第8話 霊障事件解決人・伊田裕美 山間の魔女が住む民宿
序章:麻布の寺に住む女
東京・麻布。臨済宗の古刹「湯川寺」。
ここに住むのは二十二歳の若き女性、伊田裕美(いだ ひろみ)。怪奇・超常現象専門誌『あなたの見えない世界』の記者として働きながら、日々、霊障事件の解決に奔走している。
彼女の武器は伝説の三種の神器――「たむならの剣」「たむならの鏡」「たむならの勾玉」。
• たむならの剣:司馬徽・水鏡先生より授かった霊剣。邪悪を討つ使命を帯びる。
• たむならの鏡:湯川寺に安置され、危機の際には住職・村田蔵六和尚に念を送る媒介となる。
• たむならの勾玉:魔除けの力を持ち、裕美の両耳にピアスとして輝く。
戦闘時には梵字が刻まれた黒い法衣「黒梵衣」をまとう。これは邪霊を寄せ付けぬ衣であり、初めて禿鬼と対峙した際に村田蔵六和尚から授けられたものだ。
裕美の日常は質素である。麻布の「ビッグA」で半額弁当を買い、「半額弁当の間」で食べるのが日課。お気に入りはひれかつ弁当。飲み物は一年を通して熱いラテ。冷たいものは好まず、夏でも熱いチャーシュウメンを食べる。身体を冷やすと邪霊に付け込まれる――それが彼女の信念だった。
彼女を支える人々は三人。
• 村田蔵六:五十代の陰陽師で湯川寺の住職。父のように裕美を見守る。
• 田野倉伝兵衛:雑誌編集長。裕美の取材に依存している。
• 高橋霊光:自称・怪奇現象解決人。だが役立たずで、浮気調査が主な稼ぎ。今回は登場しない。
第一章:激安の民宿
山間の谷にひっそりと佇むその民宿は、まるで異国から切り取られた西洋館のようだった。三階建ての石造りの外壁は山の緑に不釣り合いなほど重厚で、屋根には尖塔が突き出し、窓は縦長のステンドグラスで飾られている。玄関ホールは吹き抜けになっており、客が足を踏み入れると、天井から吊るされた大きなシャンデリアが冷たい光を放つ。
客室は二十を超え、広い食堂と大浴場まで備えられている。山間の民宿としては異様なほどの規模で、まるで小さな城のようだ。白金綾女(しろがね あやめ)は両親と共にこの館に暮らしていたが、両親の死後、その広すぎる屋敷をただの住まいとして抱えることに耐えられず、民宿として開いた。表向きは「癒しの宿」として客を迎え入れる山間の静けさに包まれた館の奥では、白金綾女の声なき囁きが絶えず響いていた。
玄関に足を踏み入れた客の目をまず奪うのは、壁に掛けられた大きな肖像画だった。そこに描かれているのは、この館の女将――白金綾女。
白磁のように滑らかな肌、切れ長の瞳は冷ややかな光を宿し、微笑みは柔らかいのにどこか人を試すような鋭さを含んでいる。黒髪は艶やかに結い上げられ、首筋から肩にかけての線は彫刻のように整っていた。豪奢な着物を身にまとい、まるで館そのものの主であることを誇示するかのように、肖像画の中から客を見下ろしている。実際の綾女もその姿に違わず、優雅な女将として客を迎え入れるが、その瞳の奥には言葉にできぬ深い影が潜んでいた。
綾女のほか住人は一人、使用人の松本ごんである。
身長は一九〇センチを超える大男。丸めた頭は光を反射し、まるで石像のような無骨さを漂わせていた。肩幅は広く、分厚い胸板に覆われた体躯は、ただ立っているだけで客を圧倒する。だが彼は唖であり、口から発せられるのは「あ、う」という不完全な音だけだった。言葉を持たぬ代わりに、その眼差しは鋭く、客の一挙手一投足を見逃さない。綾女の命を受ければ、黙々と働き、黙々と従う――館に漂う異様な静けさをさらに強める存在であった。
*
激安の民宿の広告を見て、最初にやって来たのは新婚旅行の大橋幸二郎と則子の夫婦だった。
幸二郎は橋幸夫を思わせる端正な顔立ちのいい男で、身長は一八〇センチ。隣に並ぶ則子は一六〇センチと小柄だが、茶色に染めた髪が若々しい印象を与えていた。二人は大安の日を選び、幸せの門出を祝うように山間の館へと足を踏み入れた。
「いらっしゃいませ、あたしは女将の綾女です」
玄関に立つ白金綾女は、柔らかな笑みを浮かべながら夫婦を迎えた。すぐに背後へ声をかける。
「ごん、荷物を運んであげて」
夫婦の方へ振り返り、綾女はさらりと言葉を添える。
「ごんは唖なんですが、それ以外は問題ありませんから、安心してください」
現れたのは、スキンヘッドに一九〇センチを超える大男――使用人の松本ごんだった。彼は「あ、う」とうめくような声を発しながら、夫婦の荷物をひったくるように抱え、無言で部屋へと案内していく。
通された部屋は、西洋風の意匠が凝らされた豪奢な造りだった。高い天井にはシャンデリアが吊るされ、窓には重厚なカーテンが垂れ下がっている。ベッドは大きく、白いシーツが整然と張られ、壁には古い油絵が飾られていた。山間の民宿とは思えぬほどの贅沢さに、二人は思わず息を呑んだ。
則子が小声でつぶやく。
「なんか、あの使用人、不気味ね」
幸二郎は眉をひそめ、たしなめるように答える。
「そんなことを言うもんじゃないよ」
「だって……」
則子の言葉はそこで途切れ、部屋に漂う静けさが二人を包み込んだ。
夫婦が案内されたのは三階の寝室だった。天井は一面ガラス張りになっており、夜になれば満天の星空がそのまま寝台の上に広がる仕掛けだ。昼間は山の緑と光が差し込み、夜は静寂の闇と星々が覆いかぶさる。まるで天空に抱かれるような部屋であった。
館の一階には西洋風の食堂があり、長いテーブルの上には白いクロスが敷かれ、銀の燭台が並んでいる。壁には古い油絵が飾られ、窓際には重厚なカーテンが垂れ下がり、まるで異国の城の晩餐室のような趣を漂わせていた。
さらに奥へ進むと、大浴場が現れる。女将・綾女の話によれば、亡き両親が温泉好きで、この館を民宿に改装する際に大浴場を作ったのだという。広々とした湯殿には湯気が立ち込め、石造りの浴槽が並び、訪れる者を癒すように湯が満ちていた。
外には露天風呂もあり、山の風が肌を撫で、夜には虫の声が響く。星空を仰ぎながら湯に浸かれば、ここが山間の民宿であることを忘れてしまうほどの贅沢さだ。
その造りは、まるで旅館そのものであった。だが、豪奢な造りの奥に漂う静けさは、どこか不自然で、訪れる者の心に微かな影を落とすのだった。
館の敷地の奥には、フェンスで仕切られた一角があった。そこには人間用とは別に湯が湧き出し、奇妙なことに野生のカピバラたちが群れをなして浸かりに来る温泉がある。湯気の中でのんびりと目を閉じるその姿は、まるで客人のように館に迎え入れられているかのようだった。人間の露天風呂と並んで存在するその光景は、異様でありながらどこか滑稽でもあり、この民宿がただの旅館ではないことを静かに物語っていた。
*
福島の山と海の恵みが容易に手に入るこの館では、夕餉の膳もまた異様なほど豪華であった。
長いテーブルの上には、川魚の塩焼きが香ばしく並び、海から届いた鯛や平目の刺身が艶やかに皿を彩る。山菜の天ぷらは黄金色に揚がり、湯気を立てる味噌仕立ての鍋には山の茸がふんだんに浮かんでいた。まるで旅館の宴会場のような光景が、三人の前に広がっていた。
「今日は川魚と海の魚を用意しましたわ」
女将・白金綾女は、柔らかな声でそう告げる。
大橋幸二郎は目を丸くし、思わず口を開いた。
「こんな豪華な……あのような激安料金でいいんですか?あとで追徴金はいやですよ」
綾女は口元を押さえ、微笑みを含んだ声で答える。
「ふふふ、あたしも商売っけはありませんわ。一人でここに住んでいると寂しいものですから」
その言葉に、則子は幸二郎の顔を見やり、二人は同時に微笑んだ。新婚旅行の幸福と、思いがけないもてなしの豪華さに、心から喜んでいる様子だった。
しかし、館の静けさはその笑みを包み込みながら、どこか冷ややかな影を落としていた。
*
翌朝。
この浴場には男女の区別がなく、夫婦にとってはどうということもなかった。幸二郎は湯殿へ向かいながら振り返り、軽く笑って言った。
「先に行くよ、あとから来てね」
則子は少し遅れて浴場へ足を運んだ。
湯殿の中央には石造りの湯船があり、ライオンの口から絶え間なく湯が流れ落ちている。湯気が立ち込め、朝の光が水面に反射して揺れていた。
だが、湯船には幸二郎の姿はなかった。
彼はタイルの上にうつ伏せに倒れていた。
則子は慌ててタオルで身を覆いながら駆け寄る。
「あなた……どうしたの」
次の瞬間、目に飛び込んできたのは、信じがたい光景だった。
幸二郎の胴体には首がなかった。血の跡もなく、ただそこに「首のない身体」だけが横たわっていた。
則子は恐怖に駆られ、急いで着替えると女将を呼びに走った。
「来てください!主人が……主人が!」
白金綾女は落ち着いた様子で現れた。
「どうしました」
則子は必死に訴えるが、浴場に戻ると、そこには何もなかった。首のない死体は跡形もなく消えていた。綾女は変わらぬ微笑を浮かべていた。
則子は自室に戻り、ただ夫の帰りを待った。しかし時は虚しく過ぎていく。確かに自分は首のない幸二郎の死体を見た――それなのに、どこへ消えたのか。きっと、ごんが持ち去ったに違いない。
やがて女将が紅茶を淹れて持ってきた。
「すぐ戻ってきますよ。安心なさい」
「警察を呼んでいただけますか」
「いいですよ。多分、必要ないと思いますが」
綾女が去った後、則子は震える手でスマートフォンを取り出し、SNSに書き込んだ。
――旦那がいなくなった。
民宿、白金亭の恐怖を伝えなければならない。
紅茶の香りが異様に甘く、則子の不安をかき消すようだった。
第三章:第二の被害者
東京・麻布。湯川寺の近くにあるガストは、昼下がりの光を受けてガラス窓が鈍く輝いていた。店内はファミリーレストランらしい明るさに満ち、赤いソファ席には学生や家族連れが散らばり、厨房からは油の匂いと鉄板の音が絶え間なく響いていた。窓際の席からは寺の屋根がちらりと見え、都会の雑踏の中に不思議な静けさを添えていた。
いつもなら半額弁当を求めてビッグAの棚を漁る二人が、今日は珍しく外食だった。
伊田裕美――細身で眼差しは鋭く、どこか探偵めいた雰囲気を漂わせる。
蔵六――がっしりとした体躯に無骨な顔立ち、だが口調は飄々としている。
「たまには外食もいいものね」
裕美がメニューを閉じながら言う。
「そうでもないよ、ガストだからね」
蔵六は肩をすくめる。
「まあ、貧乏にとっては贅沢よ」
裕美は苦笑し、安物のラテを口に運んだ。
そのとき、スマホの画面に目を落とした裕美の表情が変わった。
「旦那がいなくなった」というツイートが目に飛び込んできたのだ。
「変な事件でないといいわね」
裕美はつぶやき、ラテの泡を指でなぞった。
やがて彼女は顔を上げ、蔵六に向かって言った。
「蔵六さん、温泉に旅行に行かない?」
「いいね」
蔵六は即座に答えた。
二人はスマホを操作し、白金亭の予約を入れた。
その館が、やがて彼らを恐怖へと導くことになるとは、まだ知る由もなかった。
*
旦那がいなくなったというツイートが流れていたにもかかわらず、街は不思議なほど静まり返っていた。人々は何事もなかったかのように日常を続け、白金亭もまた、まるで事件など存在しなかったかのように佇んでいた。
伊田裕美と蔵六が館に到着したとき、すでに大橋則子の姿はなかった。
かわって宿泊していたのは三人の女子大生だった。
久野陽子――どこにでもいるような普通の風貌。
高橋恵子――やや小太りで、笑うと頬が丸く揺れる。
岩崎郁子――痩せぎすで、黒い短髪が鋭い印象を与える。
三人は同じ歳で、大学の日本史研究会に所属していた。卒業を間近に控え、最後の冬を三人で楽しもうと、この山間の民宿を選んだのだった。
女将・白金綾女は、いつものように喜怒哀楽を見せず、淡々とした口調で彼女たちを迎え入れた。微笑も怒りもなく、ただ事務的に言葉を重ねるその姿は、どこか人間らしさを欠いていた。
女子大生たちは三階の寝室に案内された。天井はガラス張りで、夜になれば星空がそのまま広がる部屋だった。
一方、裕美と蔵六は二階の和室に通された。畳の匂いが漂い、障子の向こうには山の影が沈んでいた。
夜更け。
三階の寝室で眠りについた女子大生たちの耳に、かすかな声が届いた。
「か……え……し……て……」
それは風の音とも違い、夢の囁きとも違う。確かに誰かが言葉を発していた。三人は目を覚まし、互いに顔を見合わせた。恐怖が静かに広がっていく。
館の中には、見えない何かが潜んでいた。
*
翌晩。
女子大生たちは三人同時に「かえして」という声を耳にしたが、互いに空耳だと笑い飛ばし、そのまま眠りについた。
深夜。
高橋恵子は凍えるような寒さに目を覚ました。布団がない。いや、剥ぎ取られていた。身を震わせた瞬間、再びあの声が響く。
「かえして……」
今度は空耳ではなかった。確かに、誰かが囁いている。恵子が息を呑んだとき、天井のガラスの向こうで何かが動いた。星空の中に、男の顔が浮かび、こちらを見下ろしていた。
「きゃああ……!」
悲鳴が館を震わせ、二階の和室で眠っていた伊田裕美は飛び起きた。慌てて三階へ駆け上がると、ドアの前を白い玉のようなものがすり抜け、闇に溶けて消えた。
裕美は息を整え、ドアを開けた。そこには二人しかいない。
「ねぇ!起きて!」
呼びかけに、久野陽子と岩崎郁子が目を擦りながら身を起こした。
「もう一人はどうしたの?恵子さんは?」
だが、部屋には恵子の姿がなかった。布団は乱れ、冷気だけが残されていた。
そのとき、一階から女将・白金綾女が現れた。冷静そのもので、口だけがわずかに動く。
「どうしましたか」
裕美は答えようとした瞬間、背中に鋭い疼きを覚えた。首の下、左右対称の位置に刻まれた梵字の痣――観音を表すその印は、億人に一人しか持たぬ証。邪悪と戦う戦士の証だった。
裕美は直感した。
綾女こそ、この館の恐怖の源である、と。
*
翌朝。
山は薄靄に包まれ、警察官たちが列を組んで山狩りを始めていた。犬の吠える声、無線の雑音、足音が落ち葉を踏みしめる音が重なり、山中は異様な緊張に満ちていた。失踪した女子大生を探すため、陽子と郁子も必死に隊列に加わっていた。
その頃、館の玄関には伊田裕美と蔵六が立っていた。
「裕美、どう思う?」
蔵六が低い声で問いかける。
裕美は首を振り、玄関に飾られた一枚の肖像画を見つめていた。女将・白金綾女の実物大の肖像画――その筆致は異様に生々しく、まるでそこに本人が立っているかのようだった。
「違うわ。あの子は山の中じゃない。この屋敷の中にいるのよ」
裕美の声は震えていた。
「なんか……この絵、生きているように感じるの。呼吸をしているように」
蔵六は腕を組み、唸るように言った。
「う~む、絵画に生きている妖怪か、悪魔か、魔女か……わしにはわからない」
二人が玄関を離れると、館は再び静けさに包まれた。
その瞬間――肖像画の目が淡く光り、ゆっくりと動いた。まるで、外の騒ぎを見下ろすかのように。
*
山狩から戻った女子大生二人――久野陽子と岩崎郁子は、泥にまみれた服のまま浴場へと足を運んだ。湯気が立ち込める広い湯殿は、静けさの中に不気味な影を潜ませていた。
湯船に身を沈めようとしたその瞬間、突如として水面から白い手が伸びた。陽子の腕を掴み、強引に湯の中へと引きずり込む。
「いやっ……!」
陽子は必死に抵抗するが、湯の中で身体を押さえつけられ、泡とともに苦しげな声が漏れた。水面は激しく揺れ、彼女のもがく姿がぼんやりと映し出される。
郁子は声をあげることすらできず、ただ震えながらその光景を見つめていた。背後に気配を感じ、振り返ると――そこに女将・白金綾女が立っていた。
綾女は冷ややかな微笑を浮かべ、静かに口を開いた。
「あたしは、ドイツの魔女、エリザベス。人の魂を喰らいながら生き永らえてきた。パンデミックの混乱に紛れて、日本へやって来たのよ」
その言葉が響いた瞬間、郁子の視界は暗転した。気絶した彼女の身体から、淡い光となった魂が抜け出し、ゆっくりと漂いながらエリザベスの口へと吸い込まれていった。
湯殿には、湯気と恐怖だけが残されていた。
第四章:たむならの剣と三叉槍
館の奥、浴場の湯気が立ち込める中に、魔女エリザベスの姿があった。
その容貌は異様で、白磁のように冷たい肌に、深い闇を湛えた瞳。唇は血のように赤く、微笑むたびに人間離れした冷酷さが漂う。長い黒髪は湿った空気に絡みつき、まるで闇そのものが形を取ったかのようだった。彼女の周囲には、見えない瘴気が渦を巻き、近づく者の魂を蝕むような圧迫感が漂っていた。
突如、浴場の扉が開き、伊田裕美が姿を現した。
彼女は黒梵衣をまとっていた。黒い布地に金色の梵字が全身に刻まれた護身用の戦闘服――その姿はまるで古代の僧兵のようであり、異界の戦士のようでもあった。
「やはり……あなたね」
裕美の声は震えず、確信に満ちていた。
エリザベスは冷笑を浮かべ、低く囁いた。
「小娘が……あたしは何百年も人の魂を喰らいながら生きてきた魔女だよ。お前の魂も、いただくとしよう」
その瞬間、裕美の右手に光が宿った。
「たむならの剣……」
司馬徽――水鏡先生から授かった、邪霊を斬り裂く剣が彼女の手に顕現した。刃は淡い光を放ち、浴場の闇を切り裂くように輝いていた。
エリザベスは口元を歪め、どこからともなく長い三叉槍を取り出した。
「じゃあ、こちらは三叉槍で行こうか」
槍の先端は黒い炎を纏い、空気を震わせる。長さゆえに間合いは広く、裕美は次第に追い詰められていった。
背後は入口。逃げ場はない。
そのとき、湯船から突如として影が立ち上がった。ごんだ。巨大な体躯の男は無言のまま裕美を後ろから羽交い締めにし、身動きを封じた。
「蔵六さん!」
裕美の叫びに応え、蔵六が入口を開けて飛び込んできた。だが、目の前の光景に腰を抜かし、声を失った。
裕美は必死に剣を振り上げ、入口の木のドアへと投げつけた。刃は深々と突き刺さり、震える音を響かせた。
「蔵六さん……たむならの剣で、あの肖像画を刺して!」
「よっしゃ!」
蔵六は剣を引き抜き、玄関に飾られた綾女の肖像画へと走った。
エリザベスは驚愕し、蔵六を追いかける。だが、息も絶え絶えの蔵六は必死に肖像画の前へたどり着き、剣を振り下ろした。
刃が肖像画の心臓を一突きした瞬間、館全体が震えた。
「ぎゃああああ!」
肖像画の中心から黒い液体が溶け出し、壁を伝って滴り落ちる。
そのとき、裕美を羽交い締めしていたごんが首を押さえ、苦しみ始めた。エリザベスも三叉槍を取り落とし、胸を押さえて呻いた。
裕美はすかさず槍を拾い上げ、渾身の力でエリザベスの胸に突き刺した。
「これで終わりよ!」
三叉槍が抜き取られると同時に、エリザベスは絶叫し、床に崩れ落ちた。その上に重なるようにごんも倒れ、やがて二人の姿は霧のように消え去った。
浴場には、静寂だけが残された。
エピローグ
館の玄関に飾られていた肖像画が、突如として震えた。
その中心から白い玉が五つ、光を放ちながら飛び出していく。玉は宙を舞い、やがて館の奥へと吸い込まれるように消えた。
「……声がする」
裕美が耳を澄ませると、どこからともなく重々しい声が響いてきた。
二人は声を追い、布団部屋へと足を踏み入れる。
そこには五人の人影があった。縛られたまま横たわる大橋幸二郎、則子、久野陽子、高橋恵子、岩崎郁子――皆、失われたはずの者たちだった。
「無事だったのね……」
裕美は思わず声を漏らした。
だがその瞬間、館全体が軋みを上げた。壁が崩れ、柱が黒く腐り、あの美しい屋敷がみるみるうちに朽ち果てていく。
「全て……あの女の幻だったのね、蔵六さん」
裕美が呟くと、蔵六は肩をすくめて笑った。
「どうりで安いと思ったよ」
幻は消え、五人は解放され、すべては終わった。
*
帰りの電車。窓の外には冬の陽が淡く差し込み、線路沿いの町並みが流れていく。
裕美はノートパソコンを開き、「あなたの見えない世界」編集長・伝兵衛に送る原稿を書いていた。
「有給休暇中だったけど、いいお土産ができたわ」
隣で蔵六が缶コーヒーを片手に笑う。
「しかし、あそこの旅館の料理は美味かったね。帰ればまた半額弁当か」
裕美はラテをすすりながら微笑んだ。
「ああいう料理は偶に食べるから美味しいのよ。普段半額弁当を食べているからこそ、美味しいのよ」
二人の笑い声が車内に響く。
電車は静かに東京へと向かっていた。
(完)
まえがき
『霊障事件解決人・伊田裕美 飢えに苦しむ民衆の霊』という題を思いついたとき、私は自分でも面白いと思った。
しかし、書き進めるうちに「これは果たして読まれるのだろうか」と疑念が湧いてきた。結果は予想通りで、ほとんど読まれなかった。
不思議なものだ。私が「これは面白い」と確信した作品は読まれず、逆に「そうでもない」と思ったものが意外に読まれる。読者の嗜好と作者の直感は、必ずしも一致しないらしい。
伊田裕美シリーズを書いていると、自然と邪霊や悪魔、魔女といった存在が登場する。中でも魔女は私にとって特別な存在だ。邪霊や悪魔よりも、魔女の持つ人間的な欲望や執念、そして異界との境界を揺るがす力に惹かれる。書いているうちに、魔女こそが最も物語を豊かにしてくれる存在だと感じるようになった。
あとがき
まだ書けずに溜まっている題材がある。「カマキリ姫」「衣服霊」――どちらも頭の中では形を成しているのに、文字にできずにいる。物語の種は日常の中に転がっている。
スーパーに買い物へ行くと、棚に並ぶ商品や人々の動きから、ふと物語の断片が浮かぶことがある。歩いているだけでも、脳に刺激が加わり、想像力が動き出す。日常の些細な行為が、異界への扉を開くきっかけになるのだ。
書けなかった物語は、まだ私の中で眠っている。だが、歩き続ける限り、いつか必ず形を与えられるだろう。
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