盲目のヴァイスカッツェ
小清水 不知音
第1話:ソフィア・アルフレダ・シュヴァルツァ警部補
一九一一年十一月十四日、カンダル連邦首都近郊の街、セリョドブルグ。その小さな街の小さな駅のホームへ、息せき切って駆けてくる女の姿があった。美しい白い髪を後頭部で結い、その上に濃紺のケピ帽をかぶり、同じ色のジャケットと乗馬ズボンを履き、分厚いコートを羽織っている。
ジャケットの腰に巻いたベルトには、左肩から斜革がついており、革製のホルスターと手錠入れ、そして拳大のポーチが付けられている。
彼女は肩で息をしながらホームの端の白線の向こうへ行くと、汽車を待つ人々の後ろに並ぶ。この白線はヒトとそれ以外の人間を隔てるためにあった。そこには犬や猫のような耳が頭頂から生えている者などが数人いた。
この国、カンダル連邦の成り立ちは、八十八の民族や種族を擁する八カ国による連邦国家。しかし、ヒトの形をしていない人々は連邦を構成する同胞とみなされず、亜人が待機するための白線の向こうへ追いやられている。
ケピ帽の女はその異形の一人だった。しかし、彼女が列に入ると、そこにいた人々は蜘蛛の子を散らすように彼女から遠ざかるが、気にすることなく、まんまと待機列の先頭に立った。そこにいた人々が彼女を避けるのは、彼女が警察官だからだろう。
……以前まで、警察というのは異形のヒト、一括りに亜人族と呼ばれる者たちをないがしろにし、不当に傷つける事が公然と許されており、亜人への犯罪も甘く取り締まった。亜人の多くにとって警察官は味方ではなく、それになる者は裏切者だった。
警官はそれでも気にすることなく、先頭に立てた事を喜びながら、ポケットからくしゃくしゃになった時刻表を取り出して懐中時計を見る。今の時間は八時二十二分。後三分で汽車が来る。
彼女が待つ一番線は首都行きの汽車が来るのに対し、向いのホームは南の県へと向かう汽車が来るのだが、今日は奇妙なことにホームが閉鎖されていた。
二十四分。まもなく汽車が来る。遠くから豆粒のような大きさのそれが、黒煙をもくもくと吹かしながら、段々と大きくなってくる。そんな中、また息を切らした人影が、白線を超えてやってきて、警官の後ろに立った。
その者は、一見ヒトに似ている。茶色のベレー帽の下からは灰色のごわごわした髪の毛が見える。分厚い外套を被って、手をまるでハエのようにすり合わせる。
「おはようございます、ソーニャさん」
「ラリーサ、あんたはこの白線を超えて並ぶ必要はないのに」
「いやいや、私はあなたの事が気に入ってるんです。それに、あなたの周りは人が少なくて落ち着くんです」
ラリーサという女はソフィアを愛称で呼び、なれなれしく話しかけ、黄色い垂れ目を細めて笑いかける。彼女がマントの下からカバンをずらし、何かを取り出そうとすると、灰色のお世辞にも綺麗とは言えない翼のような物が見え、はらはらと羽毛が床へ落ち、風にさらわれていく。
彼女も異形の亜人の一種であったが、鳥人という種族でもあり、その翼を持つ姿が天使に似ている事から神聖視され、彼らだけは差別を受ける事はなかった。
「これ、見てください。ソーニャさんが頼んでいた探し人の手がかりになると思うんです。昨日、南方支社から電報が届いたんです。きっとあなたの役に立つかと」
警官、ソフィアが紙を受け取って見ようとしたその時、丁度列車がホームへ入ってくるが、それと同時に突然後ろから声を掛けられ、咄嗟に押し返してから振り返る。鳥人のラリーサは、ハトが豆鉄砲食らったかのように目を丸くして、「お、お先に失礼します」と言ってから汽車に乗り込んでいった。
「警部補さん、あんたの身分証明書を見せてくれ。汽車の定期券と国内旅券、それとあんたが本物の民警なら警察手帳もだ」
――声の主は黒い制服に身を包んだ男たちだった。金属製のヘルメットをかぶり、手に警棒や短機関銃を持っている。銃口は辛うじて斜め上を向いているが、鋭い眼光の青い瞳がソフィアを見下す。
その黒服は、ソフィアと同じくベルトに負革を付けているが、警官ではない。彼の服の左袖にはカフタイトルが付けられており、
汽車のリンク機構が動いてホームから北の方へと走り去っていく。苦々しく見送ったあと、ソフィアはゆっくりとポケットのボタンを外して身分証を取り出した。
彼女の表情や行動から、国家憲兵隊に逆らう事は得策でない事は容易に分かる。話しかけてきた男が、定期券と国内パスポートを後ろの部下らしき隊員に渡すと自分は警察手帳を眺める。それには彼女の本名と所属や階級が書かれており、写真も貼付されている。
――ソフィア・アルフレダ・シュヴァルツァ、二十三歳、猫獣人、白毛、〝МИЛИЦИЯ〟所属、警部補、首都東部分署勤務――写真の女は顔の左右にヒトと同じ耳を持つ一方で、頭頂にも三角形の獣のような耳がピンと立っている。
「ソフィア警部補、帽子を脱ぐんだ」
国家憲兵に言われて渋々ケピ帽を脱ぐと、まるで感情を表しているかのようにぴくぴくと動き、少しばかり横に垂れた猫耳が姿を現した。それを確認した国家憲兵隊は身分証を返却すると「協力感謝するが、以降駅では脱帽するように」と言い、ソフィアはその場に取り残された。
ふうと溜息を吐きながら、ソフィアはベンチに腰掛けた。職務質問のせいで汽車に乗り遅れ、時刻表を確認すると一時間程度はこのままだ。それに、この積雪の季節、何十分も遅れてくるのはザラにある。またまた大きくため息を吐くと、今しがた声を掛けてきた国家憲兵隊の連中を横目で見る。
……数十メートルごとに三、四人いる。向かいのホームは今日、閉鎖されているのにも関わらず、同じ黒服が銃を片手に屯し、タバコを吸いながら談笑している。
国家憲兵隊はソフィアのような民警とは異なる。まず、民警、つまり人民警察というのは各国で言う一般的な警察官。文民であり、市民を取り締まり、助け、守るのが役目だ。
対する国家憲兵隊は国家の安全保障を担う警察組織であり、文民ではなく軍人として扱われる。彼らはパレードや議事堂などの行事や施設の警備に当たる事が多く、駅構内にこんなにたくさんいる事は滅多にないはずだった。
ソフィアはケピ帽を小脇に抱えながらキオスクの方へ向かう。キオスクは白線の外側にあるが、様々な人種と接する店主は猫獣人であるソフィアが近づいても特に気にも留めなかった。売店の屋根の下にはタバコ、瓶入りの飲料、ビスケットや総菜パンのような軽食、他にもインクや紙や切手、新聞が売られている。
「店主さん、朝刊とあと、パン。それとトニックウォーターを」
店番の男はめんどうくさそうに欠伸をしながら、「十二ヴェアトだ」と言い、何枚かの銅貨を受け取ると商品を渡した。ソフィアは商品の入った紙袋を受け取り、会釈するとベンチの方へと戻った。総菜パンの包みを開けると香ばしい揚げパンが姿を現す。
大陸北部ではパンの中に味付けした野菜や肉を入れて揚げる物が一般的だった。高い熱量といろいろな栄養を一食でとれる事から、忙しい朝や労働者の小腹満たしに食べられる。
パンを頬張りながら、空いている左手で新聞を抑え、一面から読み始める。 ――「
見出しは、「大陸中南部にて新たな燃料資源発見さる」とあり、ヴィリディウムという液体とも固体とも分からないが兎に角ガソリンよりもよく燃える資源が見つかったという眉唾物の記事だ。
ソフィアはもぐもぐと揚げパンを頬張りながら眉を顰める。ごくりと飲み込んでから呟く。
「ばかばかしい。第一、資源が発見されたのはダンクセン領内じゃないか」
ソフィアが「ばかばかしい」と言ったのは、ダンクセンはその資源を軽々しく連邦に譲る事や売る事はないだろうという気持ちが込められていた。
パンの包みをポケットにしまい、次の紙面を見る。「ユージナ共和国軍、メジュド王国軍と小規模の衝突あり、死傷者多数」。
ユージナは連邦の構成国の一つで、南側国境のアリョーナ河を介してダンクセンと隣り合っている。している。ダンクセン連合王国はメジュド王国とヴァルド王国が、両国の中間のダンクセンという都市で連合を結んだ国だ。
また、ダンクセン連合王国とカンダル連邦は領土と民族、そして資源の問題で小競り合いが絶えない。そして、ここ一週間、衝突は続き、銃撃戦もあったらしい。
次のページをめくるとソフィアはまた溜息を吐く。「燃料価格の高騰止まらず」という見出し。連邦は大規模な領土を持つ一方で産油量は僅かでしかない。踏んだり蹴ったりな事に、酷寒の冬が五年も続いた事、大陸最大手の産油国であるダンクセンとの関係悪化に伴い、遠く離れた大陸南部の国々から海路を通じて燃料を輸送するが、あまりにも沈没事故が多発するため、ダンクセン王の私掠船がいるという噂さえあった。
ソフィアは新聞を一度膝の上に置いてからトニックウォーターの瓶を手に持つ。ポケットから出した小刀の背で王冠を弾いて開け、一口飲むと次のページをめくる。「ダンクセン、亜人迫害が苛烈化」――すると、見出しを見た時点で彼女は鼻で笑った。
それもそのはずだ。彼女は白線で仕切られた場所にいるのだから。確かに連邦には亜人でさえ職を選ぶ権利がある。でも、亜人は専用の座席や車両に乗らなければならないし、待機列でさえヒトとは離れたところにおかれる。
民警の制服を着て、銃を持っていなければ、酷い目に遭う事もザラだ。この国も、かの国も同じだと、当事者である彼女はつまらなそうな顔で新聞を折りたたんだ。
ソフィアは三十分ほど経ってようやく汽車に乗れた。空いている席に着く。車両が徐々に動き出し、ホームを離れると市街地を外れ、景色は市街地から森林に移る。
目的地は終点の首都で、だいたい四十分ほどかかるため、少し眠ろうと思ったソフィアは新聞を広げ、顔の上に載せた。
しかし、その直後、今日は閉鎖されている筈の隣の線路、つまり下りの方を列車が通り、窓を揺らした。
「うおー!」
「連邦軍バンザイ!」
「ウーラー!」
この客車の獣人たちからも、隣の客車からも叫び声が聞こえる。あまりの五月蝿さに新聞をすぐさま取っ払い、車窓を見るソフィア。
すれ違う、大きな音を立てて走る、歪な形状をした列車。黒い煙をもくもくと吹かしているがその煙突はどこにあるのかは横からは見えない。厚い鋼板に覆われたそれは装甲列車だ。
列車の側面には〝
「鉄道軍の首都防衛隊がどうして下り線に……?」
ソフィアが独り言ちる。首都防衛隊は首都沿線を周回する装甲列車部隊で、アリーナ、ボリス、ヴァシーリと名付けられた同じ編成の列車が三本で構成されている。主な任務は鉄道路線の監視と保全、そして最悪の事態に首都防衛のための移動砲台となる事であり、それが沿線から出てくる事は今まで一度も無かったのだ。
そんな中、急に汽車の速度が下がり始め、やがて、車両は急に森林の真ん中で停車し、車内にどよめきが走った。
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