その捜査は収束しない
花野井あす
捜査FILE-1
クローン製造の世界的権威という、一風変わった物理学者の鈴木教授が亡くなった。
それは世界を驚かせるビッグ・ニュース!……のはずなのだが、田中警部補はその出来事をありのままに受け入れられず、困惑している。
鈴木教授と田中警部補が親しい仲で非常におセンチな気分になっている、というわけではない。なぜならば二人は顔見知りでない。ゆえに学問に疎い田中警部補からすると鈴木教授は、物理学者の看板を背負った生物学者ではなくロサンゼルスのサムライマンであり、ミュンヘンの芸者ガールである。即ちまったくの赤の他人なのである。
では何が彼を困惑させているというのか。
それはまさに、現在直面している捜査資料である。
刑事A、刑事B、刑事C、エトセトラ、エトセトラ。同僚たちが意気揚々と現場で聞き込みをして回って纏められた報告書。それがなんとも奇妙なのである。
いわく、
鈴木教授は彼女の愛車を乗り回していたところ、大型トレーラー車に激突され、死亡した。鈴木教授の車の窓は砕け散っていた。
いわく、
鈴木教授は彼女の愛車を乗り回していたところ、大型トレーラー車に衝突され、死亡した。鈴木教授の窓はひび割れただけである。
粗末な文章版◯ッケか。あるいはウォー◯ーを探せか。まるで言葉のイメージが記憶に影響することを証明する心理学実験のような、微妙な文面の違い。だがこれらが言葉遊びでも心理学実験のレポートでもないことを、実際の現場写真は証明しているのである。前者の報告書に添えられていた鈴木教授の愛車は文字通り「激突」されたかのように滅茶苦茶だ。一方で、後者の報告書に添えられていた鈴木教授の愛車は少しベコッと歪んでいるだけで、どうして亡くなったのか不思議なくらいである。そう。
さらにそれだけでは留まらない。
いわく、
鈴木教授は彼女の愛車を乗り回していたところ、大型トレーラー車へ激突し、死亡した。鈴木教授の車の窓は砕け散っていた。
いわく、
鈴木教授は彼女の愛車を乗り回していたところ、大型トレーラー車へ衝突し、死亡した。鈴木教授の窓はひび割れただけである。
こちらは鈴木教授自ら大型トレーラー車へ挑んでしまっている。その他にも鈴木教授が重大の意識不明というバージョンや、鈴木教授だけでなく大型トレーラー車の運転手まで天使のラッパを聞いてしまっているバージョンもある。つまりは二種類どころか
とうとう、目がおかしくなったのか?
老眼か。
なるほど、これが老眼というものなのか。
確かにそういう年齢だ。市民の安全を守る職を誇らしくまっとうして、妻と子は持てなかったものの、頼れる同輩と可愛い後輩に恵まれ、さらにはたまに唾を吐きつけたくなるもののやりがいのある仕事もベテランと言えるくらいに骨に染み付いた。睨みに睨みこき使われた眼球も視神経も悲鳴を上げておかしくはあるまい。などと、混乱に混乱を塗り重ねて脳神経回路のシナプス発火が無秩序になった田中警部補は、近所の眼科を検索している。
眼科では視力2.0のよくあるドライアイと診断され、特製目薬を処方された田中警部補だが――目がすっかり潤っても分裂した報告書の内容が統合されることはない。やはりある刑事は鈴木教授が激突され非業の死をとげ、ある刑事は鈴木教授が衝突されて謎深い死をとげ、ある刑事は鈴木教授が大型トレーラーへ挑んで英雄死し、ある刑事は鈴木教授と大型トレーラー車の運転死が手を取り合って天国への階段を駆け上がった、と報告するのだ。
それだけではない。
たった半日、眼科通院のため休暇をもらっただけなのに、事態は悪化している。なんと、田中警部補の報告書が二種類あるのだ。勝手に誰かが田中警部補のアカウントとパスワードを掠め取り、懇切丁寧に
「なあ
隣席で同じく内容の散らかった資料とにらめっこしていた井上巡査部長が顔を上げる。
「この世界にそっくりさんは三人いるらしいっすよ、田中さん」
「なるほど。ではそのうちのいずれかがオレのPCへ
「嘲笑っているのは、今目の前にいる田中さんかもしれないっすよ」
なるほど一理ある、と田中警部補は納得する。他の刑事たちも密かに納得しているのだろう。鈴木教授はクローン製造の権威と聞くのだし、きっとこれはドッペルゲンガーという名のクローンたちによる反乱に違いない。
まったく、捜査の邪魔をするとは実に腹立たしい。しかも、どれが邪魔をしたことによる産物なのか分かりづらいという、迷惑極まりない手法で。効果は絶大だ。どれが信用できる資料なのか判別つかず、捜査の手を止める。
いや、田中警部補は資料の支離滅裂さに気付き手を止めたならばマシな方だろう。
問題は支離滅裂をそのまま受け止め、違和感を日常にしてしまっている刑事たちだ。彼らも当初は田中警部補同様、捜査資料の不確かさに顔をしかめていた。だがいかなる腐敗臭にもしだいに鼻が慣れるように、統一性のない資料に対しなんの抵抗も覚えなくなっていった。無秩序な証拠をもとに、無秩序な捜査をするのだから、ひとつの真相に収束するはずがない。これは由々しき事態だ。それでも捜査を止めるわけにはいかないのだから、いっそう由々しき事態だ。
「……いや、使えないなら今すぐ洗い直すだけだ。今度は金庫に資料をしまえばいい。分かりやすい目印……そうだな、ちょっとした細工をして」
そうと決まれば再捜査である。一から現場や関係各所を巡り、証拠写真や証言を回収してまわる。こうすればいま蓄積している資料はすべてゴミ箱へ放り込むことができ、状況をリセットできる。
だが田中警部補は事態を甘く見ていた。ドッペルゲンガーが、警察関係者だけにいるのだと――ここで思い出すべきだったのだ。写真だけでなく、DNA検査結果といった科学捜査の結果もまた複数通りあったことを。写真は加工アプリで幾らでも改ざん可能だが、科学捜査資料となるとそうも容易ではない。
その科学的証左にもまた多種類の同一事件があったことを思い出すのにはむろん、そう時間を要さなかった。
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