第35話 💥 天正十年(1582年)六月:本能寺の変、女殺し屋の台頭
警察の突入は、十河監督の狂気的な防衛によって、数時間遅延した。その間に、十河は「本能寺」のセットを組み上げ、竹ノ塚(信長)をその中心に据えようとしていた。
神崎ユウダイは、オフィスセットに残された血痕の横で、滝沢が慌ただしく書きつけた新しい脚本の紙片を見ていた。
「十河監督が、帰蝶の代役に……妖瀬はるかを起用した、ですって?」
神崎は、信じられない思いで尋ねた。
滝沢は、青白い顔で頷いた。
「ああ。十河は、この惨劇に新たな血を求めた。妖瀬は、彼女自身の経歴と、このスタジオの狂気が、最も危険な形で交差する人間だ」
妖瀬はるか。彼女は、裏社会での過去が囁かれ、その冷酷な美貌で知られる、謎の女優だった。彼女の起用は、単なる配役ではなく、十河監督が仕掛けた、竹ノ塚への最後の罠だった。彼女に与えられた役は、形式的には帰蝶(濃姫)だが、実質は、信長の運命を決定づける暗殺者の役割だ。
竹ノ塚(信長)は、すでに極限状態だった。彼は、自身の復讐を果たした後、深い虚無の中にいた。本能寺の、簡素だが厳粛なセットに彼は立ち、真剣を杖代わりにして、静かに立っている。
十河監督が、メガホンを口元に押し付け、血管を浮き上がらせながら叫んだ。
「ようこそ、妖瀬!お前こそ、竹ノ塚の死神だ!お前の役割は、信長を愛し、そして裏切ること!竹ノ塚の魂の奥底にある、すべての弱さを引きずり出せ!」
本能寺のセットは、夜明け前の静寂に包まれていた。神崎と滝沢、そして安部(家康)は、その緊迫した空気を遠巻きに見つめるしかなかった。
妖瀬はるか(帰蝶代役)は、着物姿で竹ノ塚(信長)の前に進み出た。彼女の目は、冷たい氷のようで、一切の感情を読み取れない。
竹ノ塚は、彼女を見据えた。彼の狂気は、この女の冷徹さに、一時的に沈静化しているように見えた。
「お前は……私の妻ではない。お前は、この狂気の果てに現れた、私自身の死だ」
竹ノ塚の声は、ささやきのようだった。
妖瀬は、台詞を無視し、低い声で尋ねた。「竹ノ塚直人。あなたは、なぜ人を殺したのですか?復讐ですか?それとも、ただの演技ですか?」
この問いは、十河監督の脚本にも、滝沢のプロットにもない、妖瀬自身の問いだった。
十河監督が叫んだ。
「動くな、妖瀬!お前は、明智光秀の魂を持つ女だ!殺せ!」
「静まれ、十河!」
滝沢が、初めて監督に向かって怒鳴った。
「これは、私の結末だ!」
妖瀬は、竹ノ塚に一歩近づいた。
「私は、あなたを殺しに来た。竹ノ塚。あなたの狂気を、ここで終わらせるために。あなたは、自分の命を、この地獄のドラマの幕引きとして捧げる覚悟がありますか?」
竹ノ塚は、かすかに笑った。それは、信長公の豪胆な笑いではなく、疲弊しきった一人の男の、諦念の笑みだった。
「覚悟など、とうにできている。私の人生は、あの派遣切りで死んだ。私の魂は、あの敦盛の舞で消えた。後は、この肉体が、歴史の定めに従い、燃え尽きるだけだ」
妖瀬は、袖の中に隠し持っていた、小さな刃物を取り出した。彼女は、竹ノ塚の心臓に狙いを定めた。
「安らかに。竹ノ塚さん。これで、このスタジオの地獄は終わる」
彼女の刃は、竹ノ塚の心臓に、深く突き立てられた。
鈍い音が響き、竹ノ塚(信長)は、膝から崩れ落ちた。彼の最後の視線は、炎に包まれる本能寺のセットと、血を流す自分の胸に落ちていた。
直後、スタジオの扉が内側から吹き飛び、警察の突入部隊が雪崩れ込んできた。
十河監督は、まるで自分の傑作が完成したかのように、狂喜の声を上げながら、その場に崩れ落ちた。
「カットォ!**本能寺の変!**歴史は、完成した!竹ノ塚!お前は永遠に生きる!」
妖瀬はるかは、刃物を落とし、竹ノ塚の冷たくなった顔を見つめた。彼女の目には、初めて、人としての悲しみのようなものが浮かんでいた。
神崎ユウダイは、竹ノ塚の亡骸と、妖瀬、そして逮捕される十河監督を見つめ、濡れた床に座り込んだ。
滝沢は、神崎の肩に手を置いた。
「終わった。神崎。脚本は、ついに結末を迎えた。狂気は、それ自身を燃やし尽くして終わるものだ」
安部(家康)は、その場から一歩も動けず、ただ虚空を見つめていた。彼の目には、信長の死、そしてその狂気の結末が、未来の彼自身の地獄への予言として焼き付いていた。彼は、この血の共有による地獄への契約から、永遠に逃れられないことを悟っていた。
これで、**竹ノ塚直人(織田信長)**をめぐる、狂気のドラマは、ついに幕を下ろしました。
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