第23話 安息の休日、泉に響く歌声

今日は、ヘレナ先生の手伝いも、フェルガンの活動もない自由な日だった。

このところは泊りがけでフェルガンの狩りに同行したり、ヘレナ先生の往診を手伝ったりと、慌ただしい日々を過ごしてきた。身体的な疲れはそれほどでもないが、ここ最近の出来事があまりにも濃密すぎた。

フェルガンとしての経験、医療の手伝い、そしてゼフィルやライアの話――どれも大切なものだが、その一つ一つを振り返る時間がなかった気がする。

本当にこの世界でやっていけるのか? 旅立つ未来は、まだ遠いのか?

そんな考えが頭の片隅で引っかかっている。だからこそ、こうした自由な時間が与えられるのはありがたい。

とはいえ、部屋にこもっているのも性に合わない。

自室の机に座り、ヘレナ先生から渡された治療用カードとその使い方を解説した冊子を手にしていたが、集中力は今ひとつだった。カードの表面に刻まれた複雑なミスティコードが目に飛び込んでくるが、その意味をじっくり考えるよりも、どうにも別のことに意識が向いてしまう。

「まったく、長命種らしからぬ貧乏性だよな」

思わず苦笑しながら冊子を閉じた。

ふと窓の外を見ると、今日も空は雲一つない快晴だった。木々の隙間から挿す光が眩しく、青い空と緑のコントラストが目に鮮やかに映る。この世界に来てから、自然がこんなに美しく感じられる日々が続くなんて思いもしなかった。

「……どうせなら、外でやろうかな」

思い立つと同時に、手近にあった赤枝を掴み、椅子から立ち上がる。カードと冊子をバッグに放り込むと、玄関を開けて外へと足を踏み出した。

玄関を出ると、空気が肌に心地よく触れる。自然と背筋が伸び、大きく腕を広げて伸びをする。

「んー……本当にいい天気だ」

思わず独り言が漏れた。

空気の匂いにはほんの少し草の青さが混じり、風が心地よく頬を撫でる。日本に居たころであれば、こんな時は迷わず相棒のバイクでひとっ走り行くところだが、残念ながらバイクは大学の敷地と一緒に転移してきたのだが、走れるような状況ではないことは言うまでもない。大学の狭い敷地の中だけなら走れなくもないが、むなしいだけである。

このまま家の周りを散歩するのも悪くない気がしたが、やっぱり何か目的が欲しい。さて、どこに行こうか――そんな風に考え始めると、自然と頭に浮かんだのは、あの泉だった。

エッタと初めて言葉を交わした場所。あの時、何気なく歌ったことで、彼女との交流が始まった。そしてあの泉はエッタの歌の練習場でもある。思い返せば、この泉での出会いが、エルミナスでの生活を本格的に動かし始めたきっかけだったのかもしれない。

「そうだ、あそこに行こう」

初めてエッタと出会い、歌を交わした場所。

エルミナスに来たばかりの自分が、初めてこの世界の音を感じた場所――。

気づけば、泉の景色が脳裏に浮かび、足取りが軽くなっていた。


◇    ◇    ◇


 泉に到着すると、目の前には変わらぬ風景が広がっていた。水面が陽光を反射し、緑の木々が風に揺れて囁いている。そして、その中心には台座のような岩と、歌うエッタの姿があった。

泉の水面は、エッタの歌声を優しく抱き込みながら、波紋のように旋律を広げていく。

それはまるで、彼女の声がこの世界の呼吸と混ざり合っているような感覚だった。

木々の隙間を抜ける風が旋律に寄り添い、揺れる葉がその余韻を囁く。

歌が風景を変える――そんな不思議な錯覚を覚えた。

自然が奏でるこの壮大な楽章の中に、エッタの声が溶け込み、それがまた新たな調べを生み出している。自分はしばらく立ち尽くし、その調和にただ耳を傾けていた。

「クウォン?」

歌を終えたエッタがこちらに気づいて振り返った。

「どうしたの?今日はヘレナ先生の手伝いの日じゃなかったわよね?」

「うん、そうだね。今日は何もない日なんだ。それで、ここで勉強しようと思って」

カードと冊子を見せながら笑った。

「なるほど、そういうことね」

エッタが小さく微笑む。

「ここなら静かだし、きっといい勉強になるわよ。まぁ私は歌の練習をさせてもらうけど」

「ありがとう。そうさせてもらうよ」

木陰に腰を下ろし、エッタの歌声をBGMにしながら勉強を始めた。


◇    ◇    ◇


しばらくして、エッタが歌を終えた頃、泉の周囲にかすかな羽音が響いた。

木々の間から光が差し込む中、小さな影が舞い降りてくる。

「エッタ!今日もいい声ね!」

元気な声とともに、妖精族の少女たちが泉へと降り立った。エッタと彼女たちは挨拶を交わし、自分にも軽く手を振ってくれる。

「クウォン、今日はここで何してるの?」

一人の少女が首を傾げながら尋ねてきた。

「今日は自由な時間だから、勉強しようと思ってね」

自分は冊子を見せながら答えた。

「ふーん。でも、せっかくだから歌ってみたらどう?歌える?」

別の少女が冗談めかして言うと、エッタがクスリと笑った。

「クウォンは歌えるわよ。ただ、今は勉強中みたいだけどね」

「……そうだね、今は勉強が優先かな」

そう答えながらも、彼女たちの無邪気な提案に少し心が揺れる。


◇    ◇    ◇


 午前の練習を終え、ちょうど太陽が真上に登ったくらいで昼食にすることになった。

泉の木陰で、妖精族の少女たちとエッタが用意した昼食が広げられた。サンドイッチが木製のプレートに並べられ、その横には色とりどりの果物が添えられている。少女たちは楽しそうに笑いながら、それぞれのサンドイッチを選んでいた。

「これ、エッタが作ったの?」

と、一人の少女が口に運びながら尋ねる。

「ええ、簡単なものだけどね」

エッタが少し得意げに微笑む。

自分も一つ手に取り、一口食べると、パンの柔らかさと中の野菜の新鮮さが口いっぱいに広がった。間に挟まれたソースはハーブが香り、爽やかな味わいだった。

「おいしい」

素直な感想を漏らすと、エッタが少し照れたように笑った。

「そう言ってもらえると嬉しいわ。でも、このハーブは彼女たちが持ってきてくれたものよ。彼女たちがいなかったら、こんな味にはならなかったと思う」

「へえ、これ、妖精族のハーブなんだ」

自分はサンドイッチを眺めながら感心する。

食後、妖精族の少女たちが持ってきたクッキーを配りながら楽しそうに話していた。

「このハーブティーね、私たちの村では“歌う葉”って呼ばれてるの」

「歌う葉?」

首を傾げると、彼女たちは嬉しそうに頷いた。

「うん。風が吹くと、葉っぱが微かに震えて音を立てるの。それが歌のように聞こえるから、こう呼ばれてるのよ」

「なるほど……それって、まるで楽器みたいですね」

「そうよ!私たち妖精族は、自然の音を使って歌うのが大好きなの。泉のせせらぎも、風の音も、みんな私たちの旋律の一部なんだから」

その言葉に、改めて妖精族が音楽とどれほど密接に関わっているのかを実感する。

「そんなハーブがあるんだ……」

ティーカップを眺めながら感心した。

「これを使うと、声が澄むんだって言われてるの。だから、歌劇団の練習には欠かせないのよ」

彼女たちの話を聞きながら、ハーブティーを口に含むと、その爽やかな苦みと香りが一層深く感じられた。

「ねえ、クウォンも一緒に歌わない?」

と、一人の少女がティーカップを手にしながら問いかける。

ティーセットをそっと置きながら、

「自分が?いや、どうかな……」

と少し迷ったように答えた。

するとエッタが微笑みながら説明を加えた。

「この歌は、妖精族の女性向けの歌なの。旋律が高音域に集中していて、男性が歌うには少し難しいかもしれないわね」

「ほう、それじゃあちょっと試してみてもいいかな?」

そう言われると逆に興味が湧いてきて、勇気を出して答えた。

「ええ、ぜひ!じゃあこれがね……」

妖精族の少女たちが楽しげに旋律を教え始める。その歌は、泉の水面を跳ねる光のように軽やかで、空に舞い上がる鳥のさえずりを思わせるようなメロディだった。

一通り歌い終えた彼女たちが「どう?」と期待に満ちた目で見てくる中、旋律を頭の中で反芻しながら答えた。

「確かに……これは難しい歌だね。地球のオペラで言うと、『夜の女王のアリア』に匹敵するかもしれない」

「夜の女王?」

「ああ。とても高い音域と、声の技術の限りを尽くさないと歌えない、魔王のような女王様の歌なんだ」

歌の難しさを、少女たちにも分かるように説明する。

「まず、空に細い蜘蛛の糸を投げて、それをピンと張り続けるような繊細さが必要だ。少しでも力を込めすぎると、糸はすぐに切れてしまう」

一呼吸置いて、続ける。

「次に、メロディの跳躍が激しい。これは、水面に石を投げて波紋を広げるのに似ている。でも、決して石を水底に沈ませてはいけない。常に水面を滑らせ続けるような、声の支えがいるんだ」

少女たちは真剣に聞き入っていたが、一人がキラキラした目で尋ねた。

「じゃあ、クウォンはその全部ができるの?」

「……やってみるしかないね」

軽く微笑み、息を吸い込む。

泉の静寂の中、最初の一音を、蜘蛛の糸を放つように慎重に紡ぎ出す。 声は水面を滑るように広がり、跳躍する高音も正確に響き渡る。その音は、まるで意思を持って空へと舞い上がるかのようだった。

歌い終えると、一瞬の静寂の後、妖精たちの割れんばかりの拍手が響いた。

「すごいすごい……!」

「そんなに綺麗に歌えるなんて、本当に驚いた!」

そんな称賛に少し照れながら笑った。

「歌う前は難しいと思ったけど、教えてくれたおかげで歌えたよ。ありがとう」

「でもクウォン、貴方は男の子なのにどうしてそんなに高い音が出せるの?」少女たちの目は好奇心で輝いている。

「それは……自分は一応ソプラニスタなんだ」

そんな風に丁寧に言葉を選びながら続けた。

「ソプラニスタというのは、地球で男性の声楽家の中でも特に高い音域を歌える人のことを指すんだ」

「高い音域……それがソプラニスタなのね」

一人の少女が感心したように呟く。

「そう。ただ高音域を出せるだけじゃなくて、それを滑らかに繋げたり、感情を込めたりするのが大事なんだ。この歌は、その点でまさにソプラニスタの技術が活きる歌だったよ」

「うんうん、すごかったよ!本当に」

妖精族の少女たちは口々に、称賛を送ってくれるだけではなく、手を握ったり、背中に抱きついたりと、少々調子に乗り気味だった。そんな様子を目の当たりにしたエッタが、軽く眉をひそめる。

「クウォン、鼻の下が伸びているわよ?」

彼女が溜息混じりに呟く。

「そんなことないさ。ただ、歌が好きなだけで……それに、みんなが上手だから一生懸命合わせたくなっただけだよ」

肩をすくめて笑いながら答える。

「それでも、目立ちすぎ」

エッタがこちらに歩み寄ると、不満げに頬を軽くつねってきた。

「調子に乗らないの」

そう言いながら、エッタが頬をつねる。その指先の感触が、ほんの一瞬だけ気になった。

「いたた……分かった、分かったよ!」

少し慌てながら抗議する。

しかし、どうにもエッタのやきもちが混じった態度には苦笑いするしかない。自分の言葉を聞いて、妖精族たちは一斉に笑い出した。

「エッタって、本当に分かりやすいよね!」

「クウォンを守ろうとしてるみたい!お母さんかな?」

「お母さんってなに!姉よ姉。クウォンなんか成人もしてない子供なんだから、私にとっては弟よ!」

彼女たちのからかうような声に、エッタは顔を赤らめながらそんな反論をする。

そんな彼女の普段見せない顔に自分でも不思議と笑みがこぼれてしまう。

「もう、いいから練習を始めるわよ!」

と話を切り替え

「クウォンも入れてあげるわ、感謝しなさい!ほら!」

「お、おう」

照れ隠しをするような、エッタの催促に乗って午後は自分も練習に加えてもらう。

泉の中央の台座に立って、妖精族の少女たちの輪の中に加わる。泉の水面に声が響き、空へと舞い上がるような旋律が広がっていく。

一つ一つの音が重なり、声が溶け合うたびに、まるで全員の心がひとつになっていくように感じた。

歌いながら、ふと頭をよぎる。

この世界の音楽には、地球にはない“何か”がある。

ただ音を紡ぐだけではない。泉のせせらぎが共鳴し、風が旋律を運び、森全体が歌に溶け込んでいく感覚。

音が、世界そのものを包み込んでいる。

それが、この世界における「歌」の本質なのかもしれない――。


◇    ◇    ◇


 練習を終え、泉を後にして森の小道を歩いていた。夕陽が森の影を長く伸ばし、木々の葉が橙色に染まっている。風が枝を揺らすたび、光がちらちらと揺れ動き、まるで森全体が静かに呼吸しているかのようだった。その風景にはどこか物寂しさがありつつも、どこか暖かいものを感じさせた。

ふと足を止めて振り返る。泉はもう見えないが、そこに響いていた歌声や笑顔が頭の中で鮮やかに蘇る。あの場所で過ごした時間が、胸の中にじんわりと灯をともしているようだった。

隣を歩いていたエッタが、その様子に気づいたのか、優しく声を掛けてきた。「クウォン。あなたにとって、歌ってどんなものなの?」

突然の問いに少し戸惑いながらも、自分の中にある想いを探して言葉を紡ぐ。

「歌は……言葉以上に、人を繋げる力を持っていると思う」

ふと、泉で妖精族と声を重ねたときの感覚を思い出す。言葉が違っても、文化が違っても、声を重ねることで生まれる一体感。それは、どんな説明よりも確かに「共にいる」ことを実感させてくれた。

「地球でも、エルミナスでも、歌は誰かと何かを共有するための手段なんだ。言葉じゃ伝えきれない想いを、音に乗せて届けるものなんじゃないかって思う」

その言葉を聞いて、エッタはふっと目を細めた。

「……素敵ね」

彼女はどこか懐かしむような眼差しで空を見上げた。まるで、クウォンの言葉を噛みしめるように。

「クウォンがそう言うなら、きっとそうなんでしょうね」

その言葉には、どこか安心したような響きがあった。

彼女の微笑みには、どこか優しい共感と満足感が混じっているように見えた。その表情に自分も自然と笑みを返す。

視線を上げると、大樹が夕陽の中で雄大に佇んでいるのが見えた。その姿はまるで、この世界そのものを象徴しているようで、圧倒的な存在感を放っている。

「いつか、あの大樹の上に歌を届けたいな」

ふと、枝の先に広がる未知の世界を想像する。あの枝々の上にはどれほど多くの命が住んでいるのだろう。その全てに、自分たちの歌を届けられたら――それはどれほど素晴らしいことだろう。

森の静寂の中、再び足を踏み出す。その一歩一歩が、泉で得た感動と新たな決意を次の道へと繋げている気がした。

「また歌いに行きましょう」

エッタは微笑みながら、少し冗談めかして言った。

「次は、もっと難しい歌も教えてあげる。ついてこられるかしら?」

「それは楽しみだな」

自分は肩をすくめながら答えた。

「けど、エッタが本気を出すと、ついていけるかどうか……」

その軽い冗談に、エッタは小さく笑い声を上げる。

「大丈夫よ、あなたならね」

彼女のその言葉が、夕暮れの森に溶け込むように響き、心の中で静かに広がっていくのを感じた。それは、ただの励ましではない。これから始まる旅路への、最初の風のようだった。

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