第8話 熱暴走と、壊れた踊り子

世界が、緑色の流線となって後方へ飛び去っていく。


フィリアの脚力は、生物としての限界領域(レッドゾーン)を突破していた。


エルフという種族が持つ敏捷性の極致。

それは風になることではない。風すらも置き去りにし、空気の壁を物理的に突き破る「音速の疾走」だ。


彼女の腕の中で、フラグメントは激しく上下に揺さぶられながら、視界に流れるノイズ混じりの景色を必死に解析していた。


「(警告)後方六〇〇、魔獣反応多数! 接近速度、時速八〇キロ!」


背後から迫るのは、地獄の釜の蓋が開いたかのような轟音。


『秘蔵酒』の支配から解き放たれ、フラグメントという「極上の生肉」の匂いに狂った魔獣たちが、木々をなぎ倒し、大地を削り取りながら、津波のように押し寄せているのだ。


「はぁっ、はぁっ、はぁっ……!!」


フィリアの呼吸は、既に過呼吸の域に達している。

視線が泳ぎ、判断力が低下しているのがわかる。

この速度で木に衝突すれば、即死だ。


「(命令)フィリア、思考を放棄しなさい! 私の指示通りに足を動かすだけでいい!」

フラグメントは、合成音声のボリュームを最大にして叫んだ。


「前方一五〇、倒木あり! 右へ三〇度修正、跳躍!」


「んっ!」


フィリアが反射的に地面を蹴る。

彼女のブーツが、巨大な倒木を紙一重で飛び越える。


「着地と同時に左へ鋭角ターン! 蔦(ツタ)のトラップが張られています!」


「くぅっ……!」


彼女は空中で体を捻り、着地と同時に地面をスライドして左へ滑り込む。


その直後、彼女が通過するはずだった空間を、鋭利な蔦が鞭のように切り裂いた。


「(演算)……よし、このペースです!

私の演算(ナビ)とあなたの機動力(エンジン)があれば、理論上、この森に抜けられない道はない!」


フラグメントは、一万年前の地形データと、現在のセンサー情報をリアルタイムで合成し、0.1秒先の未来を予測し続けていた。


彼は今、ただの荷物ではない。

この暴走機関車の「制御システム(頭脳)」として、完璧な指揮を執っている。


だが、脅威は地形だけではない。


「(警告)上方! 『大樹の蛇』が降ってきます! 回避不能!」 


頭上の枝葉が割れ、巨大な蛇が顎を開いて落下してきた。


フィリアの足は止まれない。迎撃する余裕もない。


魔法の使えないフラグメントに、防御手段はない。


ならば、どうする?

――計算だ。物理法則を味方につけろ。


「(命令)フィリア、減速せず『前方』へスライディング!

蛇の顎の下を潜り抜けなさい!」


「えっ!? 正気!?」


「信じろ!!」


フィリアは悲鳴を上げながらも、フラグメントの言葉に従い、泥にまみれて体を投げ出した。


頭上から迫る毒牙。

死の感触が、髪の毛を掠める。


ズドォォォン!!


巨大な蛇の顎が地面に突き刺さったのは、フィリアの踵(かかと)からわずか数センチ後方だった。


慣性の法則に従い、フィリアの体は蛇の腹の下を摩擦熱が出るほどの勢いで滑り抜ける。


「(状況)クリア! 再加速! 止まるな!」


「心臓に悪いわよ、バカ石ころぉぉっ!!」


フィリアは涙目で叫びながら、再び大地を蹴った。


「ぐっ……!」


危機は去ったが、フラグメントの内部でエラーログが赤く点滅した。


継続的な魔力の放出(ルアー効果)が、限界を超えつつある。


内部温度が急上昇し、思考回路が焼き切れそうになる。


――熱い。焼ける。

――だが、止まるわけにはいかない。


「(状況)後方の魔獣、依然として追跡中!

私の匂いが強すぎます。

このままではジリ貧です!」


フラグメントは、自らの核にアクセスした。


先ほどの「魔力全開放」は、一万年眠っていた古代の『魔力炉(マナ・ドライブ)』の制御棒を、強引に引き抜くような暴挙だった。


このままでは熱暴走(メルトダウン)する。


だが、魔力を絞れば、今度は「餌」を見失った魔獣たちが、手近なフィリアを食い殺すだろう。


「(決断)……ギリギリの調整(チキンレース)を実行する!」 


フラグメントは、放出する魔力の量を、100から0にするのではなく、極限まで薄く、広く拡散させるプログラムを組んだ。


「ここにはもういない」と錯覚させる程度に、微細な粒子として森全体に魔力を撒き散らす。


「(実行)魔力拡散(チャフ)散布……ッ!!」


バヂヂヂヂッ!!


激痛などという生ぬるいものではない。

自らの魂をミキサーにかけて撒き散らすような、自己崩壊の感覚。


だが、効果は劇的だった。


濃密な「餌の匂い」が霧散し、森全体に薄く広がったことで、背後の魔獣たちが方向感覚を失い、同士討ちや探索のために足を止めた気配がした。


「今です! フィリア!

前方、巨大岩の亀裂へ滑り込みなさい! そこなら匂いを遮断できます!」


「あぁぁぁぁっ!!」


フィリアは最後の力を振り絞り、苔むした巨岩の隙間へとヘッドスライディングで飛び込んだ。


二人の体が闇に飲み込まれる。


直後。


ズドォォォン!!


数秒前まで彼女たちがいた場所を、巨大な黒狼の爪が粉砕し、通り過ぎていった。


岩陰に、静寂が戻る。


いや、フィリアの荒い息遣いと、フラグメントの体から発せられる「ジジッ、ジジッ」という強制冷却音だけが、暗闇に響いていた。

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