第3話 屋敷での最初の地獄
翌朝。
トマスはジェームズに叩き起こされた。
「起床の鐘は、日の出とともにです。
私の手で起こされるのは、今朝が最初で最後と思いなさい」
言葉は冷静だが、そこに嫌味の色はない。
ただ事実を述べているだけの声音だった。
トマスは重い体をなんとか起こし、支給された灰色の制服に袖を通した。
粗末なシャツではない。ちゃんとアイロンがかかった布の感触が、かえって落ち着かない。
「サイズは合いますか」
「……少し、袖が長い」
「そのうち背が伸びるでしょう。
グレイ家では、成長を見越して服を仕立てます」
ジェームズはそう言って、襟元を整え、裾の皺を手早く払った。
その指先は、まるで自分自身の服を扱うかのように躊躇がない。
「ここから下は、使用人区域です」
廊下に出ると、ジェームズは歩調を崩さずに淡々と説明を始めた。
使用人部屋、洗濯室、厨房、倉庫――
それらが、規則正しく並ぶ様は、トマスからすれば別世界だった。
石造りの廊下は冷たく、窓から差し込む朝の光が床に長い影を落としている。
通り過ぎるメイドやフットマンたちが、ジェームズに気づくと一様に姿勢を正した。
その視線のうち幾つかは、トマスへと向けられる。
好奇、警戒、憐れみ。
どれも見慣れたものだが、ここでは一層、刺さり方が違った。
「こちらが食堂。使用人の食事はここで取ります。あなたも例外ではありません」
ジェームズが扉を押し開けると、長いテーブルがいくつも並んだ部屋に、パンと粥の匂いが広がっていた。
「おはよう、ジェームズ」
低い女の声が響いた。
トマスがそちらを見ると、腕を組んで立つ年配の女性がいた。
髪には白いものが混じり、エプロンはよく洗われているが、ところどころ染みが落ち切っていない。
目は、路地の古狸よりも鋭く、しかしその奥に奇妙な温かさを宿していた。
「メイド長。新入りです」
ジェームズが横に立つトマスを示すと、女はじろりと彼を値踏みするように見た。
「トマス、と申します」
とりあえず、灰街で覚えた一番礼儀正しい口調で名乗る。
女――マーガレットと呼ばれたメイド長は鼻を鳴らした。
「ガキじゃないか。何歳だい」
「十二です」
「十二?」
その一言に、周囲の数人がわずかに眉を動かした。
トマスの肩幅も身長も、たしかに使用人としては心許ない。
「仕事が務まるのかね」
マーガレットは、ジェームズのほうを見ずに問いかけた。
ジェームズは一呼吸おいてから答える。
「旦那様のご意向です」
「ふん。あの爺さんのご意向なら、誰も逆らえないさね」
マーガレットは肩をすくめてから、トマスの前に歩み寄った。
目の前に立たれると、彼女の存在感に圧倒される。
灰街の女たちとは違う。
この屋敷の中で、長年生き残ってきた者の重みを感じた。
「いいかい、坊や」
ぐい、と顎を指で持ち上げられ、視線を合わせさせられる。
「あんたがどこから来たかなんて、あたしは聞かない。
聞けば、余計に厄介なことになる。
でもね――」
マーガレットはじっとトマスを見た。
その目が、ほんの一瞬だけ柔らいだ気がした。
「あんたはまだ子どもなんだよ。
強がってもね」
トマスは返す言葉を失った。
子ども扱いされることには、いつもなら反発するところだ。
だが、このときだけは何も言えなかった。
「飯は残さないこと。
仕事は覚えること。
泣きたくなったら……裏庭で勝手に泣きな」
そう言って、マーガレットはかごからパンを一つ取り出し、トマスの手に乗せた。
他の皿より、明らかに少し大きい。
「メイド長」
ジェームズが注意するように名を呼んだが、マーガレットはふん、と鼻を鳴らしただけだった。
「子どもの腹を満たしてやるのが、年寄りの仕事さ。
あんたは口を出すんじゃないよ、ジェームズ」
ジェームズは小さく溜息をついただけで、それ以上は何も言わなかった。
その態度が、二人の関係を物語っていた。
互いに役割を理解し、時にやり合いながらも、同じ屋敷を支えてきたのだろう。
トマスはパンを見下ろし、胸の奥がちくりと痛むのを感じた。
こんな厚いパンを、灰街では四人で分け合って食べるのが当たり前だった。
今、自分一人が手にしている。
(ジェドたちは……今頃、何を食べてるだろう)
喉の奥がきゅっと締まった。
味もしないままパンを噛みしめ、粥を飲み込む。
腹は温かく満たされても、心のどこかは冷えたままだった。
***
その日から、トマスの“訓練”が始まった。
歩き方、立ち方、扉の開け方。
ナプキンの持ち方、皿の置く位置、紅茶の注ぎ方。
ジェームズは、何百もの細かな決まり事を、まるで当たり前の算術のように教えていく。
「背筋。
手首。
目線。
客の視界に入る角度」
注意の言葉は簡潔で、容赦ない。
だが叱責というより、調整に近い。
トマスの動きを見て、不要なものを削ぎ落とし、必要なものを足していく作業だった。
トマスは最初、わざと失敗してやろうかとも考えた。
わざと皿を鳴らし、わざと水をこぼし、わざとタイミングを外す――
そうやって、この屋敷の“生活”から自分を遠ざけようとした。
けれど、ジェームズはそういう小細工を見抜く。
「わざと失敗するくらいなら、最初からやらないほうがいい。
ここは路地ではありません。
この屋敷では、失敗は“誰かの面子”を傷つける」
「誰かって、誰だよ」
思わず吐き捨てるように言うと、ジェームズは初めて、わずかに口元を歪めた。
「グレイ家の面子。
そして、あなたをここに置くと決めた旦那様の面子です」
その“面子”の重さがどれほどか、トマスは完全には理解できない。
ただ、アルジャーノンの顔を思い浮かべると、背筋が冷たくなる。
「……あいつの面子なんて、潰れたっていい」
「そうですね」
ジェームズは否定しなかった。
それが逆に、トマスの胸をざわつかせる。
「私個人としても、旦那様のやり方が常に正しいとは思っていません。
ですが――」
そこで言葉を切り、トマスの目をじっと見た。
「あなたには、生きていてもらわなければならない」
その言い方があまりにも淡々としていて、胸に引っかかった。
「……あんた、俺の味方なのか、敵なのか、どっちなんだよ」
「どちらでもありません。
私は“家令”です」
そう言って、ジェームズは話を切り上げた。
それ以降、彼は一切余計なことを言わない。
ひたすらトマスの動きを見て、指導し、また見て、修正する。
その徹底ぶりは、ある意味でアルジャーノン以上に容赦がなかった。
***
数日も経つと、トマスは屋敷の中の“音”を聞き分けられるようになってきた。
メイドたちの足音と、庭師の靴音は違う。
マーガレットが台所で鍋を振るう音は、すぐに分かる。
ジェームズが廊下を歩くときは、ほとんど音がしない。
そしてアルジャーノンが杖で床を叩く音は、屋敷のどこにいても分かる。
その音が近づいてきたある日――
トマスは、ジェームズの付き添いのもとで、初めて正式にアルジャーノンの前に立つことになった。
大広間の奥、窓からの光を背にして、アルジャーノンは椅子に腰かけていた。
まるで裁きを待つ罪人のような気分で、トマスは一歩、また一歩と近づいていく。
「フットマン見習い、トマス。只今参りました」
ジェームズに叩き込まれた通りの言い回しで頭を下げる。
額に汗がにじんでいるのを自覚しながらも、なんとか声は震えなかった。
「顔を上げろ」
アルジャーノンの声は静かだ。
トマスが顔を上げると、その瞳がまっすぐに彼を射抜いた。
「……ほう」
老人は、こちらを上から下まで眺め、口元にわずかな笑みを浮かべた。
「灰街の小汚い子どもが、少しは“人”の形になってきた」
「……好きでこうなったわけじゃない」
思わず口をついて出そうになった言葉を、トマスは噛み殺した。
ジェームズの視線が、背中に刺さっている。
「お前がここにいる理由は、もう理解しているな?」
アルジャーノンは、懐からあの懐中時計を取り出した。
鎖が光を受けてきらりと揺れる。
「カードで勝った。
だから私は、お前に“興味”を持った」
老人の指先で、時計がくるくると回る。
「興味を失えばどうなるか――考えるまでもないだろう?」
トマスは、拳を握りしめた。
爪が掌に食い込み、痛みが生々しい感覚として伝わってくる。
「……俺が、ここを出たいと言ったら」
「好きに言えばいい。
それを聞き入れるかどうかを決めるのは、私だ」
アルジャーノンは、こともなげに言う。
トマスの喉の奥から、低い音が漏れた。怒りか、悔しさか、自分でも分からない。
「ジェドや、ネルや、リリィの話をしたら?」
あえて名前を出す。
それがどれほど危険なことかは分かっていた。
けれど、黙っているほうがもっと危うい予感がした。
アルジャーノンは目を細めた。
「名前を出すということは、すでに“こちら側”の駒として意識しているということだ。
お前は正直だな」
「……!」
「安心しろ。
彼らにはすでに“目”をつけてある。
今のところ、手を下す必要はない」
トマスの頭が真っ白になった。
「……もう、見つけたのか」
「私はこの街を“治めている”と言ったはずだ」
老人は淡々と答えた。
「お前がここで役目を果たしている限り、路地裏の子どもたちに手を出す理由はない。
逆を言えば――」
そこから先の言葉は、あえて口に出されなかった。
だがトマスには、嫌でも意味が理解できた。
「お前の足一本、手一本。
それに対して、あちらの子どもが何人分か。
そういう計算すら、私はできる」
アルジャーノンの声音には、感情がなかった。
ただ数を数えるときのように平板だった。
「……最低だな」
トマスは呟いた。
アルジャーノンの口角がわずかに上がる。
「褒め言葉として受け取ろう」
老人は懐中時計を手の中に収め、ジェームズのほうへ視線をやった。
「ジェームズ。
この子を、私付きフットマンとして形になる程度に仕上げろ。
時間はいくらかかっても構わん」
「かしこまりました、旦那様」
ジェームズが恭しく頭を下げる。
それで、この場の“判決”は下されたのだった。
***
その夜、トマスは一度だけ屋敷の外へ出ようとした。
使用人用の裏口から、庭を抜け、塀を越えれば――
灰街とは反対側だとしても、とにかくこの屋敷から離れられる。
月は薄く雲に隠れ、足元は暗い。
靴を脱ぎ、素足で土を踏みしめる。
冷たさと湿り気が、路地の感触を思い出させる。
(逃げるなら、今だ)
心臓が喉元までせり上がる。
ジェドならどうするだろう。
きっと迷わない。
自分の足で、自分の道を選ぶ。
塀に手をかけ、体を持ち上げようとした瞬間――
「どちらへ?」
背後から、静かな声がした。
振り返らなくても分かる。
ジェームズだ。
トマスは、歯ぎしりしながら塀から手を離した。
「散歩だよ」
「真夜中に?」
「灰街じゃ、いつだって散歩みたいなもんだ」
ジェームズは少しだけ沈黙し、それから歩み寄ってきた。
月明かりに、その顔の一部が浮かび上がる。
「……あなたがここから出て行くことを、私は止める資格がありません」
意外な言葉だった。
トマスは思わず目を見開く。
「屋敷の家令としては止めるべきでしょうが、ひとりの人間としては、あなたの自由を奪う権利はない」
「じゃあ、どけよ」
「ですが」
ジェームズの声が、ほんのわずかだけ低くなった。
「もしあなたが今、ここから居なくなったら――
灰街の“誰か”が、この屋敷に連れて来られるでしょう」
喉の奥が、ひゅっと鳴った。
「たとえば、ジェド。
あるいはネル。
もしくは、いちばん小さな子ども」
「……リリィは、関係ない」
「そうですね。
だからこそ、どこまでも利用される」
ジェームズは、淡々と告げる。
「旦那様が“気に入った”対象を、簡単に手放すことはありません。
あなたが逃げれば、代わりを求めるだけです」
トマスは拳を握りしめた。
塀の向こうの暗闇と、屋敷の背後に広がる闇。
どちらがより深いのか、今の彼には判断できない。
「……俺がここにいれば、あいつらは……」
「少なくとも、今すぐに狙われる可能性は下がるでしょう」
ジェームズは、言葉を慎重に選んでいた。
「約束はできませんが」
「約束くらいしろよ」
「できもしない約束をするのは、私の仕事ではありません」
その冷静さが、逆に信用ならないほど真っ直ぐだった。
しばらく沈黙が続いた。
風が庭木を揺らし、葉が擦れ合う音がする。
遠くで、どこかの部屋の時計が時刻を告げた。
トマスは、ゆっくりと塀から手を下ろした。
「……クソったれだな」
「誰に対する言葉でしょう」
「全部だよ」
トマスは吐き捨てるように言った。
「グレイ卿も、あんたも、この屋敷も、この街も。
俺がここにいなきゃいけない理由が、ぜんぶ、クソみたいだ」
ジェームズは何も言わなかった。
ただ、その沈黙が、否定でも肯定でもないことだけが伝わる。
「戻りましょう。
風邪をひきます」
ジェームズが踵を返す。
トマスは最後にもう一度だけ塀を見上げてから、彼の後を歩き出した。
庭の向こう、見えない暗闇の中に、灰街がある。
小さな掘っ立て小屋。
そこで眠っているはずの、三人の顔。
(逃げないんじゃない。
今は、逃げられないだけだ)
そう自分に言い聞かせるように、トマスは歩いた。
***
部屋に戻ると、窓の外は白み始めていた。
東の空に、ごく薄く光が差し込む。
トマスはベッドの縁に腰を下ろし、じっと両手を見つめた。
カードを握っていた指。
懐中時計に触れかけた指。
塀をよじ登ろうとしていた指。
そのどれもが、自分のものだ。
(俺は、ここから出られないわけじゃない)
いつか、必ず出る。
その時まで、生き延びて、力をつける。
この屋敷を、そしてアルジャーノンをよく知ることも、きっと無駄にはならない。
(ジェドなら、きっとそう言う)
トマスは深く息を吸った。
「……覚えてろよ。爺さん」
誰に聞かせるでもなく呟いた言葉は、まだ頼りない。
けれど、その奥には確かな棘があった。
懐中時計の代償として、自由を奪われた。
その事実は消えない。
だが同時に――
懐中時計の鎖は、どこかでアルジャーノン自身の首にも巻きついている。
自分を手駒として選んだ以上、この老人もまた、簡単には手放せない。
(いつか、この鎖を引きちぎる)
そう心の中で誓いながら、トマスは窓の外の空を見つめた。
灰色の空。
灰街と同じ色をした朝焼け。
その向こうで、ジェドたちもまた、新しい朝を迎えているのだろうか。
胸の奥が、痛みと温度を伴って締め付けられる。
トマスは毛布にくるまり、目を閉じた。
眠りは浅く、不安定で、悪夢に満ちていた。
それでも、眠らなければ明日を迎えられない。
こうしてトマスは、
懐中時計と引き換えに、自由と路地の夜を失い、代わりに屋敷という“檻”の中で生きることを選ばされる。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。