第06話 スミレの凋落

暖色のデスクライトの下、俺はズキズキと痛むこめかみを指で押さえながら、本日何度目かわからない溜息をついた。

「リア、この字は『あ』だ。『は』じゃない」

「……あ?」

 リアはふかふかのカーペットにぺたりと座り込み、絵本に描かれたミミズのような文字を睨みつけて、この世の終わりのような顔をしていた。

 彼女にとって、この意味不明な曲線を判別する作業は、闇市のゴミ捨て場でカビの生えたパンと食べられるパンを見分けるよりも、遥かに高難易度らしい。

 今にも泣き出しそうなその情けない横顔を見て、俺は作戦を変更することにした。

「いいか、リア。ここで一つ取引だ。『等価交換』といこう」

 俺は人差し指を立てて、彼女の視線を誘導する。

「もし今夜中にこのページを完璧に覚えられたら、お前の要求を一つだけ聞いてやる。名付けて『ご褒美システム』だ」

「ごほう……び……?」

 その瞬間だった。

 リアの濁っていた紫色の瞳に、カッとハイライトが宿った。垂れていた小さな猫のような耳が、ピクリと不可視の速度で反応する。

 彼女はうつむき、白いスカートの裾を両手でギュウギュウと絞り上げ始めた。

 やがて、蚊の鳴くような、しかし強烈な渇望と少しの探りを入れるような声が漏れ出した。

「あ、あの……カイ様と、一緒に寝たい、です」

「……は?」

 俺は思考停止した。

「だ、駄目……ですか?」

 リアがバッと顔を上げる。その眼縁は瞬く間に赤く染まっていた。それは、拒絶されることへの恐怖と、暗闇に対する本能的な拒否反応だった。

「あのお部屋……すごく綺麗で、暖かいですけど……静かすぎて。目を閉じると、真っ暗で……怖いんです。一人は、嫌……」

 そこに、男女の機微などない。

 彼女はただ、大雨の中で凍えきった幼獣なのだ。目の前に現れた暖炉という熱源に、死に物狂いでしがみつこうとしているだけ。

 そんな捨て犬のような濡れた瞳で見つめられて、突っぱねられるほど俺はできた人間じゃなかった。

「……まったく。お前には敵わないな」

 俺はガシガシと頭をかき、観念したように息を吐いた。

「今回だけだぞ。特別だ」

「本当ですか!? がんばります!」

 その言葉を聞いた瞬間、リアの背後にパァッと花が咲いたようだった。

 あの冷たく孤独な夜から逃れるためなら、悪魔に魂だって売るだろう。

 先ほどまで「あ」と「は」の区別もつかなかったポンコツ少女が、この直後、驚異的な学習能力を発揮し始めたのは言うまでもない。


【リア・夢の中の視点】

 夢の始まりは、目が眩むような黄金色のスポットライトだった。

 そこは地図には載っていない、都市の深淵。王宮よりも豪華絢爛な装飾が施された、地下深くの会員制劇場。選ばれた特権階級だけが足を踏み入れることを許された、秘密の狩り場だ。

 その頃の母は、まだ鉄鎖に繋がれた奴隷ではなかった。

 闇社会のみならず、表の社交界にまでその艶名を轟かせる、絶対的な「花魁(トップ)」だったのだ。

 舞台の中央に立つ母は、絶世の美貌と、まだ切り落とされていない優美に湾曲した双角を誇らしげに掲げていた。

 客席を埋め尽くしているのは、刺青だらけの無頼漢ではない。仕立ての良いスーツに身を包んだ紳士たちだ。

 母の記憶を通して、リアには見える。熱狂的な拍手を送る男たちの中には、テレビで正義を語る政治家、国の経済を牛耳る財閥のトップ、そして法を司る高官たちの顔があった。

 この法治国家において、彼らは表向き「亜人排斥」の法案を通しながら、地下では亜人の肉と尊厳を貪欲に消費しているのだ。

 魅魔(サキュバス)にとって、「愛と関心」は魔力の源泉である。母はこの歪んだ、しかし膨大な「寵愛」を浴びて、誰よりも強く、自信に満ち溢れていた。

あの頃の母は、高慢で、賢かった。

この泥沼のような世界を、彼女は遊泳するように生き抜いていた。

 彼女は知っていたのだ。魅魔の天賦の才を用いて、いかに人心を弄ぶかを。

 普段は雲の上にいるような権力者たちも、母がひとたび妖艶な流し目を送れば、糸の切れた操り人形のように傅(かしず)いた。母はそれを楽しみ、誇りとしていた。欲望という首輪で支配者層を飼い慣らす、自分こそがこの世界の女王なのだと。

 ――あの日、あの「異端者」に出会うまでは。

 それは、蒼白な髪をした人間の青年だった。

 権力も金もない、売れない吟遊詩人。けれど彼は、楽屋裏の影から、かつて誰も向けたことのない無垢な瞳で母を見つめていた。

 彼は肉体を求めず、ただ自由と陽光を謳う詩を母に贈った。

『ヴァイオレット。君の魂は、その美貌よりも美しい』

 その一言が、花魁の堅牢な鎧を砕いた。

 母は恋に落ちた。

 魅魔として最大のタブー、「本気」になってしまったのだ。

 その愛は、母の中に眠っていた天真爛漫な「理想主義」を爆発的に開花させた。彼女は舞台の下で拍手する文明人たちと、目の前の優しい恋人を重ね合わせ、致命的な錯覚を抱いてしまったのだ。

『ああ、人間は決して悪い生き物じゃない。私がこの身の穢れを洗い流し、彼らと同じになれば……私たちは本当の幸福を掴めるはずだわ』

その男のために。その愛のために。

彼女は破滅への階段を、自ら駆け下りた。

 場面は一転し、冷え冷えとした管理室へ。

 母は、花魁として長年積み上げてきた、城すら買えるほどの莫大な財産を、金縁眼鏡をかけた管理者の前に突き出した。

「身請けをお願いするわ」

 彼女は高らかに宣言した。その瞳は希望に輝いていた。「彼と結婚して、普通の人間として生きるの」と。

 管理者は冷淡に金貨を数え、口元に嘲りの笑みを浮かべた。それは、自ら牙を抜く猛獣を見る捕食者の目だった。人間の貪欲さは底なしだ。彼らは金を受け取っておきながら、彼女に「人間としての尊厳」を与えるつもりなど微塵もなかった。

 それでも母は、詩人の手を取り、地下の迷宮を後にした。

 そして、場末の安アパート。母は血濡れた鋸(のこぎり)を手に取った。

 歓迎されざる表の社会に溶け込むため。清廉な彼に相応しい妻になるため。そして、腹に宿った小さな命(リア)のため。

  ギチリ、バキリ。

 彼女は自らの手で、力の象徴である双角を切り落とし、空を舞う翼をもぎ取った。

 蒼白な顔で、しかし幸福そうに下腹部を撫でながら、彼女は愛人に寄り添った。

『今日から私はただの女よ。パパもいるし、差別のない家庭も持てるわ』

 だが現実は、彼女の頬を張るどころか、心臓をナイフで抉(えグ)りにかかった。

 雷雨の夜。

 「家」を約束してくれたはずの男が、一通の手紙を握りしめて震えている。封筒には、黒社会を裏で牛耳る名門一族の紋章が、赤い蝋で押されていた。

 巨大な「体制」は、すべてを見ていたのだ。金は搾り取った。だが、商品管理のルールを乱す異種族間の結合など許さない。

『すまない……ヴァイオレット。一族が、君と別れなければ僕を殺すと……君を処分すると……』

 男は、魔力を失い、無一文になり、身も心も傷だらけになった母を見て、権力の前に縮こまった。

 その瞬間、母にはまだ「力」があった。

 腐っても高位の魅魔だ。その気になれば、精神魔法で男の恐怖を消し去ることも、あるいは足をへし折って無理やり連れ去ることもできたはずだ。

 けれど、「文明」という名の呪いが母を縛り付けていた。

『だめ……私が無理強いしたら、それこそ彼らが蔑む「野蛮な怪物」になってしまう』

『彼の選択を尊重しなければ。魅魔だって、本当の愛を知っていると証明しなければ』

 だから、かつて女王のように君臨した悪魔は、最も卑屈な人間のように縋(すが)った。

 魔法も、暴力も使わず。ただその細い指先で、男の服の裾を、ちょこんと摘んで。

『お願い……置いていかないで』

 ビリッ。

 乾いた布の裂ける音が響いた。

 男は手を振り払い、逃げ出した。恐怖にかられ、母が子供のために隠しておいた僅かな生活費さえも持ち去って。

 彼は愛を裏切っただけではない。人間という種族を代表して、母が捧げた「真心」を泥靴で踏みにじったのだ。

 その後の記憶は、灰色の地獄だ。

 汚水と黴(カビ)の臭いが充満する防空壕。愛を失った魅魔は急速に枯れていった。

 母は、わが子を生かすために「逆・授乳」を選んだ。

 自らの生命力の源(コア)を燃やし、その身を削って、裏切り者の血を引く娘に与え続けたのだ。

 そして最期は、貧民街の路地裏。

 かつて絶世の美貌を誇り、人類との共存を夢見た理想主義者――今や狂女と見紛うほどに零落(れいらく)したその女は、飢えた莉亚(リア)に与えるたった一つの林檎を盗んだというだけで、人間たちに取り囲まれていた。

 かつて湯水のように金を使い、権力者を掌で転がしていた彼女が。「愛」を信じて全ての切符を手放した結果、ゴミ捨て場の林檎以下の価値にまで堕ちたのだ。

『殺せ! 化け物め!』

『見ろよこの魅魔、惨めなもんだな! 地獄へ帰れ!』

 叩きつける雨の中、二歳のリアはゴミ箱の陰から見ていた。

 普段は文明人を気取っている人間たちが、悪魔よりも醜悪な牙を剥き出しにしているのを。

 彼らは棒や石で、かつて美の象徴だった母の体を執拗に破壊した。笑いながら、罵りながら、異種族を虐殺する快楽に酔いしれながら。

(どっちが悪魔なの?)

(ママは生きたかっただけなのに。こいつらは、楽しむために殺している)

 人波が去り、泥濘(ぬかるみ)の中で、母の命の灯火が消えようとしていた。

 彼女は枯れ木のような手で、這い寄ってきたリアの腕を死に物狂いで掴んだ。

 最期の瞬間、その瞳から「理想」という名の光は完全に消え失せ、代わりに種族そのものへの底知れぬ絶望が宿っていた。

『リア……よく見て……』

 冷たい泥の中で、母の声は擦り切れた風笛のように響く。それは夢から覚めた者の、血の叫びだった。

『ママは間違っていた……徹底的に、間違っていたの……』

『私たちは自分たちを精気を啜る怪物だと思っていたけれど……この人間(バケモノ)たちの前では、あまりに無邪気すぎた……』

『彼らこそが真の怪物……文明の皮を被り、骨まで食い尽くす……彼らの貪欲さは、地獄の業火よりも熱い』

 焦点の合わない紫色の瞳が、最後にリアを射抜く。

 それは遺言ではない。この世界で生き残るための、唯一絶対の呪いだ。


『優しさで野獣は飼い慣らせない……捕食者と共存しようとしてはいけない……』


『悪魔よりも凶悪な彼らの中で生き延びたいなら……お前は彼らよりも貪欲に、残忍になりなさい』


『服の裾なんて掴んじゃ駄目……足を折るの……籠に閉じ込めるの……お腹の中に収めてしまうの!』


『この世界ではね、支配する側だけが、愛を語る資格を持つのよ』


 そう言い残し、「人間」という種に絶望したかつての大輪、紫羅蘭(ヴァイオレット)は、一握りの黒い灰となって崩れ落ちた。


悪夢は、そこで終わりではなかった。

 母の死後、すぐに奴隷商人が現れ、私を「商品」として回収していった。

 そして、私は売られた。

 最初の「飼い主」となったのは、黄色く濁った歯を剥き出しにして笑う男だった。

 男は幼いリアを値踏みするように見下ろし、脂ぎった手をゆっくりと伸ばしてきた。

「ちっこいが……腐ってもサキュバスだ。味見くらいはできるだろう」

 極限の恐怖の中で、母の遺言がリアの脳内で炸裂した。

『食べてしまいなさい!』

 リアは泣かなかった。

 彼女は手負いの幼狼のように、震える唇を大きく開き――その指に、力任せに喰らいついた。

「ぎゃあアアアアッ!」

 男が汚い悲鳴を上げる。

 激痛と屈辱に顔を真っ赤にした男は、逆上して手近にあった鉄の棒を振り上げた。

 ゴシャッ。

 鈍く、重い音が響く。下顎の骨が砕け散る音だった。

 リアは、自らの美貌と引き換えに、最後の尊厳を守り抜いたのだ。

 半殺しにされ、顔の形が変わるほどの暴力を受けたが、それでも最後の一線だけは越えさせなかった。あの薄汚い人間たちに、好き勝手にはさせなかった。

 彼女は壊れた。けれど、穢(けが)れてはいなかった。

 その魂は、砕けた顎と同じくらい歪んでしまったけれど――誰よりも潔癖で、美しいままだった。


【リア・視点】

「ハァ……ハァ……」

 リアは血の匂いがこびりつく悪夢から、弾かれたように目を覚ました。寝間着は冷や汗でぐっしょりと濡れている。

 恐怖の余韻で震えが止まらない。だが直後、隣にある温もり――カイという熱源に触れた瞬間、思考が切り替わった。

 意識はまだ混沌としている。けれど、魅魔(サキュバス)のDNAに刻まれた、原始的で強欲な生存本能が脳を乗っ取ったのだ。

(あったかい)

(これは、私の)

(逃がさない……印(しるし)をつけなきゃ)

 朦朧としたまま、彼女は庇護を求める幼獣のようにカイに擦り寄った。

 震える唇を開き、小さな鋭い八重歯を覗かせる。狙うは頸動脈。

 ――あむ。

 血は出ない。ただ、水光を帯びた薄い歯型がついただけ。

 マーキングを終えると、体力を使い果たした彼女は、電池が切れたように再び昏睡した。

【カイ・視点】

 ――ッ!!

 その瞬間、俺はカッと目を見開いた。

 痛みではない。魂が凍りつくような、根源的な恐怖だった。

 心臓を氷の手で鷲掴みにされたような感覚。のんきに草を食んでいた野兎が、上空から急降下してきた鷲に影を落とされた時のそれに似ている。

 食物連鎖の底辺にいる生物が、捕食者に喉元をロックオンされた時の絶望感だ。

『逃げろ! 食われるぞ!』

 全細胞がそう警鐘を鳴らしていた。

「ハァ……ハァ……ッ!!」

 俺は荒い息を吐き、戦慄しながらその“死の気配”の元凶へと振り返った。

 だが。

 そこに映ったのは、天使のように無防備な寝顔だけだった。

 リアは俺の腕の中で丸まり、すやすやと寝息を立てている。よだれを垂らし、俺のパジャマを握りしめるその手は、あまりにも弱々しく、愛らしい。

 ……気のせい、か?

 死神の鎌を首に当てられたような窒息感は、潮が引くように消えていた。

 俺は窓の外の静かな雨を見やり、早鐘を打つ胸を押さえて長く息を吐いた。

「なんだ……夢かよ……」

 額の冷や汗を拭うと、どっと疲れが押し寄せてきた。

「昼間のバイトがきつかったかな。動悸がするなんて……やっぱ連勤は体に毒だ」

 足元でおぼつかない少女を疑うはずもなく、俺はただの過労だと断定した。

 俺は再び横になり、リアを抱き寄せると、すぐにまた深い眠りへと落ちていった。

 その時の俺は知らなかったし、リア自身さえ気づいていなかった。

 今の無意識の甘噛みが、魅魔の一族に伝わるDNAの盟約――『魂の刻印(インプリンティング)』の雛形であったことを。

 これは運命が仕掛けた、悪戯(いたずら)のような小さな冗談だったのか。

 今はまだ、誰にもわからない。

 ただ一つ確かなのは、この静かな雨の夜、『執着』という名の種が、誰にも知られぬまま蒔かれたということだ。

 それがやがて『幸福』という名の花を咲かせるのか。

 ――それは恐らく、これからの話である。

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