鎮魂の楽師と未練断ちの狩人

蓮条緋月

1話 未踏の地での邂逅

 魂は巡っている。鳥、花、虫、人、動物……この世にある命を持つものは等しく世界すら超えて循環するのだ。しかしその巡りは時として滞り、世界の気を澱ませてしまう。その最たる原因は強い負の感情を抱いたまま死を迎えた者たちが世界に溢れること。負の感情に塗れた魂は本来行くべき場所へは行けず世界を彷徨う。そのように澱み、彷徨う魂たちを導く役目を持つ者たちがいた。輪廻の神々から力を授かり音楽、絵画、物語など様々な方法でその魂を神々の許へ導くのである。その性質上異なる世界から遣わされる彼らは人々から鎮魂の神子、あるいは輪廻の使者と呼ばれていた。

 

 そんな世界のひとつ、アモルに存在する世界最大の森林・ハイドアウトウッズの奥深く、満天の星空を溶かしたような美しい湖のほとりに一人の青年が佇んでいた。人の気配のないこの場所にあるのは風に撫でられて揺れる木々の音と、しゃらしゃらと気まぐれに移ろう水面の音、そして呼応するように囀る鳥の声だけ。青年はそこに新たな音を静かに乗せた。

 低く、高く、形容しがたい余韻を残す不思議な音が空気を震わすと次第に浮かび上がるのは真冬の太陽のような仄かな熱を纏う光のたまだった。

 まるで意思があるかのようにふよふよと湖の上を気ままに泳いでいたその光はやがて、数多の色の蝶へと変化していく。水晶と見紛うほどの透き通った輝きを放つ蝶たちは青年の周りを一周し空へと昇って行った。

 蝶の姿が完全に見えなくなった頃に音は止む。


——今日は珍しく魂たちが騒がしい。


…………


……



 ハイドアウトウッズ。

 そこは険しい山脈に囲まれる隔絶されたアモル最大の森林地帯。そこは大陸の中で唯一の不可侵領域であり世界最大の国境にもなっている場所である。ガーディアン・オブ・クレイドルと呼ばれる山脈は強力な魔物の巣窟となっているため人々は地上の楽園と呼び恐れている。したがってハイドアウトウッズに立ち入った者は誰もいない。だが不思議なことに魔物たちもハイドアウトウッズの中に入ることはしないと、大昔に魔法を使い山脈を研究した者の著書には記されていたという。そしてハイドアウトウッズの入り口に差し掛かったところで一切の魔法が使用できなくなった、とも。ハイドアウトウッズ自体に結界でも張られているのか、あるいは魔物たちでさえも立ち入れないほどのなにかがあるのか、はたまた魔物たちがハイドアウトウッズに近づけぬように守っているのか。著書を書いた研究者がその不可侵領域を『まるで世界の隠れ家のような場所』と言ったことから、ハイドアウトウッズと呼ばれるようになった。学者たちの間では今でもその著書をもとに様々な研究が進められている。


   ♦


「くそっ…………!」


 そんな不可侵領域の山脈の中を駆けていく一人の男。着てきた衣服はボロボロですでに魔力も枯渇寸前だった。魔物に追いかけられるのはまだいい。しかし今自分を追っているのはそんな可愛らしいモノではない。いや、男からすれば今自分を追いかけているモノのほうが本命なのだが今回ばかりは事情が違っていた。

 早い話が仕事仲間に嵌められたのである。普段あまりつるむことのない仕事仲間に半ば強制的に誘われて山脈ぎりぎりのところまでやってきたもののそこに目的のものはなく、嵌められたと気づいたときにはすでに遅く、山脈のほうへと追いやられていた。地上の楽園と呼ばれるガーディアン・オブ・クレイドルは本来立ち入ることはない。立ち入れば最後、命がいくつあっても足りないからだ。どんなに魔法に優れた魔法使いでもどれほど武芸に長けた猛者であろうともこの山脈だけは終ぞ立ち入ることはなかったほどの危険地帯。通常時、いや通常時でなくとも立ち入ることはしない。しかし今はこの場所以外に逃げ道はなく、男はひたすらに走った。気力だけで何とか魔物を躱し続けて奥へと進んでいたがそれも限界に近く、すでに魔物たちによって満身創痍だった男はどこからともなく聞こえてきた音に思わず足を止めた。


「な、んだ……?」


 こんな山の奥で聞こえてくるはずのない笛の音。木々のざわめきと魔物たちの咆哮で聞こえるはずもないその音は確かに男の耳に入ってきた。それも山脈の向こう側から。この山脈の奥にあるのはただ一つ。外界から隔絶されたハイドアウトウッズのみ。まさかそこから聞こえてきているのだろうか。そこまで考えてふと違和感に気づき周りを見る。今まで自分を敵として、獲物として追いかけてきていた魔物たちが揃って笛の音がする方向を向いていた。

 この笛の音に何かあるのだろうか。しかし魔物たちが動かないならばと男は再び走り出す。動き出した獲物を追うかと思われた魔物たちは笛の音に耳を傾けたままだった。その光景に男はハイドアウトウッズに魔物たちは近づかないという話を思い出し笛の音が響く方角——ハイドアウトウッズへと足を進めるとにした。

 進むにつれ標高は高くなり全く手入れのされていない不可侵の山は進みづらく、すべてが限界だった。それでも聞こえてくる透き通る清水のごとく清らかに、月夜のように儚く耳に響く笛の音に癒され男はさらに足を進めた。空気の薄い極寒の地で動けているのは、ひとえに神の加護を受けたこの身と加護の込められた魔石の埋め込まれた特別製の武器があるからに他ならないのだが、この笛の音に励まされているのもまた事実であった。

 しかしついに限界に達し男はその場に倒れこむ。完全に意識を手放しかけた直後、何か妙に生温かいものが頬を撫でたような感触に再び目を開けた男が見たのは、夜空を溶かし込んだような漆黒の体とオーロラを思わせる瞳と鬣、そして翼を持った馬だった。色こそ違うがその姿はまさに伝説の幻獣・ペガサスである。そしてその横を飛んでいるのは宝石のような輝きを持つ希少な魔鳥・グランツフォーゲルだろうか。

 なぜこんなところに、と思う間もペガサスたちはこちらをじっと見続けている。幸いと言うべきか、こちらへの怒りや敵意は感じない。しかし静かな威圧感を纏っており動けない体がさらに硬直する。

 先に動いたのはグランツフォーゲルだった。おおよそ鳥の羽ばたきとは思えない美しい音を響かせながらこちらにやってきたグランツフォーゲルは男の上で二、三度羽ばたくと光が降り注ぎわずかに体が軽くなる。武器を杖にすれば立てるくらいには体が動きなんとかその場から立ち上がった。

 男が立ち上がったことを確認したグランツフォーゲルは男の上でくるりと一周するとペガサスの傍らへ戻って行った。ペガサスは立ち上がった男をじっと見続けていたが、そっと後ろを向き数歩歩くと再び後ろを向くと一つ鳴き声を上げる。


「ついて来いと言っているのか?」


 ペガサスは応えることなく歩き出す。男は後に続いて歩き出した。不思議なことにこのペガサスの歩いた場所は手入れのされていない山とは思えないほどに歩きやすく、男の体に負担がかかることもない。そのままペガサスたちに案内されるままに進んでいくと信じられないほどの速度で山を越えられた。

 そして山を越えた男の前に広がったのは——目が覚めるような美しく幻想的な光景だった。

 青空の下で見たことのない薄いピンク色の花びらを咲かせる木々、無数の蝶は水晶のような輝きを放ちながら花びらと共に優雅に舞っている。これほどの景色はこれまで見たことがなかった。

 景色に魅入っている男を気にすることなくペガサスたちは森の中へ進んでいく。ここまで来たら最早ついていく以外の選択肢はなく、黙って後を追っていく。そしてどのくらいの時間が経ったのかようやく開けた場所に出た。そこにあったのは美しい木々に囲まれ空がくっきりと映った湖、そしてその湖の中央には見たことのない建物が建っている。いや、正確には湖の上に浮いており建物を支えるように五つの橋が架かっていた。その橋もこの場所の景観を乱すことなく調和し、さながら神々の庭へ迷い込んだかと思うような幻想的な光景だった。

 再び呆然と立ち尽くした男をペガサスとグランツフォーゲルは一声鳴いて進むよう促す。男は導かれるままに橋を渡り建物の門前へと辿り着いた。男がついてきたことを確認したペガサスとグランツフォーゲルがその場で一鳴きすると門がゆっくりと内側へと開き、中から姿を現したのは——見たことのない服に身を包んだ漆黒の髪と青みがかった銀色の瞳が特徴の、玲瓏たる面差しをした青年であった。


「様子見を頼んだだけだというのに随分と珍しい土産を連れてきたな」


 そう言いながら青年はペガサスとグランツフォーゲルを撫でながらこちらをじっと見据えていた。おそらくこの建物の主だろうと認識した直後、ペガサスたちと出会ってからあまり感じていなかった強烈な疲労感や倦怠感に襲われ、男はついに意識を手放した。


…………


……



「人に会えたことで気が抜けて失神したか」


 見事に気絶した男を抱きとめた青年は深くため息を吐きながら男をペガサスの上に乗せ中へと入っていき、用意していた布団の上に男を横たわせる。


「魂たちが騒がしいから何かと思って聞いてみれば……この世界に来てから初めて会ったな」


 そう言いながら青年——桜庭貴音さくらばきおんは男を見つめる。着ている衣服はボロボロで傷も多い。この場所を囲む山脈は危険な魔物が多く棲息しているため、どんな種族も立ち入ることをしないと聞いていた。そんなところをたったひとりでいたのだ。ペガサスたちが間に合うまでにもたないだろうと思っていた貴音は彼がここまで生きていられた理由に気づく。


「この男……加護持ちか。肉体と魂、それから武器にまで……」


 人間と会いたくなくてこんな所に引きこもっているというのに、まさか向こうからやって来るとは。しかも何やら訳ありの。……面倒事の気配しかない。


「とはいえ満身創痍の人間を放置しておくわけにもいかないよな。さっさと治療して極夜に山脈の向こう側まで送らせよう」

 

 またため息をこぼし貴音は部屋を出た。ここへ来て五年、貴音が最後に人間を見たのは——前世の時である。

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