机の上に、音もなく「スーッ」と一枚の手紙が滑り込んだ。
その隣には、血のついた掌が置かれていた。
生温かい血が机の木目に染み込み、鉄の匂いが漂う。
翌朝、庁舎は騒然となった。
課長・大方正道は手紙を読み上げた。
声は震えていた。
だが、警視庁は極秘に金塊を用意し、蒜田神社へ運んだ。
神殿は刑事たちによって包囲され、張り詰めた空気が漂う。
電波時計の針が二時を指した瞬間――
金塊が消えた。
音もなく、影もなく。
そこにあったはずの五千万円分の黄金は、まるで最初から存在しなかったかのように消え失せた。
「……な、何だこれは……」
大方課長は待機場所から飛び出し、目を丸くした。
刑事たちは銃を構えたまま、誰も動いていない。
誰ひとり来ていないのに、黄金だけが消えた。
録画されたビデオを確認すると、映像には金塊が映っている。
だが、次の瞬間には空っぽの神殿。
人影は一切ない。
映像をコマごとに解析し、画像ファイルに変換して調べても――
そこには誰も映っていなかった。
ただ、金塊が「消える瞬間」だけが記録されていた。
まるで、黄金そのものが意思を持ち、神殿から逃げ出したかのように。
刑事たちの背筋に冷たい汗が流れた。
「これは……人間の仕業じゃない」
蒜田神社の闇は、静かに息を潜めていた。
だが、その奥で、煙のような影が蠢いていることを、誰も知らなかった。
*
高足家では、その日のうちに行方不明届けを出していた。
だが所轄の警察は、書類を受け取るだけで動かなかった。
「山狩りをしてくれれば……」
家族の悔しさは、後に絶望へと変わる。
青梅の山奥。
草むらにぞんざいに捨てられた遺体。
それは高足恵子だった。
右の掌がない。
顔は地面に押し付けられ、両目は抉り取られていた。
頭蓋骨は砕け、形を保っていない。
首から胸にかけて食い荒らされ、内臓はすべて失われていた。
死体検案の結果、行方不明になったその日に死亡していたことが判明した。
警察は遺体を検案した時点で、熊の仕業ではないことを悟っていた。
掌が切り取られ、後に返されるなど、獣の習性では説明できない。
だが、公式発表は「熊による被害」。
理由は単純だった。
――霊障など認められるはずがない。
世間を混乱させぬため、真実は封じられた。
しかし、SNSは炎上していた。
「熊じゃない、煙の人影を見た」
「金を要求する霊がいる」
「警察は隠している」
投稿は瞬く間に拡散し、恐怖は都市伝説のように広がった。
恵子の原型を保たない遺体に――失われた掌だけが、後に返された。
山の闇は深く、風は冷たい。
だが、もっと冷たいものが人々の心に忍び寄っていた。
「熊」では説明できない恐怖が、静かに広がり始めていた。
第三章:霊障事件解決人
東京・麻布の湯川寺。
夜の「半額弁当の間」では、裕美と蔵六和尚が並んで食事をしていた。
今日は珍しくカツカレー。湯気が立ち上り、安っぽい容器の中でルーが光っている。
「しかし、裕美は半額弁当が好きだね」
蔵六が箸を止めて笑う。
「そうでもないのよ。半額ですむものを全額出すのが、もったいない感じがするのよ」
裕美はさらりと言い、カツを一口かじった。
「こんなのばかり食べていると病気になるよ」
「若いから大丈夫よ。――蔵六さん、熊の話はどう思う?」
和尚は少し考え込み、眉を寄せた。
「熊じゃないような気がする」
そのとき、テレビの地上波ニュースが流れた。
掌のない死体について報じている。
画面に映るモザイクの影が、二人の食欲を一瞬にして奪った。
裕美は箸を置き、低く呟いた。
「もしかしたら、邪霊かもしれないわね……少し、調べてみるわ」
*
東京・鶯谷。
霊障事件解決人、高橋霊光の事務所兼住居。
古びた階段の下に、一人の男が立っていた。
中年で、髪はきちんと整えられ、天知茂を思わせる苦み走った顔。
警視庁捜査一課課長、大方正道である。
「行くべきか、行かないべきか……」
彼は逡巡した。だが意を決して、階段を登る。
霊光は青梅の洞窟で気を失った後、誰もいないことに気づき、慌てて逃げ帰っていた。
今は事務所に戻り、何事もなかったかのように机に座っている。
大方と霊光は、よせばいいのにすぐに値段交渉を始めた。
「五百万円、いただきましょう」
「そんなには出せませんよ」
「じゃあ、三百万」
「出せて、百万円です」
霊光は不満そうな顔をしたが、やがて頷いた。
「それで手を打ちましょう。特別な価格ですので、誰にも言わないで下さい」
――一体誰に言うのか。
事務所の薄暗い蛍光灯の下で、二人の声だけが響いていた。
*
青梅の山奥。
廃屋となった寺は、かつて日本人の和尚が住んでいたが、死後は誰も寄りつかなくなった。
青梅は人の気配が薄い土地であり、中国人ですら鼻を引っ掛けない不毛の地と呼ばれていた。
今、その寺は金くれ・肝くれの住処となっていた。
五千万円の金塊が積み上げられ、月明かりに鈍く光っている。
「金くれよ、どうして自分で金を掘り出さないのか?そのぐらいわけないだろう」
煙の胴体を揺らしながら、肝くれが嘲笑する。
「ああ、しかし、こういうものは人からぶんどるからいいんだ。俺が一所懸命、金を掘っていたらおかしいだろう。それより、また、誰かの部位をくれ」
金くれの声は低く、湿った空気を震わせた。
*
横浜の繁華街、深夜。
電信柱の下に一人の女が立っていた。
帽子を深々と被り、長いコートは膝下まで垂れている。
彼女は獲物を待つ売春婦、名は須田久子。
最終電車が通り過ぎ、駅からまばらに人が降りてくる。
だが今夜、久子は客を拾えなかった。
帰路につこうとしたその時、突如突風が吹き荒れた。
看板がなぎ倒されるほどの強風。
久子は帽子を押さえ、しゃがみ込んだ。
その瞬間を境に、彼女を見た者はいない。
*
深夜。週刊誌編集長の机の上に、音もなく一通の手紙が置かれた。
隣には血のついた足首。
誰もいないはずの部屋に、それはあった。
翌日、週刊誌は「現代の宮崎勤事件」として大々的に報道した。
警察にも届けられ、警視庁と所轄の合同捜査が始まった。
地上波でも繰り返し放送され、世間は騒然となった。
手紙には前回と同じ要求が記されていた。
――五千万円を神社に用意しろ。
警視庁は賭けに出た。
金塊と共に警察官を配置し、神殿を包囲した。
だが、電波時計が刻む深夜二時。
金塊は忽然と消えた。
今度は警察官も共に姿を消した。
翌日。
産業廃棄物置き場に、須田久子と護衛の警察官の惨たらしい遺体が発見された。
肉は食い荒らされ、骨は砕け、原型を留めていなかった。
風が吹き抜ける廃棄場の鉄屑の間で、誰もが口を閉ざした。
――これは人間の仕業ではない。
承知しました。第四章を小説風にリライトし、恐怖と緊張感を煽るように描写を厚くしました。
第四章:廃寺の影
裕美は第一の被害者と第二の被害者の身内に取材を重ねていた。
しかし、共通点は見つからない。
「これだけ残虐な殺し方をする霊は聞いたことがない」
彼女は深い溜息をついた。
その足で国会図書館へ向かう。
古文書の匂いが漂う閲覧室で、裕美は江戸時代の文献をめくった。
そこに記されていたのは「金くれ・肝くれ」の伝説。
金くれは庶民から銭を巻き上げ、肝くれは惨殺の限りを尽くし、内臓を食らう。
裕美は背筋に冷たいものを感じた。
「これだ……今回の事件に最も近い」
その頃、廊下の影から高橋霊光が裕美を見つめていた。
「裕美の後をつけていれば、いつか必ず事件は解決できる」
彼はそう信じ込み、足音を忍ばせていた。
午後、裕美は「あなたの見えない世界」の編集長・田野倉伝兵衛を訪ね、事件の全貌を語った。
伝兵衛は目を輝かせ、机を叩いた。
「これは大スクープだ!賞与を弾むよ!」
*
湯川寺、本堂。
裕美は正座し、たむならの鏡を前に置いた。
「たむならの鏡よ、惨殺事件の真犯人を映し出して」
鏡の中に白い靄が広がり、やがて鬼のような顔が二つ浮かび上がった。
「間違いない……これぞ、金くれ・肝くれ」
映し出されたのは青梅の廃寺。
裕美は蔵六和尚と共に、深夜にそこへ向かうことを決めた。
車のハンドルを握る蔵六。助手席には裕美。
突如、道端に男が立ちはだかった。
高橋霊光だった。
「裕美先生、私も連れて行って下さい」
「なんでじゃ」
「いろいろわけがありまして……」
霊光は、自分が封印を解いた邪霊が相手だとは知らず、ただおこぼれを狙っていた。
*
やがて裕美は、鏡に映っていた廃寺を探し当てた。
黒梵衣の上に黒のダウンジャケットを羽織り、冷気の中に立つ。
蔵六が後ろに続き、霊光はおそるおそる足を運んでいた。
廃屋の角から白い煙が立ち昇り、二つに分かれる。
一つは金くれ、もう一つは肝くれ。
本堂には金塊の山が積まれていた。
一億そっくり残っている。
すでに金くれが食らっていたのだ。
「あなたが令和の宮崎勤……金くれ・肝くれね」
裕美の声は冷たく響いた。
霊光は腰を抜かした。
それは、彼が封印を解いた邪霊だった。
肝くれが霊光をじろりと睨む。
「俺たちを野に放ったバカ親父ではないか?……それもまずい」
「えっ!」
裕美と蔵六は霊光を見た。
「あんたが犯人ね」
霊光は必死に叫んだ。
「違う!違う!」
そして背を向け、闇へ逃げ出した。
裕美は振り返り、蔵六に囁いた。
「蔵六さん、隠れていて……たむならの剣」
右手に光が宿る。
司馬徽こと水鏡先生が授けた神器――この世の邪悪を断つ剣。
「容赦はしない……いくわ」
煙の中から声が響いた。
「それはこちらのセリフだ」
廃寺の本堂。
白い煙が渦を巻き、金くれと肝くれの姿が揺らめいていた。
二体は互いに目を合わせ、次の瞬間、煙が絡み合い、ひとつの巨大な影へと変貌した。
「俺たちは一つ……金も肝も、すべて喰らう!」
合体した怪異は天井を突き破るほどの巨体となり、顔は歪んだ二重の鬼面。
黄色い瞳が二つ並び、口からは血と煙が滴り落ちる。
裕美は黒梵衣を翻し、たむならの剣を構えた。
だが、怪異の腕は煙の鞭となり、左右から襲いかかる。
剣で受けても、衝撃は重く、足が土間にめり込む。
「くっ……防戦一方ね……」
蔵六和尚は本堂の柱に身を隠し、祈りを続けていた。
霊光は腰を抜かし、ただ震えている。
怪異の咆哮が響く。
「金をよこせ!肝をよこせ!」
その声は地鳴りのように寺を揺らした。
外では雨が降り始めていた。
ぽつり、ぽつりと冷たい滴が屋根を打ち、やがて豪雨となる。
雷鳴が近づき、空気は張り詰める。
裕美は息を整え、剣を高く掲げた。
「これで終わりよ……!」
怪異が巨腕を振り下ろす瞬間、裕美は踏み込み、剣を突き上げた。
刃は合体した金くれ・肝くれの頭に突き刺さる。
その瞬間――雷が落ちた。
轟音と閃光が本堂を貫き、剣を伝って怪異の頭へ。
「ぎゃあああああ!」
煙の巨体は一瞬にして裂け、光に呑まれ、消え去った。
残ったのは雨音だけ。
裕美は剣を下ろし、肩で息をした。
黒梵衣の梵字が淡く光り、やがて静かに消えた。
蔵六和尚が駆け寄る。
「よくぞ……よくぞ斬った……」
霊光は泥にまみれ、呆然と呟いた。
「俺が……俺が封印を解かなければ……」
雨は止む気配を見せず、廃寺の屋根を叩き続けていた。
だが、金くれ・肝くれの影はもう、どこにもなかった。
エピローグ
金塊を積んだ車が警視庁の前に止まった。
裕美、蔵六、そして霊光が並んで降り立つ。
重い箱を運び込むと、捜査一課課長・大方正道が待っていた。
「例の謝礼の百万円の支払いですが……」
裕美は目を丸くした。
「えっ、そんな約束をしていたのね、霊光は」
霊光は口を尖らせ、不満そうにうなずいた。
だが裕美は静かに微笑み、首を振った。
「報酬なんていりません。命を失った人たちのことを思えば、お金で心は救えませんから」
その言葉に蔵六は深く頷き、大方課長は言葉を失った。
霊光はしばらく黙っていたが、やがて小さな声で呟いた。
「……すいませんでした」
裕美はきっと霊光を見つめて。
「警部さんにあなたが犯人といいましょうか」
「働けど働けど我が暮らしよくならず」
裕美と蔵六が大笑い。
*
西日暮里のスターバックス。出版社の近く。
裕美はノートパソコンを開き、令和の金くれ・肝くれ事件の記事を送信した。
今日はキャラメルマキアートを注文した。
「お財布は寂しいけど、まあ、いいか。偶には贅沢も必要ね。半額弁当三個分の値段だし」
一口飲むと、甘さが心に染み渡る。
窓の外を見上げると、急に雨が降り出した。
「金塊は帰ってきたけど、被害にあった三人は帰ってこないね……」
裕美は静かに呟いた。
雨粒がガラスを叩き、まるで亡くなった人々の悲しみを代弁するかのようだった。
彼女は目を閉じ、心の中で祈った。
――どうか、安らかに。
雨は優しく街を包み込み、裕美の心もまた静かに澄んでいった。
(完)
まえがき
これまで私が描いてきた邪霊は、常に一体のみでした。
しかし今回は、二体が同時に現れ、互いに力を合わせて悪をなす物語を書こうと思いました。
二体で悪を働くという構図は、単なる恐怖の倍増ではなく、読者に「人間の無力さ」と「怪異の連携」という新しい恐怖を感じてもらえるのではないかと考えました。
最後に裕美がどう戦うのか、私自身も随分悩みました。剣を振るうだけではなく、心の強さをどう描くか――その点に挑戦した作品です。
あとがき
今回の物語は、今まで一度も試みていない構成でした。
二体の邪霊が合体し、圧倒的な力を見せる展開は、私にとっても新鮮な挑戦でした。
読者の皆さんにとっても、これまでの作品とは違う緊張感や恐怖を味わっていただけたなら幸いです。
そして、最後に裕美の優しさを描くことで、ただの怪異譚ではなく「人の心」を残す物語にしたいと思いました。
この新しい試みが、次の作品への糧となることを願っています。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます