9 こんなに晴れた素敵な日

 やると決めたらすぐに動くのは、私の数少ない取り柄の一つだ。



 勤務時間中に嶋田先輩にこんな文面のラインを送った。


>お疲れ様です、1年目研修医の日比谷光瑠です。先日の総合診療科研修ではお世話になりました。

>他の病院で働いている畿内医大出身の友達が畿内医大病院の総合診療科を見学したいと思っているそうで、嶋田先輩から総診の先生に仲介して欲しいそうです。

>その子はラインをやっていなくて、SMSで連絡したいそうなので嶋田先生の携帯番号を教えて貰えませんか? 私からその子に伝えます。



 返事はすぐに来て、私はこれまで知るつもりも知りたくもなかった嶋田先輩の個人の携帯番号を入手した。


 そして仕事終わりの18時頃に阪急皆月市駅に設置されている公衆電話に100円玉を入れ、私は嶋田先輩に電話をかけた。



「もしもし、日比谷です。今お時間よろしいでしょうか?」

『こんなことだろうと思った。暇なので何でもどうぞ』


 電話口からは騒がしいBGMや誰かのやかましい歌声が響いていて、先輩は仕事終わりに大好きな趣味のカラオケに直行していたらしかった。


 今からする電話は用件さえ伝わればいいので、私はあくまで冷静な口調で先輩に言葉を続けた。



「お金が欲しいんです。今度またお付き合いしますから、5万円頂いてもいいですか?」

『ああそう、僕は全然いいよ。そんな用件ならラインで言ってくれればよかったのに』

「会話の履歴を残したくないんですよ。それぐらい分かるでしょう?」

『だよね。時間とか相談したいんだけどそれこそSMSで送ってもいいかな? SMSの履歴なんて今時彼氏さんも見ないでしょう』

「まあそうですね。なるべく分からないような書き方でお願いします」


 これまでパパ活で会った他の男性にはラインのアカウントやメールのアドレスは一切教えず、しつこくネットでのやり取りをせがまれた時はインスタグラムの捨てアカウントを教えてその後にアカウントごと消していた。


 嶋田先輩はインスタグラムをやっていないと以前何かの機会に聞いていたので、今回はこんな面倒な手順で私は嶋田先輩に連絡を取ることにしていた。



 その週末の日曜日、私はこの前とは別のラブホテルに入った。


 SMSで教えられた番号の客室のドアを開けると、そこでは嶋田先輩が広いベッドに腰を下ろしてスマホゲームで遊んでいた。確か奇妙な猫のキャラクターが沢山出てくるタワーディフェンスゲームだっただろうか。


 以前先輩に脅されてラブホテルに連れ込まれた時はとても緊張していたけど、先輩の本性を知った今では特に何も怖くなかった。



「やあお疲れ様。最近ずいぶん疲れてるみたいだけど、僕の予想は当たったのかな?」

「ええ、残念ながら。私の彼氏は先週から血液内科で休職中です」

「優しいんだね」

「殴ってもいいですか?」

「ぜひお願いします!」


 笑顔で答えた嶋田先輩をぶん殴って首を絞めたくなったけど、私は先輩との会話をなぜか不快に感じていない自分に気づいた。


 先輩からの距離が一番遠くなるように自分も広いベッドの隅に腰掛け、ぽつりぽつりと話を始める。


 きっと、今の私は誰かに話を聞いて欲しかったのだろう。



「患者さんが白血病とか悪性リンパ腫でどんどん死ぬのが辛かったそうです。他にも再生不良性貧血で中絶した若い女性とか一日中病室で泣いてる高齢女性とか、大変な話を色々聞きました。悪性リンパ腫の末期で敗血症になって死にかけてるおじいさんに1週間毎日研修医一人で血小板輸血をさせられて、週末に結局亡くなったって話を聞いた時は流石にちょっと気の毒だと思いました」

「血小板製剤って確か10単位で8万円とかするよね。お金のことはともかく日比谷先生はそういうの耐性ある方?」

「全然平気ですね。私、やっぱりどこか人格に問題があるんでしょうか?」

「そんなこと思っちゃ駄目だよ。僕に言わせれば彼氏さんはとても優しいし、日比谷先生はもっと優しい。優しいから患者さんに同情して泣くし、もっと優しいからその気持ちを神様の視点から見て冷静に判断できる。そもそも本当に人格に問題がある人は絶対にそれを自覚しないからね」

「先輩だったらどう思いますか?」

「あー、僕は白血病患者じゃなくてよかったなあって思う。自分がもし白血病って診断されたらスイスにでも行って安楽死するかな」

「死ぬのが怖いのか怖くないのかどっちなんですか?」

「僕はいつ死んでも後悔しないけど死ぬ瞬間までは楽しく生きたいんだよ。だから仕事終わりにはいつもカラオケに行くし、映画だって深夜に一人で観に行く。そして親父からせびったお金で日比谷先生にいじめて貰う」

「今日は何をすれば?」


 先輩の自分語りをあえて無視しながら尋ねると、先輩はベッドサイドに置いていた大きなカバンの中から黒い縄状のものを取り出した。


 そして持ち手のついたそれをおずおずと私に差し出し、ベッドの上で仰々しく土下座をする。



「今日はこのむちで僕を叩いてください。本当に思う存分叩いてくれていいです、彼氏さんのことで感じてるストレスを全部僕にぶつけてください」

「変態」

「もっと言って」

「嫌です」


 短い単語だけで言葉を交わして、私は目の前の異常な状況になぜかおかしさを感じてふふっと笑った。


 こんな風に思わず笑うのは久しぶりだと感じて、真っ黒な鞭の持ち手を右手で握った。



「それじゃ叩きますけど……傷跡とか残ったら着替えの時に変に思われません? 私手加減の仕方分からないんですけど」

「大丈夫大丈夫、服着たまま叩いて貰うから傷跡なんて大して残らないよ。先生も僕の裸なんて見たくないでしょ?」

「聞くまでもないでしょう」

「その意気です! という訳でまずはお尻から叩いてください。後ろ向くね」


 嶋田先輩はそう言うとベッドの上で身体を回転させ、うずくまった姿勢で私にでっぷりと肥満したお尻を突き出した。


 これを叩いたら面白そうだと思って、私は人生で初めて鞭を振り上げた。



 思ったよりスナップが効いてしなった鞭は先輩のお尻をぴしゃりと叩き、思ったより強い感覚に私は少しだけ驚く。


「ああんっ!!」

「っは……な、何ですかその反応。面白すぎでしょ……」

「ああっ! ああんっ!! 気持ちいいっ!!」


 お尻を叩かれる度に奇妙なあえぎ声を上げる先輩に、私は吹き出してしまった。


 笑いながら何度も繰り返し鞭を振り上げ、先輩のお尻をぴしゃりぴしゃりと叩き続ける。



「ああああああああああっ!! さ、最高だ……こんなに気持ちいいなんて予想外だよ……」

「喋るなっ!」

「ああんっ!! あああぁ……」

「この豚野郎!」

「ああんっ!! んほおっ!!」


 適当に思いついた罵声を口にしながら先輩のお尻を叩き続け、私は今の状況を心から楽しんでいる自分に気づいた。


 こんなことをするだけで5万円を貰えるなんて、私ほど恵まれた労働者もこの世にいないだろう。



「日比谷先生……君、こういうの才能あるよ。これほどとは予想外だった……」

「首絞められるのとどっちが気持ちいいですか?」

「そりゃ首絞めだよ」

「死ねっ!!」

「ほおおっ!!」


 あえて鞭をしならせて先輩の背中をぴしゃりと叩くと、先輩はこれまでにない強い反応を見せた。


 大声で笑いながら先輩を鞭で叩き続け、いつしか私の両目からは涙が溢れてきた。



「嶋田先輩、気持ちいいですかっ?」

「ああんっ!!」


 鞭でお尻を2連続で叩く。



「どうして私の人生って上手くいかないんでしょう?」

「んほおっ!!」


 鞭で先輩の背中を強く叩く。



「もっとお金があれば幸せになれるんでしょうか?」

「よおおっ!!」


 初めて先輩の後頭部も叩いてみる。



「死んじゃえっ!!」

「あはあっ!!」


 これまでで最強の力で先輩のお尻を叩いた。




 頭の中で気持ちが一杯になって、私は黒い鞭をベッドの上に取り落とした。



 そして広いベッドの上にぺたんと腰を下ろし、そのまま私は号泣した。



「うっ……うっ……ううぇええぇ……」

「はぁはぁ、どうしたの日比谷先生……もう5万円分は叩いて貰ったけどさ……」

「先輩……」

「……」


 ベッドの上でうずくまって私にお尻を向けたまま、先輩は私がひとしきり泣き終えるのを待っていた。


 私は誰かの前で思い切り泣きたかったのかも知れない。




 私が泣き止むと先輩はベッドの上で身体を起こして、そのままごろりとベッドに仰向けに寝転んだ。


 先輩の顔はいつもと違って無表情で、顔に当たると流石に危ないのでこの状況では鞭で叩いてあげられない。



「あのさ」

「何でしょう?」

「日比谷先生は、十分幸せだと思うよ」

「どうして?」

「優しくて、顔が綺麗で、しかもお医者さんでしょう。素敵な彼氏さんだっている」

「貧乏で、母親に殴られて育って、彼氏に隠れてこんなことしてるんですよ?」

「だから何? 全部お金で何とかなることでしょう?」

「……」


 先輩は続ける。



「僕は実家が金持ちで、母親がいないけど父親に甘やかされて育って、彼女はいないけど日比谷先生をお金で買ってこんなに嬉しいことをして貰ってるよ。だけど人格がまともで、顔がイケメンで、ちゃんと彼女がいる男の研修医には一生かかっても勝てない。どれもお金で買えないからね」

「痩せて整形すればどうですか?」

「手術って痛そうじゃん」

「何ですかそれ。痛いの大好きなんじゃないんですか?」

「確かに、日比谷先生が手術してくれるなら我慢できるかも」

「麻酔ならかけてあげますよ」

「っ……ははははは、日比谷先生面白すぎるでしょ! こんなに楽しい人だとは思わなかったなあ」


 ベッドに寝転がったまま爆笑する嶋田先輩を見て、私は少しの間だけここがラブホテルであるという事実を忘れた。


 こんなに心が安らいだのは、初期研修が始まって以来初めてかも知れない。



「そろそろまた叩きましょうか?」

「いや、先生も手が疲れただろうしもういいよ。僕はもうちょっと余韻に浸りたいからそこのカバンの財布から5万円持っていって。もっと取ってもいいよ」

「下手に恩を着せられたくないので5万円にしておきます。……今日は、ありがとうございました」

「こちらこそ! また職場でもよろしくね」


 嶋田先輩のカバンをまさぐって財布を取り出し、そこから1万円札を5枚取ると自分のポケットの定期入れに収納した。


 先輩の顔を見ずにさっさと客室を出て、周囲に知り合いがいないか気をつけながらラブホテルを後にした。



 こんなに気分が晴れた日はいつ以来だろうと思いながら、私は寒風が吹き抜ける11月下旬の街を歩いた。

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