煙突からの訪問者
何かが落ちるような鈍い音と共に、暖炉から濛々と黒い煤が舞う。衝撃で、マントルピースの上に飾ってある花瓶が若干浮いたように見えたが、すぐに何事も無かったかのように、美しい花を飾ったまま鎮座している。その代わりに、飛び散った灰は暖炉の前に敷いてあった絨毯をこれでもかというほど汚した。
驚いたフランシーヌは、ジャケットから顔を上げ暖炉の様子を伺う。
「けほっ……ごほっ……」
苦しそうに咳き込みながら現れたのは、小さな友人だった。
「あいたたた……。や、やぁ、フラン」
「シリル!」
暖炉から這い出た少年は、そのまま絨毯の上に倒れこむ。
先ほどの煤に加え、更に黒く染まってしまったそれに、フランシーヌはセルジュにどう言い訳をしようかと考えて苦笑した。
「フラン、そろそろ暖炉掃除した方が良いかもよ」
「あら。それなら、シリルにお願いするわ」
任せて、と口を開きかけてシリルは再び咳き込む。マスク代わりに口元に巻いていたハンカチも、煙突の中という過酷な環境の前ではほぼ無意味に等しかった。
「待ってて、今、タオル持ってくるからね」
備え付けのバスルームで濡れたタオルを用意し、シリルの元へと駆け寄る。そのままの流れで、身体を拭こうと手を出せば、少年は自分で出来るとばかりにタオルをひったくった。
「フランまで、僕のこと子供扱いしないでよね!」
「あら……」
誰よりも大人になりたいと願っているこの少年が、精一杯、背伸びをしている場面を幾度となく見てきたフランシーヌは微笑ましく見守る。このような態度が子供だと思われる要因になっているとは、夢にも思っていないのだろう。
乱雑に煤を拭き取ってから返されたタオルは真っ黒に汚れており、これもまた、セルジュにどう言い訳しようかとフランシーヌは頭を悩ました。
セルジュに見つかるよりも前に、使用人たちが片付けてくれれば問題は無いのだが、この後、あの教育係が部屋に訪れることが決まっているので、それは難しい話である。
「それで、今日はどうしたの?」
受け取ったタオルをバスルームに放り込みながら、フランシーヌは小さな来訪者に問いかける。
「ほら、これ。ロランから」
差し出された紙片にフランシーヌは目を丸くした後、飛びつくように受け取った。
「ありがとう、シリル!」
「どういたしまして」
愛しそうに紙片を見つめるフランシーヌの姿にシリルは肩を竦める。
ロランはフランシーヌのこととなると、驚くほど必死になるのだが、それはもう一方にも言えるようだ。
「好きな人からの手紙って、そんなに嬉しいもの?」
食い入るように紙片を見つめているフランシーヌに問えば、えぇ、と上の空の相槌が返ってくる。
内容と言っても、たった1行しか書かれていない手紙に、そこまで熱を上げられることが不思議で仕方なかった。日が過ぎれば自分なら鼻をかむ紙にでもしてしまうだろう、とシリルは考える。
フランシーヌはひとしきり紙片を眺めた後、丁寧にその紙を畳み直し、鍵付きの引き出しへとしまった。
読み書きは出来るものの、普段は帳簿に人名と金額しか書き込まないであろうロランからの手紙は、とても貴重なものである。
「シリル、お菓子でも食べて行く?」
手紙を届けてくれた友人を、そのまま追い返すようなことをフランシーヌがするはずもない。お使いの駄賃に何かあげようと、そう提案すればシリルは目を輝かせた。
「うん! 食べる!」
子犬のように跳ね回りながらフランシーヌの後について行く姿は、はたから見れば中の良い姉弟のようだ。
フランシーヌはこの無邪気な少年に、もし尻尾があったら、きっと千切れんばかりに振っているのだろうと想像して、笑みを零した。
「なんで笑ってるの?」
「シリルが可愛いなぁ、って思って」
「フラン、男はね、可愛いって言われても嬉しくないんだよ」
偉そうに説教を垂れるシリルに、フランシーヌはごめんね、と笑う。
「間違っても、ロランに可愛いって言ったらダメだよ」
「はいはい」
「はい、は1回!」
昔と比べると、シリルは随分と口が達者になった。フランシーヌは、初めて彼と出会った時のことを思い出す。
ロランにこの国の王女だと紹介されて、哀れな少年は緊張で一言も発することが出来なかったのだ。口をぱくぱくと数回開いただけで、ロランの後ろに隠れてしまった頃から考えると、随分成長したように思える。
「シリルも大きくなったわね」
素直に思ったことを言葉にすれば、シリルは異様な程に頬を緩ませてご機嫌になる。
「さっすが、フラン! 分かってる! 僕、やっぱりもう大人だよね!」
それはまだ早いんじゃないだろうか、と思いながらもフランシーヌは何も言わなかった。
その代わりに、疑問を投げかける。
「ねぇ、シリル。どうして大人になりたいの?」
「だって、大人はいろんなことが出来るんだよ! お酒も飲めるし、もっと物知りになれるし……それに、子供だからって馬鹿にされたり、仲間外れにされたりしないよ!」
その言葉に、シリルの目には、大人という存在が何でもできる完全な存在として映っていることに気付く。小さい頃は、そういった気持ちを誰しも抱くものだろう。
現に、フランシーヌも子供の頃はそう考えていたことがあった。けれども、きっと、いつかこの少年も気付くだろう。
大人はそのように完璧な存在でないことに。
「フランだって、大人になりたいでしょ?」
問われて、フランシーヌは考える。
大人になるということは、この国を率いる人間になってしまうということだ。それは、ロランやシリルに容易に会えなくなる存在へと変化することだった。
「いいえ、私はずっと子供のままでいたいわ」
ゆっくりと首を横に振れば、シリルは不思議そうに首を傾げた。
彼が、煤で汚れた洋服を着ることになったのも、元はと言えば大人のせいであろう。教育も受けず、日々のパンを得るために働かねばならないのも、大人のせいなのだ。
それなのに、少年は早く大人になりたいと言う。フランシーヌは世の中への矛盾を感じずにはいられなかった。
「さぁ、シリル。紅茶とケーキがあるわ。どうぞ」
「やった! 僕、ケーキ大好き! 銅貨じゃ、買えないんだよね」
フランシーヌは自分の為に用意されていたはずの紅茶とケーキをシリルへと差し出す。
少年は嬉々として席についたものの、フランシーヌの目の前に何も無いことに首を傾げた。
「フランの分は?」
「私はシリルが来る前に食べたのよ。もう少し早く来てくれたら、一緒に食べられたのにね」
「なーんだ。残念。今度は、3時のおやつに間に合うように来るよ!」
フランシーヌの嘘に気付くことなく、シリルは「いただきまーす」と手を合わせた後、元気よく食べ始める。
その姿を眺めながら、フランシーヌの心は深く沈んでいく。
国の繁栄を願うのが、国政に関わるものの努め。
民の幸せを願うのが、王族の真髄。
国を捨て、ロランと一緒に逃げ出すことは、果たして正しいことなのだろうか?
逃げれば、結婚によりオーギュストが政治により深く食い込むのを、遅らせることが出来るかもしれない。けれども、いずれはフランシーヌの代理が立てられ、その人物が国を動かすことになるだろう。
万が一、その人物がオーギュスト自身になれば、誰にも止めることは出来ない。好き放題に国を荒らす、あの男を止めるのは誰の役目だろうか?
フランシーヌが目まぐるしく切り替わる思考のうちに辿り着いたのは、自分が王族に生まれたことを呪うことだった。
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