第28話 開花

【カイ・視点】

 その瞬間、大気中の酸素が、正体不明の――あるいは「不可名状」と呼ぶべき重力によって、根こそぎ奪い去られたような錯覚に陥った。

 

 朽ち果てた玄関口に立つ少女。その背丈は、あまりにも小さかった。

 つい先ほど俺が着せてやったばかりの、袖口が膝まで届くようなお下がりの黒いパーカー。銀色の長髪は乱雑に肩に散らばり、その姿はどこからどう見ても、道に迷った子供にしか見えない。

 

 だが、あのオークの瞳に映っているものは違った。

 おそらく、そこに立っているのは「人間の幼子」などではなく――太古の深淵から這い出し、瑞々しい人の皮を被った「捕食者」そのものだったに違いない。

「クソ……なんだその目は! 俺はこの界隈を仕切る頭(ヘッド)だぞ……っ!」

 オークの喉仏が激しく上下し、砂礫を噛み砕くような乾いた声が漏れる。

 それは生物的な本能が鳴らす、最大級の警報だった。脳髄の中で「逃げろ」と絶叫しているのだ。しかし、暴力団の鉄砲玉としての安っぽいプライドと、目の前の圧倒的な体格差が、小さな少女に怯えているという事実を彼に拒絶させた。

 極限まで発酵した恐怖は、やがてヒステリックな逆上へと変質する。それは、追い詰められた野兽が放つ、最も危険な反撃だ。

「どけよッ! さもなきゃ、そのガキごと捻り潰してやる!!」

 咆哮と共に、空気を切り裂く風圧を伴った巨大な掌が突き出される。まるで雛鳥を捕らえるかのように、リアの頭部へと伸びていく。

「リア――ッ!!」

 心臓が口から飛び出しそうだった。

 思考より先に身体が動く。折れた肋骨の激痛も構わず、俺は地面を這いずり、彼女の盾になろうと必死に身を投げ出した。

 彼女は、俺の家族だ。この腐りきった世界における、唯一の拠り所なんだ。

 あんな汚らわしい暴力に、彼女を触れさせるわけにはいかない。絶対に!

「逃げろ!! 彼女に触るな! 俺を狙え、このクソ野郎!!」

 だが、すべてが遅すぎた。

 暴力と血の臭いに満ちた狭い部屋の中で、時間だけが「位相」を違えたかのようにズレていく。

 オークの掌が、リアの鼻先に届く数センチ手前。

 リアは、ゆっくりと顔を上げた。

 そのオッドアイの瞳には、怒りも殺意もなかった。

 ただ、腐肉を見つめるような――絶対的な「虚無」と「冷徹」だけが、そこに宿っていた。

 次の瞬間、闇が狂い咲いた。


【リア・視点】

 うるさい。臭い。

 この不潔な豚(ピッグ)が。ゴミ溜めに触れたその手で、よくも「カイ様の所有物(わたし)」に触れようとしたわね。

 身体の奥底で、何かがパチンと断ち切れた。

 血管を流れるのはもはや血ではなく、沸騰する熔岩。脊髄が熱を帯び、それはまるで……千年の飢餓に耐えた胃袋が、不意に鮮血の匂いを嗅ぎつけた時のような感覚。

 考えたくない。考えることもできない。ただ、血脈の深淵から響く、優雅で残酷な声に従うだけ。

『――醜悪ね』

『たっぷり愛(め)でてあげなさい。そして……「開花」させてあげるのよ』

 パーカーの裾から、漆黒の腰肢(ウィング)が二条の黒い雷光となって弾け飛ぶ。

 それは軽やかに、あるいは「慈愛」に満ちているとさえ言える所作で、粗野な大腕へと絡みついた。

 私たちは、生命と欲望を司る一族。

 与えなさい。

 過剰なまでの、歪んだ、細胞核さえも狂喜乱舞させる「生命力」を。

 この世ならざる姿で……散らせてあげるために。


【カイ・視点】

 次に起こった光景は、現代人としての俺の生物学的知見を粉砕し、俺を「冒涜」という名の悪夢へと引きずり込んだ。

 リアは、奴の腕を折ったわけではなかった。

 ただ、黒い翼でオークの前腕を優しく包み込んだのだ。まるで、恋人を抱擁するかのように。

 しかし、オークの表情は驚愕から極限の恐怖へと塗り替えられた。逃げ出すことさえできず、あるいは、逃げ出すことさえ拒んでいるのか? 腕が独立した意志を持っているかのように、その愛に満ちた抱擁を享受している。

 やがて、その恐怖は理解不能な苦痛と……不気味なほどの「極楽」へと歪んでいった。

「あ……が……あ、あ……っ? これ、は……?」

 鮮血の飛び散る屠殺ではなかった。

 そこで行われていたのは、進化を巡る、神を冒涜する演奏会(リサイタル)。

 黒い羽に愛撫され、オークの腕は驚異的な「成長」を始めたのだ。

 それはDNA配列への傲慢な書き換えであり、生命の理に対する強制的な次元上昇(アセンド)。

 粗い皮膚は内部細胞の異常分裂に耐えきれず、透明に張り詰め、最後はシルクのように音もなく裂けた。

 

 噴き出すのは汚れた血ではない。ルビーのように透き通った筋繊維が、花びらのように幾重にも重なり、外側へと反り返り、咲き誇る。

 白濁した骨はもはや肉体を支える支柱ではなく、歪に伸びる「雌しべ」へと変貌した。それは吐き気を催すような幾何学的美しさを伴う螺旋を描き、肉を突き破って虚空へと伸びていく。

「俺の腕が……花に……なっ……?」

 オークは自身の肢体を見つめ、魂の崩壊した囁きを漏らす。もはや痛みすら感じていないのだろう。過剰に分泌されたエンドルフィンが、彼を自己破滅的な恍惚の中へと沈めていた。

 血管が歌い、神経が舞う。

 生命の根源的な欲求が限界を突破し、世界で最も狂った庭師ですら、これほど冒涜的な「盆栽」を仕立てることはできないだろう。

 パチン。

 湿った小さな破裂音と共に、その腕は「変態」を完了させた。

 その瞬間、肉塊と骨、そして筋膜で編み上げられた巨大な「スミレ」が、彼の肩口で満開となった。

 あまりにも鮮やかで、生命力に満ち溢れ――それでいて、窒息するような死の残香を放つ花。

「なんて……美しいんだ……」

 その悪の華の開花と共に、山のように強靭だったオークの身体は、水分を失った枯れ木のように急速に干らび、崩落していった。全身の栄養、水分、そして魂さえもが、あの一瞬で畸形的な腕に略奪され、存在しない花を供養するためだけに捧げられたのだ。

 十秒足らず。

 先ほどまで不遜に振る舞っていた暴漢は、見る影もないミイラのような廃人と化し、白目を剥いて転がった。ただ一つ、花と化した腕だけが、神経質に痙攣しながら、そのおぞましい生命力を誇示し続けている。

 部屋の中は、死のような静寂に包まれた。

 ミアは恐怖のあまり毛玉のように丸まり、呼吸することさえ忘れている。

 俺も同じだった。

 冷や汗が全身を浸し、歯の根が合わずガタガタと震える。

 この恐怖は、暴力に対する生理的なものではない。「深淵」を目の当たりにした時の絶望だ。

 生命の法則への蹂躙。造物主への嘲笑。

 これが本当に……リアなのか?

 リアとは一体、何者なんだ?

 瓶の蓋すら開けられず、雷を怖がり、俺の腕の中で甘え、塩辛すぎるチャーハンを不器用に作ってくれる、あの妹なのか?

 ――違う、あれは皮(シェル)だ。

 あの愛らしい器の下には、古(いにしえ)の邪悪な何かが潜伏している。彼女は天使などではない。食物連鎖の頂点に位置し、生命を糧とし、肉体を弄ぶことを愉悦とする……本物の「怪物」だ。

 強い眩暈を感じる。俺は一体、何を家(うち)に連れ帰ってしまったんだ?

「リア――ッ!!」

 俺の叫びが静寂を切り裂く。それは恐怖からくるものか、それとも――認めたくない、彼女の人間性を繋ぎ止めようとする絶望からくるものか。

 彼女が何者であろうと、今ここで人を殺めてしまえば、本当に後戻りができなくなる!

「もういい! やめろ! 俺は大丈夫だ……何ともない! お願いだ、止めてくれ!」

 リアの背中が、びくんと跳ねた。

 舞台の照明がいきなり消されたかのように、あの息詰まるような圧迫感が霧散する。

 瞳から紅い光が消え、代わりに宿ったのは茫然自失とした驚きだった。彼女は俯き、自分の翼に締め上げられ、今なお蠢いている「肉の花」を見つめる。

「……え?」

 それは、夢から覚めたばかりの子供のような、純粋な困惑だった。

 直後、強烈なパニックが彼女の小さな顔を支配する。

「いやあああああッ!!」

 汚物に触れたかのような悲鳴を上げ、彼女は腰肢を振り払った。息絶え絶えの、干からびたゴミのようなオークが壁際に放り投げられ、鈍い衝撃音を立てる。

 

 リアはよろよろと後退する。先ほどまで鋼のように強靭で、残酷な芸術を作り上げた黒い翼は、今は力なく垂れ下がり、激しく震えていた。

 

 彼女が、弾かれたように俺を振り返る。

 視線が交わったその瞬間、俺は彼女の瞳に、崩壊寸前の絶望を見た。

「ちがう……こんなの、ちがうの……」

 リアは慌てて翼を服の中に隠そうとするが、指先の震えが止まらず、上手くいかない。それは、花瓶を割ってしまい、どう修復すればいいか分からず狼狽える子供のようだった。

「カイ様、あの人が……あの人が先にやったの……。カイ様を殺そうとして、私を苛めて……っ」

 泣きじゃくりながら、支離滅裂な弁明を繰り返す。

「わざとじゃないの……勝手に身体が動いちゃって……。怖いよ、あの手、気持ち悪い……」

 彼女は一歩ずつ俺に歩み寄り、けれど数歩手前で足を止め、怯えたように俺を窺いながら、大粒の涙を零した。

「嫌だ……」

 あの「花」の生臭さを纏った小さな手で、彼女は死に物狂いで自分の服を掴み、絶望的に懇願する。

「そんな目で、私を見ないで……。怖がらないで、お願い……っ」

「カイ様……私は、あなたのリアだよ……怪物なんかじゃ、ない……っ」

 その瞬間、俺の中にあった「深淵の怪物」への恐怖は潮が引くように消え去り、代わりに突き刺すような胸の痛みが込み上げた。

 彼女は、怯えている。

 神の如き力を振るった直後だというのに、今の彼女は、床に転がっているオークよりも脆く見えた。

 俺が弱すぎたんだ。

 俺が彼女を守れなかったから、彼女にこんな……こんな姿を強いてしまったんだ。

「リア……」

 身体を支えて抱きしめてやりたかったが、折れた肋骨がそれを許さない。

 リアは鼻を啜り、ふと視線を部屋の隅へと向けた。

 そこには、まだ震え続けているミアが縮こまっている。

 ミアの身体には、俺が先ほど彼女を隠すために投げ与えた上着が掛かっていた。

 リアの瞳の色が変わった。殺意ではない。恐怖でもない。それは子供じみた、極めて独占欲の強い「執着」だった。

 彼女はふらふらとミアに近づく。

「みゃ……っ」

 ミアが悲鳴のような声を上げ、さらに身を縮める。彼女はあの「スミレ」を見ていた。次は自分が花肥にされるのだと思ったに違いない。

 だが、リアはただ手を伸ばし、俺の上着を掴み取った。

 そして、力任せに引き剥がす。

「これは……カイ様が、私にくれたもの」

 呟きながら、俺の体温と泥、そして血の匂いが染み付いた上着を奪い返し、自分の身体にきつく巻きつけた。

 わざと大きな裾を使い、今なお痙攣している黒い翼を、隅々まで丁寧に、隠すように。

 まるで、隠し通せさえすれば、自分はまだ「純潔な天使」でいられると信じているかのように。

 俺の服を纏ってさえいれば、自分はまだ「守られるべき妹」でいられると縋っているかのように。

 すべてを終えると、彼女は電池が切れたかのように動きを止めた。

 爆発的な力の代償が身体を蝕んでいるのだろう。真っ白な頬に、酔ったような紅潮が浮かぶ。

 彼女は振り返り、千鳥足で俺の方へと歩いてきた。

「カイ……さま……おうちに……帰ろ……」

 俺の目の前に辿り着く前に、膝の力が抜け、彼女の身体が前へと倒れ込む。

 俺は必死に腕を伸ばし、その小さな身体を受け止めた。

 彼女は俺の腕の中で丸まり、俺の胸元の血痕に頬を擦り寄せ、最も安心できる巣を見つけたかのように、瞬時に意識を失った。

 微かな呼吸と、俺の襟元を離そうとしない指先だけが、彼女の生存を証明している。

 窓の外では、依然として雨音が轟いている。

 だが室内では、世界がミュートされたような静寂が支配していた。

 部屋の隅、瞳孔を散開させ、球のように丸まる猫人の少女。

 床の上、腕に地獄の花を咲かせ、生死の境を彷徨うミイラの猪人。

 そして、血塗れの男の腕の中で、聖母の画(え)のように安らかに眠る銀髪の少女。

 これが……俺の家族だ。

 リアを抱き締め、地獄絵図のような光景を見つめながら、俺は何故か、歪で荒唐無稽な「平穏」を感じていた。

 ああ、台無しだ。

 完全に、取り返しのつかないことになった。

 だが、確信している。この瞬間から、俺も、リアも、ミアも……俺たちの運命は、二度と解くことのできない「死結」となって絡み合ったのだと。




作者からのお願い

皆様、いつも温かい応援とサポートを本当にありがとうございます。

ここ最近、物語が非常にダークで緊迫した展開へと突入しており、読者の皆様の中には少し心が苦しいと感じる方もいらっしゃるかもしれません。これまでの日常から一転した描写が続いてしまい、申し訳ありません。ですが、この展開は私が描こうとしている物語において、どうしても避けては通れない非常に重要な一環として設計したものです。

「ラブコメ」というジャンルにおいて、もっと日常的で心温まるシーンを優先すべきなのか、私自身も模索している最中です。もし今の展開について不満や「もっとこうしてほしい」という点がありましたら、ぜひ遠慮なく教えてください。もちろん、皆様からの励ましの言葉も、私にとってはかけがえのない喜びです!

これ以上のネタバレは控えますが、物語の結末についてはどうぞ私を信じてついてきていただければと思います。

さて、ここからの展開をより素晴らしいものにするため、一度今後のプロットをしっかりと整理し直そうと考えています。そのため、少しだけ更新のペースが落ちたり、短期間の更新停止をいただくかもしれませんが、何卒ご理解いただければ幸いです。

最後になりますが、皆様の応援の声や「★」が、私の執筆における最大の動力源です。

これからも、莉亜(リア)の物語を一緒に見届けていただければ嬉しいです!



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