第8話:禍福はあざなえる縄のごとしと言うけれど

太田さんとのアジア飯でのディナーは、とても楽しいものだった。彼女は、アジア各国へ旅行したことがあり、頼んだ料理やお酒とともに各地の思い出を話してくれた。


タイの屋台村で食べた驚くほど美味しかったパッタイ。ベトナムで首輪をした犬にひどく懐かれて、どこまでも着いてこようして困ったこと。フィリピンで大学生のグループと仲良くなり、朝まで一緒に騒いだ。


僕は僕で、研究室で一緒だった中国やマレーシアからの留学生から聞いた、彼らの故郷の思い出を語った。10キロのジョギングは適度なスパイスになったようで、気がつけば二桁を超える国について、お互い話していた。


胃袋も心も満ち足り、穏やかな気持ちと幾分かの高揚感を抱えて、店を後にする。彼女と手を繋ぎながら、新橋駅まで歩く。


「美味しかったけど、ちょっと食べ過ぎちゃった」


「だって、どの国の料理を頼んでも、太田さんの『旅の思い出』が出てくるんだもん」


「だからってムキになって頼まなくてもいいじゃない(笑)」


「それは……ゴメン」


彼女は笑いながら、怒ってるわけじゃないよ、と軽く首を振った。


駅がはっきり見えてくると、僕の口が重くなった。言うべきことははっきりしている。ただ、少しの勇気が足りないだけ。彼女もその言葉を待っているかのように、彼女の手を握る僕の右腕に身を寄せてきた。


「……あのさ、明日って何も予定ないんだよね?」


かろうじてつま先だけ踏み出すと、「うん」とだけ応えた彼女は、全部分かっているかのような顔をして僕を見ている。よし、と心の中だけで勢いを付ける。


「じゃあ、今度はウチに来ない?」


「うん。月島でしたっけ、立花さんの家?」


「本当は川を渡った反対の新川なんだけど、皆知らないから月島って言ってるんだ」


「ごめんなさい、私も初めて聞いたかも」


「『3月のライオン』の零くんも住んでるのに!」


「そうだったの!? じゃあ、三月町へ行くときに渡っている橋もあるの?」


「あるよ。中央大橋」


「えー、じゃあ、結構メジャーじゃないですか」


「でも、太田さんも知らなかったでしょ。でも、仕方ないんだ。隣の入船と並んで、周りを築地とか月島とか箱崎とかメジャーなエリアに囲まれた不遇の街だから」


「そのくらいで不遇って(笑)。そういうとこに近いことが良いことじゃないですか」


「オフィス街なのに地下鉄の駅がないんだよ。暮らすには結構、不便」


「そういえば通勤ってどうしてるんですか?」


「都バス。東京駅まで15分。涼しい時期はシェアサイクルも使うけど」


「やっぱり、良いところですよ。えー、どんなところなんだろう」


彼女は、踏み出した一歩をサラッと受け止め、何てこともないように会話を広げてくれた。


新橋駅に着くと、平日朝夕のラッシュほどではないが、だいぶ混雑していた。


山手線の内回りのホームに上がり、人が少ない先頭の方へ向かう。ホームの狭いところで行き違うために、彼女の先を歩く。人の賑わいで、彼女の気配が感じられない。


と、小さな悲鳴が聞こえた。太田さんの声だと確信して振り向くと、彼女が床に座り混んでいるのが目に入る。それと同時に、自分のすぐ脇を男が走り抜けていった。


太田さんに駆け寄ると、彼女の後ろを歩いていた女性が「さっきの男の人がこの人にぶつかって行ったんです」という。


そっちに一瞬目をやるが、階段を降りたのか既に男の姿は見えない。視線を戻すと、太田さんは顔を伏せたまま、座り混んでいる。


「大丈夫? どこかぶつけてない?」


彼女に声を掛けると、顔を伏せたまま首を振った。少なくとも、どこかを痛めたり、見える範囲で怪我はないようだ。


「立てそう?」と尋ね、彼女の横にかがんで肩を抱き寄せると、ゆっくりと立たせた。横にベンチがあったので、そこに誘導して座らせた。先ほどの女性に、お礼を言うと、自分も太田さんの隣に座った。


まだ声を出せない彼女を見て、さっきまでとの変わりように、嫌な考えが頭をよぎる。膝の上で握りしめる彼女の手にそっと触れると一瞬身を固くしたが、「大丈夫だよ」と声を掛けると、手を開き僕の手を掴んだ。


しばらくそうしていると、彼女も落ち着いてきたようで、「ごめんなさい」と小さな声が聞こえた。僕はまた「大丈夫だよ」としか言えなかったが、彼女の手はしっかりと握り続けた。


そこから更に電車を数本、見送ると、彼女が顔を上げ「本当にごめんなさい」と言った。


「今日は帰ろうか。家まで送っていくよ」


「遅くなるから悪いわ。明日、仕事よね」


「仕事よりも大事なことだから。このままひとりで帰せないよ」


強くそう言うと、彼女も諦めたようで、うなずいた。反対のホームに移動して緑の電車に乗り込み、彼女の家に向かった。




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作品を読んでいただき、ありがとうございます


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さて、この作品は予定どおりに、あと2話で完結します。


最後までお楽しみいただければ幸いです。

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