紫陽花-4-
薬の種類が増えた。
来週から放射線治療が始まる。
柔らかだった手指は骨ばり、頬は少し窪んできた。
それでも子供たちを見る目は変わらず優しいままだった。
「あとどのくらい?」
涼やかな声は変わらなかった。
「あの子たちの孫くらい見れるさ」
「うそつき」
そう言って優しく笑った。
私はそれには答えずに小夜子の手を握った。
「四葩、おいで」
小夜子の言葉に四葩がベッドに駆け寄った。
靴を脱ぎ散らかしてよじ登ると、上体を起こした小夜子の隣に座った。
「大きくなったね、四葩。もうお姉ちゃんになれたかな?」
小夜子は四葩を膝に乗せた。
一瞬苦しそうに顔を歪めて、また優しい顔になって...
「四葩はもうお姉ちゃんだよ」
「そう、偉いねぇ」
ぎこちなく頭を撫でた。
もう肩で息をしている。
私が四葩を降ろそうと近寄ると小夜子はそれを目で制した。
「四葩にこれをあげる」
小夜子はベッド脇の引き出しから何かを取り出すと四葩の首に下げた。
「綺麗なお花!ママ、これはなんてお花?」
「紫陽花よ、紫陽花の押し花」
「紫陽花、もっと大きいよ」
四葩は振り向いて不思議そうに言った。
「そうね。いい、四葩。紫陽花はね、この小さな花びらが集まってひとつの紫陽花になるの」
四葩は振り向いたまま小夜子の言葉を聞いていた。
「それって、パパとママと四葩と美禰子が集まって家族になってるのと似てるでしょ」
四葩がコクコクと頷く。
「そしてね、四葩の名前はこの紫陽花から貰ったの」
「四葩、紫陽花すき」
「ママも紫陽花が大好きなの。だから大好きなあなたに四葩って付けたのよ」
そう言って小夜子は四葩を強く抱いた。
きっと涙を見せない為だったのだろう。
四葩を不安にさせない為に。
そんな四葩は小夜子の腕の中で、満足そうに笑顔を浮かべていた。
不意に美禰子がグズり始めた。
甘えていた四葩が、ベッドから降りて美禰子のオムツを替えだした。
目を丸くして驚く小夜子と目が合った。
ふたり顔を見合って笑った。
久しぶりに笑ったような気がした。
四葩もそんな私たちを見て意味も分からずに笑った。
「四葩、美禰子と一緒にいらっしゃい」
「うん」
そう言うと四葩はまず美禰子を小夜子に渡した。
それから靴を脱いで綺麗に揃えると再びベッドに上がった。
「美禰子は甘い匂いがするねぇ」
小夜子が頬に鼻を当てると四葩も同じようにした。
「いい匂いする」
「いい匂いだねぇ」
春にはまだ少しだけ早い季節。
病室の一角、陽だまりのような景色だった。
「で、美禰子に鼻を押し当ててママと匂いを嗅いでたの」
「えっ、ウッソ!やだもぉ」
美禰子の顔に鼻を近づけた四葩が匂いを嗅ぐ真似をした。
「ほら、遊んでると水をこぼすぞ」
桶の水が左右に揺れて波立っていた。
「お姉ちゃんが紫陽花なら私の名前は何になるの?」
美禰子は揺れる水面を上手くいなしながら言った。
「忘れ形見」
「えっ」
「美禰子は小夜子の忘れ形見...いや、ストレイシープかもな」
「思春期の迷える仔羊ね」
四葩がからかうように言った。
「ちょっと、意味わかんないよ」
「ふたりとも、小夜子の名付けの願い通りに育ってるということだよ」
私はそう言うと「なぁ、小夜子」と紫陽花が刻まれた墓石の前に立った。
墓前で線香の煙が細く立ち上ってゆく。
あの日、煙突から立ち上る煙をこの子たちと見たのが昨日のように思えた。
陽だまりの日から悪化と小康を繰り返していた。
「窓を」と言った小夜子。
カーテンを揺らした初夏の風。
運ばれた清涼な青い香りは小夜子に届いただろうか。
活けられた紫陽花が小夜子を見つめていた。
呼吸が荒くなり計器が騒ぐ。
それは死神があげる歓喜の声に思えて震えた。
ナースコールに駆け付けた看護師がマスクをつけるのを、小夜子は拒んだ。
もう声の出ない唇から「ありがとう、すき」と言葉が
私と四葩で握った小夜子の手に美禰子の小さな手を重ねた。
口々に「小夜子」「ママ」と呼び叫んだ。
最期、もう機能を失った肺に息を吸い込もうとしたのか。
繰り返す浅い呼吸の後に大きく胸を膨らませて、次第に萎んでいった。
繋いだ手に重みがかかり、握る指から力が失われていった。
私は
医師が無機質な言葉で何かを告げていたが、私の耳には届かなかった。
立ち上る煙と込み上げる虚無と絶望。
小夜子の居ない世界に、私の居場所など感じられなかった。
不意に腕の中の美禰子が、煙を掴もうとするように無邪気に手を伸ばした。
我に返った。
右手には私の手を気丈に握る四葩。
腕の中の美禰子。
希望はここにあった。
小夜子が遺してくれた紫陽花の花弁。
「行こう」
私たちは煙に背を向けた。
鼻腔をくすぐる線香の香り。
墓碑銘の小夜子の名を指でなぞった。
紫陽花に彩られた墓石は華やいでいた。
それはまるで小夜子の笑顔のように。
-了-
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