第14話 ビーの覚醒(少しだけ)

「……おい、本当にこのまま帰るのかよ、レオン」


魔王城の正門前広場。

夕闇が迫る中、とぼとぼと歩く四つの影があった。

先ほど、私の『請求書攻撃』と『法律結界』によって完膚なきまでにプライドをへし折られた勇者パーティーである。

私は玉座の間に設置された遠隔監視モニターを通じて、彼らの撤退状況を冷ややかに見守っていた。


「うるさい! 帰るに決まってるだろ!」


勇者レオンが、悔し紛れに石畳を蹴り上げた。

その顔は赤黒く歪み、屈辱と怒りで引きつっている。


「あの女……あの眼鏡の秘書……! 俺を、勇者であるこの俺を、あんな事務的な扱いでコケにしやがって……!」

「でも、あのお姉さん強かったわよ。魔法の理(ロジック)が完璧だったもん」

「それに、借金が増えるのはもう御免だぜ……」


仲間たちの腰の引けた発言に、レオンはさらに苛立ちを募らせたようだ。

彼は城門の手前で立ち止まり、忌々しげに振り返った。

その視線の先にあるのは、威容を誇る魔王城の天守閣――私とビー様がいる場所だ。


「……このまま引き下がれるか。俺は勇者だぞ。世界を救う英雄だぞ」

「おい、よせよレオン。何する気だ?」

「一発だ。あいつらに一発かましてやらなきゃ、俺の気が済まない!」


レオンが懐から何かを取り出した。

それは赤黒く輝く結晶石。高密度の魔力が込められた『爆裂魔石』だ。

しかも、ただの魔石ではない。禁忌とされる呪毒が含まれた、非人道的な代物だ。


(……あれは、対城塞用の攻城兵器クラス。直撃すれば城門どころか、低層階が吹き飛ぶわね)


私は眉をひそめた。

往生際が悪いにも程がある。しかも、それを投げようとしている標的は――


「あの秘書の女だ! あいつさえいなければ、魔王なんて怖くない! 人間を裏切って魔族に味方する売国奴め、これでお陀仏だ!」


レオンが腕を振りかぶった。

狙いは正確に、私たちがいる最上階のテラス付近に向けられている。

距離はあるが、魔石の威力なら十分に届く。


(迎撃準備。対爆結界、展開プロトコル起動)


私は瞬時に計算を終え、指を鳴らそうとした。

私の防御魔法なら、あの程度の爆発は無傷で防げる。あるいは、跳ね返して彼らの足元で爆発させてやるのも一興だ。


だが。

私の指が鳴るよりも早く、世界が震えた。


「……あ?」


モニターの中のレオンが、間の抜けた声を上げた。

彼の手から魔石がポロリと落ちる。

いや、落とさざるを得なかったのだ。

空間そのものが、巨大な重力に押し潰されたかのように軋み、空気が鉛のように重くなったからだ。


「な、なんだ……息が……!?」


勇者たちが喉を押さえてうずくまる。

広場の植物が一斉に枯れ、噴水の水が凍りつく。

それは、生物としての本能が警鐘を鳴らす、圧倒的な『死』の気配。


私はハッとして、隣を見た。


「……不愉快だ」


そこにいたのは、いつもの甘えん坊な少女ではなかった。

玉座から立ち上がり、テラスの窓際に歩み寄る魔王ベアトリクス様。

その黄金の瞳は、感情の揺らぎがない、底なしの闇のような冷徹さを宿していた。

全身から立ち昇る魔力は、黒というよりは、光を吸い込む『虚無』に近い。


「ビ、ビー様……?」

「アリア。下がっていなさい」


その声には、有無を言わせぬ強制力があった。

普段の「魔王演技」ではない。

もっと根源的な、種族の頂点に立つ者だけが持つ、絶対的な命令。

私は抗うことすらできず、その場に縫い留められたように動けなくなった。


ビー様は窓を開け放ち、テラスへ出た。

夜風が彼女の銀髪を狂ったように舞い上げる。

眼下の広場にいる勇者たちを見下ろすその視線は、もはやゴミを見る目ですらなかった。

ただの『処理すべき現象』を見る目だ。


「……ひっ、ひぃぃ……!?」

「あ、あれが……魔王……!?」


勇者たちはガタガタと震え、地面にへばりついている。

先ほどまでの威勢は消え失せ、魂の底からの恐怖に支配されている。


「人間風情が、余の城に泥を塗るまでは許そう。だが」


ビー様が、スッと右手を掲げた。

それだけの動作で、夜空の雲が渦を巻き、赤い稲妻が走り始める。


「余の最も愛する者を、『売国奴』と愚弄した罪。……その魂で購え」


(――え?)


私の心臓が、ドクンと大きく跳ねた。

城のためではない。魔王のプライドのためでもない。

私(アリア)を侮辱されたことへの怒り。

それが、この温厚な魔王を本気(マジ)にさせた引き金(トリガー)だったのか。


「消えろ」


ビー様が手を振り下ろす。

呪文詠唱などない。

ただの魔力の塊が、天から降り注いだ。


ドォォォォォォォォォォォォンッ!!


音という概念を超えた衝撃が、広場を襲った。

それは爆発ではない。空間の圧殺だ。

勇者たちがいた場所を中心に、巨大なクレーターが一瞬で形成される。

レオンたちの悲鳴すら聞こえなかった。

彼らは衝撃波によって木の葉のように吹き飛ばされ、空の彼方――おそらく国境の遥か向こうまで弾き飛ばされていった。


城門は無事。

花壇も無事。

勇者たちだけをピンポイントで排除し、かつ二度と立ち上がれないほどの恐怖を植え付ける、神業のような魔力制御。


(すごい……これが、本気の魔王の力……)


私は呆然とその光景を見つめていた。

私の事務処理能力や小手先の魔法とは次元が違う。

世界を滅ぼすことも、救うこともできる、真の王の力。


砂煙が晴れていく。

勇者たちの姿はもうない。残されたのは、地面に刻まれた巨大な爪痕のような魔力の残滓だけ。


「……」


ビー様はしばらくそのまま、夜空を見上げていた。

荒れ狂っていた魔力が、嘘のように静まっていく。

嵐が去った後のような静寂が、テラスを包み込んだ。


「……ビー様」


私が恐る恐る声をかけると、彼女の肩が小さく震えた。

そして、ゆっくりと振り返った。


「……あ、アリアぁ……」


そこにいたのは、いつもの泣き虫なビー様だった。

さっきまでの冷徹な瞳はどこへやら、涙でぐしゃぐしゃになった顔で、へなへなと座り込んでしまった。


「こ、怖かったぁ……! ついカッとなってやっちゃったけど、殺しちゃってないかな!? 力の加減、ちゃんとできてた!?」

「え、あ、はい。生命反応は微弱ですが残っています。物理的に排除されただけです」

「よかったぁ……! 人殺しにならなくてよかったぁ……!」


ビー様は安堵のため息をつき、四つん這いになって私の足元まで這ってきた。

そして、私のスカートに顔を押し付けて、すんすんと匂いを嗅ぎ始めた。


「アリア……アリアの匂いだ……落ち着く……」

「……ビー様」

「あいつら、アリアのこと悪く言うから……。私、許せなくて……頭の中で何かがプチッて切れて……気づいたら身体が動いてて……」


震える声で言い訳をする彼女の頭を、私はしゃがみ込んで抱きしめた。

その身体は熱く、魔力の使いすぎで少し疲弊している。


「ありがとうございます、ビー様」

「え……?」

「私のために怒ってくださったのですよね。……嬉しかったです」


嘘ではない。

あの圧倒的な破壊の光景を見ても、私は恐怖を感じなかった。

むしろ、胸が震えるほどの高揚と、愛しさを感じた。

この人は、私のために世界を敵に回してくれる。

その事実が、私の冷え切った元・社畜の心を溶かしていく。


「……アリアは、私のものだもん」


ビー様が私の腕の中で、もごもごと言った。


「誰にも文句は言わせない。アリアは世界一の秘書で、世界一素敵な私のパートナーなんだから」

「はい。貴方のものです」


私は彼女の額に口付けた。

冷たい風が吹くテラスで、私たちは互いの体温を確かめ合うように寄り添った。


「……でも、ビー様」

「な、なに?」

「あそこまで地形を変えてしまうと、また地図の書き換え申請が必要ですね」

「ひぃッ!? ご、ごめんなさいぃぃ!」

「ふふ。まあ、今回は『勇者撃退記念碑』を作る予定地ということにしておきましょう」


私が微笑むと、ビー様はほっとしたように笑い、私の胸にグリグリと頭を擦り付けた。

遠くの空で、勇者だったものがキラリと光って消えた気がした。

これでしばらくは、静かな日常が戻ってくるだろう。

……たぶん。


(それにしても、あの魔力の残滓……勇者が最後に言っていた『人間を裏切って』という言葉……)


ふと、不安の種が胸をよぎる。

勇者の捨て台詞は、ただの悪口だったのか。それとも、私の正体(元聖女)に勘づいた上での言葉だったのか。

もし後者だとしたら、次はもっと厄介な敵――教会や聖騎士団が動くかもしれない。


(その時は、私が守らなければ)


腕の中の無防備な魔王を見つめながら、私は決意を新たにした。

彼女が私を守ってくれたように、私も彼女を守り抜く。

それが、最強の秘書(パートナー)の務めなのだから。

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