第10話 深緑の回廊と、再燃する呪縛

状況は、絶望的だった。


後方からは、フラグメントの「魔力(ご馳走)」に狂ったミスト・フェンリルの大群が、地響きを立てて迫ってくる。


前方には、空間転移(ミスト・ロード)で先回りした二人の長老――ケレンとライラが、冷酷な笑みを浮かべて立ち塞がっている。


逃げ場はない。


「(分析)……チェックメイト、です」

フラグメントの無機質な宣告に、フィリアは唇を噛み切らんばかりに強く噛んだ。


恐怖で足が震える。だが、彼女は弓を構え続けた。


「ふざけないで!

あんたは『賢者』なんでしょ!? 何とかしなさいよ!」

彼女の叫びは、悲鳴に近かった。


だが、フラグメントの琥珀色の瞳は、冷徹に戦場をスキャンし続けているだけだ。


「(状況確認)……フィリア。

後方の脅威(魔物)は『本能』です。

交渉の余地はなく、接触すれば100%の死です。


ですが、前方の脅威(エルフ)は『私欲』です。

彼らの目的は私の『捕縛』。

……生存確率は、前方の方が0.1%高い」


「だから、どうしろって言うのよ!」


「(最適解の提示)魔物から逃げ、長老たちに向かって突撃しなさい」


「はあぁ!?」


フィリアは絶句した。

あの中に飛び込めというのか。

あの、異様な気配を纏った長老たちの懐に。


「(実行)迷っている時間はありません! 来ます!」


背後の木々がなぎ倒される音がした。魔物の群れが、すぐそこまで迫っている。


フィリアは、覚悟を決めるしかなかった。


「……っ、もう!

あんたのその『合理的判断』に、この命(いのち)、預けたわよ!」


彼女は地面を蹴った。


エルフ随一の俊敏性を解放し、魔物の群れに背を向け、長老たちの方へと矢のように疾走する。


それを見た長老ケレンが、彫像のように整った顔立ちを歪め、嘲笑った。


「フン……愚かな。自ら罠に飛び込んでくるとはな」


「捕らえなさい、ケレン! あの石ころは、私たちのものよ!」


長老ライラが、その熟れた果実のように赤い唇で叫ぶ。


彼らは武器を構え、突撃してくるフィリアを迎撃しようとした。


だが。


フラグメントの狙いは、そこではなかった。

「(計測)……タイミング、合致。

フィリアの突撃速度と、魔物の追跡速度が同期しました」


フィリアが長老たちに肉薄した、その瞬間。


彼女を追ってきたミスト・フェンリルの大群もまた、その勢いのまま長老たちの目の前へと雪崩れ込んだのだ。


「なっ……!?」


ケレンとライラが動揺する。

 

獲物(フラグメント)を追う魔物の暴走は、エルフの識別などしない。


三つ巴の混沌(カオス)。


それこそが、フラグメントが狙った唯一の勝機だった。


「(指示)今です、フィリア! 混乱に乗じて突破を――」


だが。


その作戦は、長老たちの「異質さ」によって、脆くも崩れ去った。


「……チッ」

ケレンが、忌々しげに舌打ちをした。


彼は、迫りくる魔物の牙にも、フィリアの突撃にも動じなかった。


「ライラ。……『掃除』するぞ」


「ええ。このままでは、せっかくの獲物(フラグメント)が傷ついてしまうわ」


二人の長老は、互いの目を見つめ合うと、同時に杖を掲げた。


その瞬間、彼らの全身からドス黒い魔力が噴き上がった。


それは、森長サリオンが見せた威圧感とは質の違う、もっと粘着質で、禍々しい気配。


二人の声が、不気味なほど完璧に重なる。


「「『古代の深緑の回廊(エターナル・ラビリンス)』!!」」


ゴゴゴゴゴゴ……!


世界が、裏返った。


森の木々が生き物のように蠢き、道が閉じ、空間そのものがねじ曲がる。


都市アイテルを覆っていた結界魔法の、さらに強力な「源流」にあたる古代魔術。


その効果は劇的だった。


「ギャイイイインッ!?」


突進していたミスト・フェンリルの群れが、一斉に悲鳴を上げて急停止した。


彼らは、この魔法が放つ「強制的な支配」の気配を、本能レベルで嫌悪したのだ。


魔物たちは、目の前の餌(フラグメント)への執着すら捨て、尻尾を巻いて『霧の道』の彼方へと逃げ去っていった。


戦場が、リセットされる。


残されたのは、ケレンとライラ。

そして、逃げ場を失ったフィリアとフラグメントだけ。


「(分析)……作戦失敗。

脅威B(魔物)の排除には成功しましたが、脅威A(エルフ)の制圧力が増大しました」


だが、本当の絶望はここからだった。


魔物を追い払った『回廊』の真の力が、結界内に閉じ込められた唯一の反逆者

――フィリアを直撃したのだ。


「あ……がっ、ぁぁぁぁぁッ!!」


フィリアが、走り出した勢いのまま、地面に崩れ落ちた。


頭を抱え、喉を掻きむしり、たった今自由になったはずの肺から悲鳴を上げる。


「(警告)フィリア!?

バイタル異常! 何が起きたのですか!」


フラグメントのスキャンが、彼女の脳内で起きている異常事態を検知した。


昨夜、一度は消滅したはずの「宿命(コード)」が、長老たちの魔法によって強制的に再書き込み(オーバーライト)されているのだ。


それも、以前よりも遥かに強力で、暴力的な形で。


(帰りたい! 帰らなきゃ! 森へ! 檻へ! 私の場所に!)


フィリアの思考が、強烈な「帰巣本能」で塗りつぶされていく。


外へ出たいという意志が、焼けるような苦痛となって彼女を苛む。


「ひ、ぐぅぅ……! いや、いやぁっ!

戻りたくない……でも、帰り、たい……ッ!」


彼女は涙と涎を垂れ流し、地面をのたうち回った。

精神が、恐怖と渇望の板挟みで崩壊していく。


「フハハハ……! 見ろ、あの無様な姿を」


ケレンが、愉悦に歪んだ笑みを浮かべて歩み寄る。


「愚かな娘だ。

一度は偶然に『呪縛』が解けたようが……我らの『回廊』の前では無力。

それが『宿命』だ。お前は一生、この森の土を舐めて生きるしかないのだよ」


「あら、可哀想に」


ライラが、豊満な胸元を揺らしながら、倒れたフィリアを見下ろした。


その病的なまでに白い肌が、興奮で微かに紅潮している。


「さあ、おとなしくその石ころを渡しなさい。

そうすれば、その苦しみから解放してあげてもよくてよ?」


二人の長老が、無慈悲にフィリアを取り囲む。


「フィリア! 立ちなさい!」


ポーチの中でフラグメントが叫ぶ。


だが、フィリアは完全に戦意を喪失していた。

彼女の緑色の瞳からは、知性の光が消えかけている。


「(分析)……物理的対抗手段、なし。

フィリア、行動不能。

敵戦力、健在。

……これが、本当の『チェックメイト』」


フラグメントの演算が、冷徹に「終了」を告げようとした。


だが。


彼の核(コア)の奥底で、未知のプログラムが、チリ、と熱を帯びた。


それは、彼自身も存在を知らなかった、緊急事態用の隠しコード。


 ――仲間(パートナー)の危機。

 ――精神の崩壊。

 ――宿命による拘束。


全ての条件(フラグ)が満たされた時、その「選択肢」は開示された。


「(……検索。該当スキル『印(コード・リンク)』。

機能:魂の接続、能力の共有、そして……『宿命の肩代わり』?)」


フラグメントは、その非合理な機能説明に戦慄した。


だが、今はそれしか道がない。


彼はポーチから這い出すと、震えるフィリアの手の甲に、小さな黒曜石の手を重ねた。


「フィリア! 私の『声(データ)』を聞きなさい!」


「あ……ぅ……?」


「提案します!

あなたとの『約束(情報共有)』を、今ここで、魂の『契約』へと昇華させます!


『印』の情報を、今からあなたに送信します!」


フラグメントの目が、琥珀色の光を放った。


言葉ではなく、純粋な「情報」の奔流が、フィリアの壊れかけた精神へと直接流れ込んでいく。


 ――契約:私とあなたを繋ぐ。

 ――代償:あなたの『寿命』。

 ――対価:永遠の『知識』と、私の『視界』の共有。

 ――そして、今のあなたの『苦痛(呪縛)』を、私が引き受ける。


「あ、が……ッ!」


フィリアの理性が、その情報の重さに悲鳴を上げた。


寿命を削る?


そんな恐ろしい契約、受け入れられるはずがない。


だが。


その恐怖の向こう側で、悪魔的なまでに甘美な「対価」が輝いていた。


(世界の、全てを……知ることができる?)

(この苦しみから……解放される?)


彼女の魂の根源にある『知的好奇心』が、恐怖を凌駕した。


長老ケレンが、彼女の髪を掴もうと手を伸ばす。


もう、迷っている時間はない。


「……契約、する……ッ!!」


フィリアが叫んだ瞬間。


二人の手が触れ合っている場所から、眩い琥珀色の光が爆発した。

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