第七章 新たな試練と絆 08
「みんな、気をしっかり持て! こいつの気配に飲まれるな!」
俺は叫ぶが、自分の声すら震えているのが分かった。
アビスウォーカーが放つ『絶望の波動』が、じわじわと俺たちの精神を蝕んでいく。
足が竦み、思考が鈍り、心の奥底から「もう駄目だ」という囁きが聞こえてくるようだ。
「レオンさん! わたくしの聖域創生が……! 空間ごと歪曲されて、維持できません!」
背後でリリアが悲鳴に近い声を上げる。
彼女が展開していた防御兼支援の魔法陣が、アビスウォーカーの存在そのものによって生まれる空間の歪みに耐えきれず、火花を散らして霧散してしまったのだ。
最後の聖域創生がっ!? 支援がなくなるとこちらがさらに不利になる。
「だったら、こっちから仕掛けるまでよっ!」
最初に動いたのは、やはりセシリアだった。
彼女は絶望の波動を気合で振り払い、覚醒した『剣気解放』の蒼いオーラをその身に纏って突貫する。
その速さは、もはや並の魔物では捉えることすらできないだろう。
「奥義――『天狼星牙(シリウス・ファング)』!」
セシリアの愛剣が、流星のような軌跡を描き、アビスウォーカーの胴体を切り裂く。
手応えはあったはずだ。だが――。
キィン、と甲高い金属音が響いたかと思うと、蒼いオーラを纏った彼女の剣は、まるで硬すぎる岩でも殴ったかのように、半ばからポッキリと折れてしまった。
「なっ……!?」
セシリアの顔から、驚愕と絶望の色が浮かぶ。
彼女が実家から唯一持ってきた形見であり、数多の戦いを共にしてきた愛剣が、こうも容易く……。
「馬鹿な……あたしの剣が……」
呆然とするセシリアの隙を、アビスウォーカーは見逃さなかった。
その影のような腕がしなり、『虚無の爪』がセシリアに迫る。
「危ない!」
「きゃあああっ!」
俺は咄嗟にセシリアを突き飛ばし、自分も地面を転がる。
爪は俺たちのいた場所を抉り、石畳の床にあり得ないほど深く、滑らかな傷跡を残した。
もし直撃していれば、俺の革鎧など紙同然だっただろう。
「ミーナ、援護を!」
俺の叫びに、ミーナが影から影へと飛び移り、アビスウォーカーの死角を狙う。
だが、彼女が影に潜ろうとした瞬間、異変が起きた。
「……ッ!? 影に、潜れない……!」
ミーナが焦りの声を上げる。
アビスウォーカーが立つ周囲の影が、まるで意思を持つかのように彼女を拒絶しているのだ。
影は彼女の足場ではなく、敵の領域と化していた。
「なんてことだ……。影そのものを支配しているのか……!」
セシリアは剣を失い、リリアの魔法は空間歪曲で阻まれ、ミーナは得意の隠密行動を封じられた。
八方塞がりとは、まさにこのことだ。
アビスウォーカーが、ゆっくりとこちらに歩を進める。
その一歩一歩が、俺たちの心臓を直接掴むようなプレッシャーとなって襲いかかってきた。
「こうなったら……! わたくし最後の魔力を振り絞って最大魔法で、動きだけでも止めますわ!」
リリアが、覚悟を決めた表情で前に出た。
彼女の魔力が、これまでにないほど凝縮されていくのが分かる。
「万象の理よ、我が声に耳を傾け、時空の鎖となりて彼の者を縛めよ! 『クロノス・バインド』!」
リリアが放ったのは、対象の時間を束縛するという、禁術に等しい大魔法だった。
眩い光の鎖がアビスウォーカーに殺到する。
アビスウォーカーはただ腕を振るっただけで、光の鎖は脆いガラスのように砕け散り、リリアを強烈な魔力のカウンターが見舞った。
「きゃあッ!」
吹き飛ばされたリリアは、壁に叩きつけられ、ぐったりと意識を失いかける。
――鑑定対象:リリア――
【状態】魔力枯渇、精神的ショック(大)、意識混濁
鑑定するまでもなく、彼女の魔力がほぼ空っぽになったのが分かった。
最後の切り札だったはずの大魔法が、こうも容易く破られるなんて。
俺たちが相手にしてるものの、恐ろしさで足が竦むが、自分の頬を張って奮い立たせる。
リーダーの俺が怯えてどうする! 考えろ! やつに勝てる方法を!
「リリア!」
セシリアが折れた剣の柄を握りしめ、リリアの元へ駆け寄ろうとするが、アビスウォーカーはそれを許さない。
空間が歪み、奴は一瞬でセシリアの目の前にテレポートしていた。
「ひっ……! ひぐっ!」
『虚無の爪』が、無慈悲に振り下ろされる。
もう駄目だ。誰も、間に合わない。
俺は、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
自分の無力さが、これほど恨めしいことはない。
仲間が次々と倒れていくのを、見ていることしかできないなんて。
クソ! これが……俺の限界なのか……?
追放されたあの日、もう二度と無力なままではいたくないと誓ったはずなのに。
仲間を守れる力が欲しいと、そう願ったはずなのに。
セシリアみたいな剣術も、リリアみたいな魔法知識も、ミーナみたいな影を操る力もない無力な自分が歯がゆい。
「あぐううぅっ!」
「セシリアぁあああっ!」
アビスウォーカーの爪によって傷を負ったセシリアへ、絶対に届かない手を差し伸ばす。
その時、俺の脳裏に、鑑定結果の一文が閃光のように蘇った。
【状態】捕食対象認識、次元干渉による不安定化(極微弱)
次元干渉による……不安定化……?
そうだ、こいつは召喚された個体。
この世界に完璧に馴染んでいるわけじゃない……! 考えろ! 俺! あいつは倒せないわけじゃないはずなんだ!
ほんの僅かな綻び……。そうか、綻びかっ!
蜘蛛の糸よりも細い、唯一の希望の光が見えた。
「セシリア! ミーナ! まだ動けるか!?」
俺は絶望の淵から這い上がるように叫んだ。
「レオン……? でも、もう……」
「まだだ! まだ終わってない! 俺の言う通りに動いてくれ! 一瞬でいい!」
俺の必死の形相に、二人は何かを感じ取ってくれたようだった。
傷から血を流しながら折れた剣を構えるセシリア、ナイフを握り直すミーナ。
その瞳に、再び闘志の火が灯る。
「こいつは、この世界の存在じゃない。そのせいで、ほんの僅かだが不安定な部分があるはずだ! その綻びを突く!」
俺は鑑定スキルを極限まで集中させる。
あまりに力を集中させすぎて、鈍器で頭を殴られたかのような痛みと目から出血したのか、視界が赤く染まっていく。
アビスウォーカーの揺らめく体、その魔力の流れ、空間の歪みの中心……視界内に浮かび上がった全ての情報を、脳内で再構築していった。
弱点は『無』……。
攻撃も、防御も、全てを無に帰す。
なら、こっちも『無』から何かを生み出すような、この世界の理そのものを叩きつけるしかない……!
俺が導き出した答えは、あまりにも荒唐無稽で、博打に近いものだった。
「リリアが倒れる直前に使った時間停止の魔法……その残滓が、まだこの空間に漂っている! そして、この遺跡の壁には、膨大な魔力を蓄積した魔石が埋め込まれている! これを利用してやつを倒す!」
アビスウォーカーの注意が、完全に俺たちに向いている。
「セシリア! お前の折れた剣……それに、覚醒したお前の『剣気』を、限界まで注ぎ込め! 剣の形を保つ必要はない! 純粋なエネルギーの塊として、奴の足元の空間に叩きつけろ!」
「なにそれ……!? でも、そんなことをしたら……」
「いいからやれ! リリアの魔法の残滓と、お前の剣気が反応すれば、一瞬だけ、空間の歪みが中和されるはずだ!」
「……分かったわ! あんたを信じる!」
セシリアは折れた剣に、残された全生命力と精神力を振り絞るように、蒼いオーラを注ぎ込んでいく。
剣の柄が、眩い光の塊と化した。
「ミーナ! お前は俺の合図で、この遺跡の壁にある、一番大きな魔石にナイフを突き立てろ! 場所は、お前の三歩右、頭上の高さだ! 鑑定では、あの魔石がこの区画全体の魔力供給源になっている! それを破壊すれば、遺跡の魔力が暴走し、アビスウォーカーの不安定な存在を、この世界から弾き出せるかもしれない!」
「……! 正気かよ、レオン! そんなことしたら、あたしたちも……!」
「やるしかないんだ! 俺たちみんなが、ここで生き残るためには! 頼む!」
俺の瞳に宿る狂気じみた覚悟を、ミーナは黙って受け止めてくれた。
彼女は静かに頷き、壁の魔石の位置を確認する。
アビスウォーカーが、俺たちの小細工に気づいたように、その『無』の顔をこちらに向けた。
紅蓮の光が、危険なほどに増している。
「今だっ! やれえええええッ!!」
俺の絶叫と同時、セシリアが光の塊と化した折れた剣を、アビスウォーカーの足元に叩きつけた。
閃光と轟音が辺りを包み、アビスウォーカーが立っていた空間の影が消え、一瞬だけ、本当にほんの一瞬だけ、正常な床に戻る。
その刹那を、ミーナは見逃さなかった。
彼女の投げたナイフが、吸い込まれるように壁の魔石に突き刺さる。
次の瞬間、世界が白く染まった。
遺跡全体が絶叫するかのように鳴動し、壁や天井から凄まじい魔力が奔流となって溢れ出す。
暴走した魔力は、この空間に存在する異物――アビスウォーカーへと牙を剥いた。
「グ……オオオオオオオオオオッ!?」
初めて、アビスウォーカーが苦悶の声を上げた。
その体が、激しいノイズが走った映像のように乱れ、崩壊していく。
暴走した世界の理が、規格外の存在を強制的に排除しようとしているのだ。
「みんな、伏せろ!」
俺は意識のないリリアを抱え、仲間たちの名を叫んだ。
凄まじいエネルギーの嵐が、俺たちの体を飲み込んでいく。
薄れゆく意識の中で、俺はアビスウォーカーの体が完全に光に飲み込まれ、消滅していくのを見た気がした。
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