妹を救いたい青年がなぜ帝国と連邦を滅ぼしたのか

智槻杏瑠

Ⅰ:蒼の向こうへ

 鼻先を刺すような冷たさが窓の外にあった。

 視界の下半分を埋め尽くす庭園は一面が白銀の絨毯に覆われ、控えられた街の灯は地表から満天に散りばめられた光点の海を見上げるには十分な照度だった。

 全館空調の暖房設備のキャパシティを超えて流れ込む夜の空気に、空間の温度は瞬く間に下がっていく。だがそのような事は少年にとっては関心の外側にあった。

 「寒いね、ヴィルマ」

 傍らの少女と自分自身と、双方に向かって語り掛けるような口ぶりで、少年は白い吐息を大気に投げ放つ。

 「やっぱり出ていくの、兄様」

 少女の言葉は問いかけでなく、定まった運命を前にした確認であった。例え彼女が反対したところで、この少年の心の翼に鎖をかけ直す・・・・事など不可能である事を知らない彼女ではない。

 「ずっと言ってただろ」

 振り向いた少年の幼さを多分に残した少女のように美麗な顔の中で、少し長めの絹糸を溶かして染め上げたような薄い金色の髪と柘榴石を埋め込んだような真紅の瞳が、覗き込めば吸い込まれるような輝きを放っている。その光は彼の心の強さを無濾過で照射するようで、何人たりとも抗する事など不可能であった。

 「僕はあの空の向こうに行きたい。あの雲の向こう、蒼い空のそのまた向こう。無限だって言われる世界に」

 少年はその細くしなやかな腕を伸ばし、地表と逆の場所を指した。

 十歳かそこらの少年の言葉とはとても思えない。彼の気宇の大きさは、常人の手に収まるようなものではなかった。荒唐無稽だと他人が鼻で笑う程に遠大な願いをその胸に、少年は人間がその五体では決して辿り着く事の出来ない地平に向かって歩み出そうとしている。

 「でも私は一緒には行けない」

 語数に数千、数万倍する念を声帯の奥に押し込んで、少女は言った。彼女と少年とを隔てるのはその視野でなく、立場の違いであった。

 再び振り向いた少年は、その白い手で少女の手を握る。

 「おまえを救うためにはこうするしかないんだ。おまえを絶対あいつなんかの道具にはさせない」

 本人の意志とは無関係に、断る事ができる筈がない程にその紅い瞳に込められた光は強く、熱い物だった。それに気圧されたか否か、少女は思わず頷いていた。

 「必ず帰ってきて、兄様」

 「約束」

 そう言って少年は真紅の瞳を煌めかせ、窓の外に目を向けた。蒼い空のその向こうに広がる悠久の世界。人類が漕ぎ出して数世紀が経ち、今や生活の一部となったその場所は、しかし人間の身体一つで決して手の届く場所ではない。

 その世界を征かんとするならば、人間が持つ道具を用いなければならなかった。その道具と自由とを手に入れたくて、少年は未知の世界に自ら一歩を踏み出そうとしている。


 統一銀河暦五〇四年銀河標準時四月十一日三時十三分。

 人間が自らの都合で引いた暦法が記す時間の流れなど砂粒一つに及ばない悠久さをその手に抱え、宇宙はその終わりなき領域を横たえている。

 漆黒のキャンバスに宝石箱を引っくり返したかのような世界の中で瞬く無数の光の数を数え上げるのに“天文学的単位”と言う言葉を用いるように、一人の人間にとってこの宇宙と言う空間はあまりに広大で、壮大なものであった。

 太陽系と言う惑星系のそのまた第三惑星一つから発し、人為的に時間を区分した暦法を用いて二千余年もの間その重力の軛の下にあった人類と言う種が宇宙を新たな生活領域とし、光の速さを跳躍してから、人類の生活圏はそれまでの数万、数億倍へと拡張された。

 アーミテイジ星系と言う惑星系もまた人類の飽くなき開拓精神フロンティア・スピリッツの食指が動いた恒星系の一つで、太陽系からは四千光年と言う地理的断絶を経る。

 その第六惑星はアーミテイジ・シックスと言う個性の煌めきなど微塵も無い識別名称を有しているが、その実情も水素とヘリウムとを主成分とし、十七万キロの直径を持つガス惑星と言う無機質極まりない平凡な星だった。

 遠目には縞模様に見えるその惑星の半分は恒星の光を受けず、まるで半球であるかのように見える。人智など到底及ばぬ巨大さを誇る惑星の影に、無数の人工物の群れが佇立していた。

 巨大な塔を横倒しにしたような格好の宇宙船が無数に並び、その数は優に一〇〇を超えている。大はこの銀河において覇を唱える銀河帝国の宇宙戦艦バイエルン級重戦列艦やボロディノ級巡洋戦列艦、他にもツェルベルス級航空管制艦、フォルバン級防護戦列艦らが砲列を並べ、皆一様に帝国海軍が誇る宇宙艦艇たちであった。

 その旗艦は他の艦艇と比べても目立たない、外見上は普通のバイエルン級重戦列艦レトヴィザンである。無数の艦艇に囲まれて漆黒の虚空に佇立する銀色の宇宙戦艦は艦の各部に砲塔から電磁力で粒子を収束させるための長砲身が突き出した収束型荷電粒子砲を装備し、他には魚雷発射管、防御用にVLS垂直発射装置レールキャノン電磁砲、近接防御用対空レーザー砲などを多数備え、高い攻撃、防御力を備える。

 重戦列艦レトヴィザンの艦橋は平時は上部構造物の上に露出し、有視界での観測を可能としている。戦闘時は装甲部内に格納されてCIC戦闘情報指揮所としての機能も持つよう設計されていた。

 この一部隊の指揮官たるエルヴィン・フォン・クロネッカー少将は艦体から露出した艦橋の窓から、半球状のガス惑星を眺めている。まるで紅玉石ルビーを嵌めこんだかのように紅い瞳は恒星の光を反射して煌めいていたが、単に反射光と言うに留まらない、身体の内側から発するような光を持っていた。

 もし文学的表現力と心理的感受性の双方を持ち合わせていれば、その双眸に湛えた光が、煮え滾る溶鉱炉のような熱と氷山惑星のクレパスの深奥のような冷たさとを併せ持つ事を悟り得ただろう。だが人間をその表層と口から発する言葉でしか悟り得ない大多数の他人からすれば、単に“どこかの御令嬢のような顔立ちに似合わぬ鋭い眼光”としてしか認識されないに違いない。

 顔立ちの美麗さと肩に届く絹糸を梳いたような髪のためにまるで女性のようにも見える青年は星の海に見入っていた。

 この世界は無限で、自由で、何物にも邪魔されない世界。

 箱庭の中のような狭い場所でお互いに縛り付け合っている人類を嘲笑うかのように、この宇宙はどこまでも無限に広がっている。

 青年はこの世界が好きだった。彼を縛り付ける全ての軛が宇宙にはない。ここは彼の心の翼を無際限に広げるだけの奥行きを持った空間であった。

 「通報艦ユミルから入電!」

 吹き抜けの上下階を備えた二重構造の艦橋の内部に通信士の報告の声が響き渡った。その言葉の意味するところを全員が脳裏に印字されているかのように、艦橋内で反響していた人の声が瞬時に止んだ。その静寂を突き切るように通信士は叫ぶ。

 「セクターD25に重力震反応!敵艦隊ジャンプアウト!」

 「レーベリヒト三号機より入電”敵艦隊見ユ、数三〇〇以上”!」

 相次ぐ報告の意味する情報を余さず脳裏の記憶装置フラッシュメモリに刻みながら首筋の辺りで切り揃えた赤毛の女が群青の瞳を白金色の髪の青年に向けた。

 「敵襲だよ、司令官・・・閣下」

 「分かっている」

 単純計算で手持ちの兵力の三倍の敵の接近の報告を受けても青年は庭先に虫の一匹が迷い込んだ程度の態度で平静としていた。

 「突っ込みすぎたマイゼル元帥の尻拭いだ。外洋艦隊の撤退までここで時間を稼ぐ」

 「たったこの数で尻拭いとは」

 旅団参謀フォン・シュミット大尉が吐き捨てるように漏らす。

 「時間を稼ぐのが仕事だ。殲滅する事じゃない」

 振り向いたときに絹糸を想起させるウルフカットの髪が自然になびく。二歳年上の大尉の肩を叩き、エルヴィンは艦橋内の人間全員に聞こえるようにトーンを上げた。

 「艦隊全艦、砲雷撃戦用意。状況ツェーを発令、所定のホールディングエリアに移動」

 赤毛の女が敬礼するために持ち上げた黒い開襟のジャケットの袖を彩る袖章は帝国海軍の大尉の階級にある事を示している。二五歳と言う年齢でも戦時である事を考えれば不思議な事ではない。だが彼女の同期生が少将と言う事実は尋常ではなかった。

 命令を復唱して伝達すると、艦橋は即時に喧騒に包まれた。二名の旅団参謀将校が、通信士が、艦長ヴォロシーロフ大佐ら旗艦の指揮官たちが、それぞれの職責に従って有機的に動き出す。

 微かな振動と共に艦橋が装甲隔壁の内部に収容されるべく下降を始める。無数の星が散りばめられた悠久の空も、帯状のガス惑星も、恒星の光も全てが肉眼が直視し得る世界から消え去っていく。刹那の漆黒の後で艦橋の全面を覆う天球状のスクリーンが灯り、外界の様子を映し出すと光点の一粒としてすら認識できない彼方の敵艦の情報を伝えて来た。

 「全艦前進半速。ホールディングエリアはエーからハー

 「状況C発令。対艦戦闘配置」

 「混成部隊のため連携が難しい。旗艦からの発光信号に留意せよ」

 「防護戦列艦及び直掩を全周に展開。対空、対魚雷警戒を厳と成せ」

 事前に策定した作戦計画に従って、各部隊が動き出す。三二隻のバイエルン級重戦列艦を中核に大小一七四隻に及ぶ宇宙艦隊と、それに乗り込む十万人を超す将兵の命運は、ひとえに二五歳の薄いブロンド色の髪の青年の舌鋒に乗せられていた。

 だがその莫大な生命の行く末をその肉付きの薄い背に負う司令官とは思えない程に青年は平然として自らに課せられた役割を受容している。まるで戦うために世に生を受けたかのように泰然と、あるいは超然としてエルヴィンはスクリーンのその先を見つめていた。

 後に“第三次アーミテイジ海戦”と称される銀河連邦軍と銀河帝国軍との海戦の始まりである。

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