第21話 見習いの初診、絶望を越えた奇跡

 診療所の扉を開けると、朝の光が静かに差し込んだ。昨日の決意を胸にしながらも、未知の領域に足を踏み入れることへの不安がじわりと広がる。「本当に自分にできるのか?」そんな疑問が頭の片隅をよぎるが、今さら尻込みするわけにはいかない。

中に入ると、ヘレナ先生が棚に薬瓶を並べながら、いつもの冷静な表情でこちらを見た。

「お、クウォン君。早速来たか」

先生は手を止めて振り返る。

「準備はいいか?」

「ええ……たぶん」

少し不安そうに答えると、先生は小さく笑った。

「たぶん、か。まあ、それで十分だろう。まずは君の服装を整えようじゃないか」

そう言いながら、先生は棚から白衣を取り出し、こちらに渡してきた。

白衣を受け取って羽織ると、自分の体型に対して少し大きいせいか、丈が長めで妙に不釣り合いな感じがする。

袖を軽く引っ張りながら、「これでいいんですか?」と聞くと、横からクスクスと笑う声が聞こえた。

振り返ると、診療所で働く猫耳の看護師たちがこちらを見て微笑んでいる。

「あら、似合ってるじゃない」

「まるで子供が大人の服を着たみたいね」

思わず顔が赤くなるのを感じながら、苦笑いで答えた。

「……ありがとうございます?」

「気にするな、クウォン君」

ヘレナ先生が肩をすくめながら言う。

「それより、今日の仕事について説明するぞ」

「今日は何をするんですか?」

気を取り直して尋ねる。見習いの初日は、診療所で軽い手伝いでもするのだろうと予想していたが、先生は机の上に広げた書類に目を通しながら、あっさりと告げた。

「今日は往診に行く」

一瞬、言葉が出なかった。往診……?つまり、いきなり患者のいる現場に同行するということか。

「いやいや、もうちょっと段階を踏んでも……!」

内心で慌てるが、先生はそんな動揺には気づかず、淡々と準備を進めている。

「何を言っているんだ」

先生は書類を閉じ、真っ直ぐにこちらを見つめた。

「今日から治療を手伝ってもらうに決まっているだろう」

その言葉に、思わず硬直した。

「え、今日から……ですか?」

「もちろんだ。現場で覚えるのが一番だからな。経験なくして医術は語れんよ」

先生は軽く笑いながら、机から何かを取り出してきた。それはカードの束で、タロットカードほどのサイズがあり、一枚一枚にミスティコードがプリントされている。

「これは……?」

カードを受け取りながら尋ねる。

「見習いの医師が使う道具だ」

先生が淡々と説明を始める。

「治療を行う際に、指示されたカードにマナを込めて使う。これで症状に応じた治療を施せる上、必要なミスティコードを効率的に覚えることもできる。つまり、訓練用だな」

どうやらこれ自体が医療用のアスタギアらしい。

「……このカードを場にセットして……召喚!」

思わず某カードバトルのポーズで1枚引く。いや、これは治療で使うものなんだから、ふざけてる場合じゃない。

「……なにをやっているんだ君は」

先生がジト目でこちらを見てくる。

「……すみません、つい」

なんか、ちょっとだけ楽しかった。

「そのカードは君にあげるから、この冊子を見て内容を理解して、できれば効果とミスティコードを覚えてくれたまえ。あ、でもそれを使って治療行為を行うのは私が一緒にいるときだけにしたまえ。資格上まずいのでね」

上位モンスターの召喚シーンを真似していると、そんなお言葉をもらってしまった。いい加減なようでちゃんとコンプライアンスは守る方針らしい。

「……それにしても」

カードを眺めながら、小さく息をついた。

フェルガンの通過儀礼のときもそうだったが、この世界には「準備期間」という概念がないのか?戦いも、狩りも、そして医療も——いきなり実践。そんな方法が当たり前のようにまかり通っている。

(エルミナスでは、とにかく"やりながら覚えろ"が基本なのか……。)

気づけば、この世界の価値観にまた一つ触れた気がした。

「……大丈夫でしょうか」

少し自信のない声で尋ねると、先生は肩をすくめて答えた。

「君は光属性だろう?治療にはもってこいだ。それに、私が君をサポートする。心配はいらん」

エッタの言葉が頭をよぎる。ヘレナ先生はこの村では高名な医師で、患者にも信頼されている。だからこそ、こうした判断をしているのだろう。もしかしたら、それ以上に現場が医師を必要としているのかもしれない。

「……分かりました。やってみます」

言葉にした瞬間、覚悟が決まった気がした。

先生は満足そうに微笑み、「よし、では行こうか」と立ち上がる。

未知の世界への一歩は、いつだって怖い。だけど——この世界で生きていくなら、その一歩を踏み出さないと何も始まらない。

そう自分に言い聞かせながら、診療所の扉を再びくぐった。


◇    ◇    ◇


 診療所を出て村を歩き始めると、朝の清々しい空気が鼻をくすぐる。村人たちが挨拶を交わしながら忙しなく動き回る中、自分が白衣を着ていることに改めて不思議な気持ちになる。

最初に訪れた家では、60代くらいの女性が椅子に腰掛けて待っていた。先生が状況を確認し、「さて、君にはこれをやってもらおう」とカードを一枚渡してきた。

「その8番のカードだ。マナを込めて使ってみろ」

先生の指示に従い、カードを握る手にじんわりと汗がにじむ。果たして、うまくできるのか。

息を整え、意識を集中しながらカードにマナを注ぐ。すると、カードに刻まれたミスティコードがわずかに震え、淡い光を放ち始めた。

(……いけるか?)

光が治療対象の女性へと流れ込むのを感じると同時に、まるで水が干上がった土へ染み渡るような感覚が伝わってくる。

ふと視線を向けると、8センチほどの切り傷がゆっくりと塞がっていく。皮膚のひび割れが滑らかになり、やがてほとんど痕跡が残らなくなった。

「おお……!」

思わず声が漏れた。目の前で起こった現象に、驚きと感動が入り混じる。

「初めてにしては上出来だな」

先生が満足げに頷く。

「そのカードは、局部の消毒と化膿止め、そして皮膚の再生を促す効果がある。基本的な傷の治療には欠かせない道具だ」

地球との違いに感動しながら、「法理術を使う医療って、こんなにも直接的なんですね」と呟く。これに関してはファンタジーの回復魔法そのものだ。

「その通りだ」

先生は腕を組みながら続けた。

「法理術による治療は迅速で効果的だが、属性や患者の体質をしっかり考慮する必要がある。そこがこの世界の医療の難しいところでもあり、面白いところでもある」

そういうヘレナ先生は医者というよりも研究者といった顔を見せて楽しそうにほほ笑んだ。

そして村の道を進みながら、次の患者の家へと向かう。ヘレナ先生の問いかけが頭の中に残っていた。

「地球では、こうした治療はどう行われるんだ?」

一瞬迷ったが、軍属だった頃に耳にした知識を思い出して答えた。

「地球では、まず傷口を水や消毒液で清潔にし、その後、縫合が必要なら医師が針と糸で縫います。そして化膿を防ぐために抗生物質を処方することが一般的ですね。傷が浅い場合は、絆創膏や消毒剤で対応することも多いです」

「ほう、消毒に重点を置いているのか」

先生は興味深そうに頷きながら言葉を続ける。

「それに、抗生物質というのはなかなか便利そうだな。この世界では、化膿止めに使う薬草は時間がかかる場合があるからね」

「でも、自分は地球の医療について少し聞いたことがあるだけで、実践的な知識はありません」

自分の限界を認めつつ答える。

「ふむ、それでも良い視点を持っていると思うぞ」

先生は肩をすくめて笑った。

「せっかくだから、君の知見を治療のたびに聞かせてくれ。間違っていても構わない。最終的な診断は私が下すからな」

「それは問題なのでは?」

驚いて言うと、先生は軽く笑った。

「心配するな。君には『診断』をさせるつもりはない。むしろ『観察』の力をつけてほしいんだ」

「観察……ですか?」

先生は頷きながら、次の患者の家へと歩を進める。

「例えば、顔色、体温、呼吸の速さ——これらを見て、何か気づくことがあるか。それを私に伝えるだけでいい。

もちろん最終的な診断は私が下すが、君が気づいたことが治療の手がかりになるかもしれない。そういう訓練の積み重ねが、医師としての力になるんだよ」

その言葉に納得しつつ、次の患者の家に到着した。

玄関を開けると、中年の男性がベッドに横になっていた。先生が症状を確認し、こちらに目を向けた。

「さて、ここで君の意見を聞きたい」

男性は顔色が悪く、何度も頭を抑えている。

「えっと……めまいを訴えているようですが……」

ふと目を凝らすと、彼の爪が微かに反っているのが見えた。

「爪が……反っていますね」

男性の手を注意深く見ながら、観察したことを言葉にする。爪の形状は地球の医療知識で見た「鉄欠乏性貧血」の症状に似ていた。

「もしかして……鉄分不足の可能性がありますか?」

先生は短く頷き、「ほぼ正解だな」と言いながら、鞄から薬の瓶を取り出した。

「これが治療に使う鉄分補給の薬だ」

そう言いながら瓶の蓋を開けると、かすかに金属のような匂いが鼻をかすめる。

(地球の鉄剤と似ている……?)

同じ症状に対して、地球とエルミナス、それぞれ異なる方法で対応している。しかし、基本的な発想は変わらないことに奇妙な親近感を覚える。

次の患者の家では、別の症例に直面する。高齢の女性が足のむくみを訴えていた。先生が少し観察した後、またこちらに意見を求める。

「えっと……足にむくみがありますが、原因までは分かりません」

先生は満足そうに頷き、「そうだろうな」と言った。

「これはマナの循環不全が原因だ」

そう言いながら、先生はカードの束から一枚を抜き取り、手渡してくる。

「3番のカードだ。これを使ってみたまえ」

言われるがままにカードを手に取り、マナを込める。すると、女性の足元に光が広がり、ゆっくりとむくみが引いていく。

「……すごい」

自分の手によって、人の体が目に見えて回復していく。その実感が、これまでの感覚とは違うものをもたらした。

「この手の症状では、光属性が非常に有効なんだ」

先生の言葉が、どこか誇らしげに響く。


◇    ◇    ◇


 さらに治療を進めるうちに、見知った顔に出会った。「ライアさん?」声をかけると、彼女は少し照れたように微笑んだ。

「クウォン、今日は先生の手伝いなの?フェルガンの次はお医者さん?」

彼女が軽い調子で尋ねてくる。

「ええ、往診を手伝っています。でも、ライアさんも診察ですか?どこか具合が悪いんですか?」

自分が尋ねると、彼女は首を横に振り、「ううん、そういうわけじゃないの」と笑顔で答えた。しかし、その微笑みにはどこか言いにくそうな雰囲気があった。

「ああ、彼女の言う事は本当さ」横から割って入ったのはヘレナ先生だった。先生は少しだけ困ったような表情を浮かべている。

「ライアは別に病気ではない。ただ、特別なケースでね。定期的に診ておいたほうがいいだけなんだ」

「特別なケース?」

自分はその言葉に引っかかり、もう少し詳しく知りたくなった。

先生は腕を組みながら続けた。

「どう説明すればいいかな……ライアには少し、普通とは違う背景があるんだよ」

その表情には明らかに躊躇が混じっている。

「違う背景、ですか……?」

ますます気になり、先生を見つめると、彼女はわずかに視線を逸らした。

ライアはその様子を見て、軽く肩をすくめた。

「先生。そんな風に言うと余計に気になってしまうもの」

彼女は自分に向き直ると、少し照れたように微笑んだ。

「クウォンになら話してもいい」

「え……自分に?」

思わぬ申し出に驚きながらも、彼女の目が真剣だったため、拒む理由も思いつかなかった。

ライアは椅子に腰を下ろし、深呼吸をしてから静かに言った。

「じゃあ、少しだけ私の話をさせてもらうね」


◇    ◇    ◇


ライアは少し視線を落とし、膝の上で指を組む。

「……私ね、昔は第3枝に住んでいたの」

その言葉のトーンが少し変わった。普段の軽やかさとは違い、慎重に言葉を選んでいるように聞こえる。

「あそこは比較的安定した枝で、居住環境も悪くなかったわ。でも、突然重い病気にかかってしまったの」

ライアは指先でテーブルの端をなぞるようにしながら、続けた。

「……エーテルの循環に異常をきたす病気だった。最初は少し体がだるいくらいだったの。でも、次第に手足のしびれがひどくなって、まともに動けなくなっていったの」

彼女は小さく息を吸い込み、続ける。

「家族は私のためにあらゆる手を尽くしてくれたわ。でも、どれも効果がなくて……」

一瞬、沈黙が落ちた。彼女の手がわずかに震えているのが見えた。

言葉を紡ぎながら、一瞬目を伏せた。

「それでね、もう家族に負担をかけるのが嫌になったの。自分だけでなく、周りを不幸にしているって感じて。だから……」

声が詰まる。だが、ライアは勇気を振り絞るように続けた。

「だから、自殺を図ったの。枝から飛び降りるのが一番早いと思ったのよ。痛みもなくなるし、誰にも迷惑をかけないで済むって」

その言葉を聞いた瞬間、息が詰まるような感覚に襲われた。彼女の笑顔の裏にそんな重い過去があったなんて、想像もしていなかった。

「でもね、死ねなかったわ。海面に叩きつけられる前に怖くなってアスタギアを使って……そして海に落ちた私は監視塔の人たちに助けられたの」

ライアは微笑みながら、少し顔を上げる。

「彼らがいなかったら、私はもうここにいないわ。そして、その後のことが本当に不思議で……」

彼女の表情が少し変わり、感慨深げに語り始めた。

「高濃度のエーテルの海に落ちたことで、病気が嘘みたいに治ったの。それまで何をしてもダメだったのに、そこに晒されただけで治るなんて……まるで奇跡みたいでしょ?」

「……本当に奇跡ですね」

自分の言葉がやけに空虚に響く気がした。

ライアは穏やかな声で続ける。

「それ以来、私は本当に生きるのが楽しくなったの。家族にも迷惑をかけずに済むようになったし、このエントリアで素敵な仲間たちに出会えた。今は、自分の人生がやっと自分のものになった気がするの」

彼女はにこやかに笑いながら言った。

「だから、私はあの時助けてくれた人たちにも感謝してる。今こうして楽しく生きられるのは、みんなのおかげだもの」

彼女の明るい笑顔に救われる思いがした反面、彼女が経験した孤独と絶望を思うと、胸の奥がぎゅっと締め付けられるようだった。

言葉が、出てこない。

何を言えばいいのか分からなかった。ただ「すごい」と言うのは簡単だが、それはあまりに軽い気がした。

「……ライアさん……」

彼女は微笑んでいる。でも、その笑顔の奥には、かつて自分が見たことのないほどの孤独と苦しみがあったのだろうと思うと、胸が痛くなる。

「……すごいですね、なんて軽々しく言っていいのか分かりません。でも……生きててくれて、よかったです」

ライアは一瞬目を見開いたあと、ふっと力を抜いたように微笑んだ。

「ありがとう、クウォン」

その言葉がやけに重く響いた。彼女の生きる姿勢に、心の奥で何かが揺さぶられるような感覚を覚えた。


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