其の五

 慌てて駆け寄るふたりの足音が、その声に掻き消される。震える肩を、長倉が引き寄せる。自分の顔を両手で覆う澪月の手を、無理矢理に引き剥がすと、涙に潤む瞳が長倉を見上げる。そして其処に現実を捉えようとするように、長倉に縋りついてきた。


「俺、俺、なんやの?」

「えっ?」

「これ、これ、……俺やないっ!」


 水鏡みずかがみを指さして、錯乱さくらんしたように首を振る。



 それは、つい、一時前のこと。


 客間にぽつんと置かれた澪月は、途切れてしまった記憶を必死になって掻き集めていた。


 自分が旅をしていたことは憶えている。けれど、何故旅をしていたのかが思い出せない。そもそも、自分はいったい何処で揚知客にあって、何処からこの宇治の館に来たのかがわからない。それに、自分には誰かがいた。揚知客ではない、誰かが。


 ひとりきりの旅ではなかった。けれど今、自分のまわりには誰もいない。


 思い出せない記憶はもやもやと不安ばかりを育てていく。得体の知れない不安を振り切るように、用意された膳に目をやった。そして乾いた唇を潤そうと、小さな杯を手にした時、磨きこまれた朱塗りの器の底に、見知らぬ影が映りこんだ。


 一瞬、冷たい何かが背筋を滑り落ちていった。


 ゾクリとした悪寒に、杯を投げるように膳に戻す。けれど今度は、杯を戻した自分の手に瞳を瞠った。その指先は、確かに自分の身体から延びているのに、自分のモノとは思えなかった。白すぎる指は小さくて、まるで女童めのわらわのようだった。


 まじまじと見つめる指先が、かたかたと震えだす。


 研ぎ澄まされていくうつつ。あてどない指先で、頬を辿り、髪に触れる。高く結い上げてあったはずのまげは失く、ざんばらな髪が頬に散る。


 朦朧もうろうと揺れだした視界を支えるように、握りこんだ指先で掌に爪をたて、外へと続く引き戸に向かって歩いた。引き開けた扉の向こうには、目にも眩しい景色が広がっていた。


 降りそそぐ陽光の先には、小さな池が光りを弾いている。覚束おぼつかない足を必死に動かして、風に揺れる菊花きっかの間を進んだ。倒れこんだ池のはた。石畳に両手をついて、ゴクリと生唾を飲み込んだ。そして、おそるおそる覗き見た、水鏡には……、


 鏡に映った自分の姿は、見知らぬ他人だった。


 けれどその他人は、じっと自分を見つめ返す。瞬けば、鏡も瞬く。首を傾ければ、鏡も傾ぐ。まるで、途惑う自分を嘲笑あざわらうように。


「俺、おかしくなってしもうたんやろか?」


 わずかに残る記憶を粉々に打ち砕く、見覚えのない自分の姿。今はもう、何処からがうつつで、何処からが夢なのか、それさえわからなかった。けれど、けれど……、


「こんなん、俺やない!」


 こんな、自分は知らない。


「俺、……俺……」


 小刻みに震えていた身体が、張り詰めた糸がぷっつりと途切れるように、長倉の腕の中で意識を手離した。仄かに色づく頬を、一粒の涙が零れ落ちていく。


 遠くに聞こえる鹿脅ししおどしの音が、弱竹よわたけが響かせるように、かそけく鳴っていた。

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