5月31日 エルネスト家2


 バターと林檎の甘い香りの中、二人の間に沈黙が広がった。


「今日はその話を詳しく聞きたいと思っていた。そして、婚約破棄は絶対にしない」


 ルドウィクの言葉に、リュシエンヌは視線を横に逸らす。

 彼女はサイドテーブルに置かれていた深緑色の天鵞絨の箱を手に取った。

 見た目とは違い、それはとても軽そうに見えた。


「あまり話すことはないの、だってあなたがあの彼女を……好きになるだけなんだもの。そして私のことを……憎んでたわ」


 天鵞絨の箱をテーブルの上に置きながら、リュシエンヌの声は小さくなっていく。


「憎むだなんて! 信じられない」

「私だって信じられなかった」


 ふっくらとした薔薇色の頬が、みるみる血の気を失っていく。

 気持ちを落ち着かせるように、リュシエンヌは紅茶のカップに手を伸ばした。


「リュシ、君のそんな悲しい顔を見たくないよ。でも、そんな表情をさせたのが俺なんだろ? 俺が君に何をしたか話してくれないか……」

「……」

「俺は君が生まれ変わったことを信じてる。だからこそ聞きたいんだ、俺がどんなことを君にしたのか」

「話したら、涙が出るもの……」


リュシエンヌは小さな唇をきゅっと真一文字に結んだ。


「そんなの俺が拭うし、嫌じゃなければ抱きしめる! あ、あとこの林檎のパイを好きなだけ食べていい! 本当なら、俺が独り占めしたいくらい美味しいんだから!」

「もう、ルドったら」


 リュシエンヌは目を細め、少しだけ眉を下げた。

 それはルドウィクが見慣れた、いつもの表情だった。

 ガラスの器に盛られた金平糖をつまむと、一粒口に運ぶ。

 彼女の頬が動くと同時に、カリッと小さな音が聞こえた。


「そうね、ごめんなさいルド。確かに何も話さないのはおかしいわ。でも、分からないことも多いの、それでも構わない?」

「わからないこと?」


 ルドウィクの胸に、一気に不安が広がった。

 俺は一体、彼女に何をしたんだろう……。

 だが、そんな心配より、話を聞くことのほうが大事だ。


「全然かまわない! 話してくれ」


 リュシエンヌはルドウィクの目を見つめ、しっかりと頷いた。

 そして、天鵞絨の箱の上に両手を乗せ、ゆっくりと話し始めた。


「明日6月1日、彼女が王立図書館を訪れることになってるでしょ? 大騒ぎになるわ」

「どうして?」

「それは彼女……アレシアがとても綺麗だからよ。私も初めて見た時驚いたもの。こんな美しい人がいるのかって」


 ――ごくり

 喉が鳴ってしまった。

 リュシエンヌがそれに気づいて目を見開く。


 違う、そういうんじゃない!

 まさか容姿の話とは思わなくて驚いただけだ。

 しかし、ここで弁解すれば余計に怪しまれてしまう。

 ルドウィクは小さく咳払いをした。


「好みというのは人それぞれだからわからないな。でも、そんなことで騒ぎになるのか……」

「ええ……まあいいわ。それでね、図書館に来た彼女の案内をするようにと館長のグレイスさんがセレーネに頼むんだけど……」

「セレーネは司書の勉強もしているから、おかしな話ではないな」

「うん。でもルドが手をあげたの『俺が案内するよ』って」

「あっ……でも、それは父からの頼みで」

「うん、わかってる」


 小さく溜息をつきながら、リュシエンヌは金平糖をまた一つ口に入れた。

 頼まれていたとはいえ、自分から手をあげたのは、どこか気まずい。

 

「私もこの時は特におかしいとは思わなかった。だってエルネスト家は、王立図書館の管理を任されてるしね」

「ああ……うん」

「それに、夕方私の屋敷に寄ってくれたの。『実はアレシアはある国の王女で、父に彼女の手助けを頼まれたんだー』って」

「俺、すぐ話しちゃってんだな……」

「ええ、すっごく驚いたわ」


 俺も今、自分のおしゃべりに驚いたところだ。

 でもそれだけリュシエンヌを信用しているし、誤解もされたくなかったんだろう。

 確かにこの状況なら俺も同じ行動をとる……って俺か、あー混乱する。

 

「でね、この日が最後かな……ルドが優しかったのは」

「え!?」

「ここから婚約破棄まで、あっという間なの!」


 少し語気を強めたリュシエンヌは、変な声を出してしまった俺にそう言い放つと、天鵞絨の箱を指先でタンっと叩いた。


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