アニマの檻

四十住沓(あいずみ くつ)

第1話 想像界へようこそ

「……死んじゃえばいいのに」

 それは些細な喧嘩だった。喧嘩というより、おれが癇癪を起こしただけなのだが。

 ――何てことを言ってしまったのだろう。

 本心から出た言葉ではなかった。冷や汗が頬を伝う濡れた感覚が、おれの背筋をぞくぞくと震わせる。

 だがそんなおれの未熟な言葉に、兄貴は優しく嫣然と微笑んだ。兄貴の好きなサンダルウッド――白檀の薫物が噎せ返るように部屋を満たしていた。その仄甘い芳香が、息をする度乾いた喉奥に絡みついてくる。何処か湿った烟は、おれの皮膚の裏側にまで沁み込んでいく。吸い込む度、兄貴の存在に全身が内部から侵掠されていくかのようだった。

「君はそう思うんだね」

 何時もそうだった。九歳上の兄貴は、まだ幼いおれの言葉を懐深く包み込んで、あえかに顔を綻ばせるのだ。柔らかく、宝玉のような凄絶な美しさで。汗も唾液も血潮すら感じさせない、人工的とも言える麗かさで。

「……兄ちゃんなんか、嫌いだ」

 十歳の愚かなおれでも、流石に言っていいことと悪いことの分別くらいついていた。だが今更引き下がれず、突き放すことしか出来なかった。

 思わず涙ぐんだおれの頭を、兄貴が優しく撫ぜる。まるで毀れ物に触れるかのように、酷く静かに。白魚のような指がおれの髪をやさしく梳いていく。その仕草には神からの愛撫のような聖なる感覚すらあった。兄貴の温もりが毛穴の奥から頭蓋、脳髄に向かって染み込んでいく。

「そうか」

 ――その時の兄貴の穏やかな微笑みは、瞼を閉じれば何時でも引き出せる程には焼き付いている。

「蓮二、君はそれでいい」

 その慈愛に満ちた声は、耳からおれの中に這い込んでいくようだった。


―――――――――――――――

 

「蓮二、おはよう」

「ああ、草野。おはよう」

 今日は一限から必修科目が入っている。大学の構内で彼女に声を掛けられた。

「何よ、目の下に隈が出来てる。元気なさそうね。何かあった?」

 おれと草野は幼馴染であり、今は恋人同士だ。草野は黒いロングヘアを靡かせながら颯爽とやって来た。国文学科のおれと違い、哲学科に通っている。昔から小難しいことを考えるのが好きな女だった。

 草野はおれの変化に敏感なところがある。今日もそうだった。髪と同じく黒い切れ長の瞳を鋭く光らせる。

「あ、ああ。昨日兄貴と喧嘩したんだ。おれ、言っちゃったんだよ。……『死んじゃえばいいのに』って」

 何気ない悩み相談のつもりだった。だが卒然草野の表情が曇る。

「……蓮二。何度も言ってるけど、八年前に柊真くんはもう――」

 ――花野柊真。それが兄貴を表す記号だった。その名を聞いて、不意に正気に戻る。

「そ、そうか。そうだったな。夢を見たみたいだ」

 こういうことが屡々あった。夢と現実が交錯する瞬間――『生きている』というまやかしと、『死んでいる』という確信が交互に波打つ。肌の内側で心臓がゆっくり灼かれていくようだった。『あの時』と同じように、頬に汗が伝っていく。

「大丈夫? しっかりしてよね」

 草野は何時も早口だ。それは彼女の頭の回転の速さを象徴しているように感じられる。だが、その語調に刺々しさはない。寧ろおれへの心配を物語っていた。

「悪い、ちょっと混乱してただけだ。早く授業に向かおう」

「うん。――あ、蓮二、またピアス開けたの?」

「ああ。昨日、自分で」

「……はっきり言って似合ってないよ。そのいかにも男らしい服装も、服に着られてる。ファッションは自己表現の一つだとは判っているけど――」

 自分のライダースジャケットを見る。そんなに不釣り合いだろうか。少なくとも、中性的だった兄貴よりは似合うと思うのだが。

「……兄貴みたいになりたくないんだ」

 だから、敢えて無骨な服を着る。皮膚に食い込む拘束具の感触に、自分を縛り付けるような安堵と恍惚を覚える。ピアスだって、兄貴とは違うと思い込む為の儀式だった。

 草野は一瞬暗い表情を浮かべた。

「貴方は何時も柊真くんのことばかりね。……まあいいわ。行きましょ」

 草野の澄んだ声を号令に、おれたちは講義室へと歩き出した。

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