第5章 共感98の訓練日誌
筋肉痛って、こんなに世界を敵に回した気分になるんだっけ。
――布団代わりの薄い毛布の中でうめきながら、俺は異世界二日目の朝を迎えた。
◇ ◇ ◇
「……いててて」
ギルドの簡素な宿泊部屋。
昨夜の興奮が冷めたあと、ちゃんとしたベッドに倒れ込んだまではよかった。問題は、そのあとだ。
石畳を全力で走り回り、人を引っ張り、転びかけた子どもを支え――普段デスクワークしかしてこなかった体には、完全にオーバーワークだったらしい。
全身が重い。
特にふくらはぎと太ももが、誰の許可もなく悲鳴を上げている。
「これ、明日も続くのかな……」
そんな弱音を布団の中でこぼしたところで、ドアをノックする音がした。
「篠原さん。起きていますか?」
聞き慣れた声に、条件反射で上体を起こす。
――と同時に、全身の筋肉が抗議の声を上げた。
「いっっ……!」
「今の悲鳴は、“起きている”ということでいいんですね」
ドアの向こうから、若干呆れたようなリアナの声がする。
「す、すみません。ちょっと筋肉痛が……」
「昨日、無茶しましたからね。ですが、容赦はしません」
「ですよね……」
観念してドアを開けると、リアナはきっちり制服のような装いで立っていた。
ギルドの紋章が入った軽装の鎧に、動きやすそうなブーツ。炎の魔術師というより、優等生の隊長という印象だ。
「訓練場に行きますよ。共感だけで魔物を殴るわけにはいきませんから」
「そんな新スキル、あったらほしいですけどね」
くだらないことを言いつつも、ついていくしかない。
これからここで生きていくと決めた以上、最低限の自己防衛くらいは覚えないと。
◇ ◇ ◇
ギルドの裏手には、簡易的な訓練場があった。
木製の人型の標的や、藁の束を並べた簡易の的。
すでに数人の冒険者たちが、朝の素振りや魔法の練習をしている。
「まずは、木剣からですね」
リアナが倉庫から持ってきた木剣を一本、俺に渡してくる。
ずしりとした重みが、非日常をさらに現実に変えた。
「剣術を本格的に教えるつもりはありません。あなたは前衛ではないですから。ただ、敵の攻撃を最低限いなすくらいは出来てほしいんです」
「了解です。……って言っても、剣なんてゲームでしか触ったことないんですけど」
「ゲームより簡単ですよ。こちらは、“生き残ること”だけ考えればいいので」
さらっと怖いことを言う。
リアナは自分の木剣を構え、腰の位置と足の向きを示してくれた。
「はい、左足を半歩前。腰を落として。腕じゃなくて、体全体で振ります」
「こ、こうですか」
「腕に力が入りすぎです。肩の力を抜いて――」
言われるがままに構えてみるが、どうしてもぎこちない。
会社でのプレゼンより緊張している自分が、ちょっと情けない。
「じゃあ、振ってみてください。標的に向かって」
「えいやっ!」
勢いだけで振り下ろした木剣は、見事に標的を外し、そのまま地面に突き刺さった。
手のひらにびりっと衝撃が走り、思わず顔をしかめる。
「篠原さん。……自分のステータス見てみました?」
リアナが苦笑いを隠しながら尋ねてくる。
半透明のステータス画面を出してみると、そこには相変わらず平凡な数字が並んでいた。
〈体力:45〉
〈筋力:42〉
〈敏捷:43〉
「……見事に平均以下ですね」
「ええ、見事です。ここまで揃っていると、逆に清々しいですね」
「慰めになってないですよ、それ」
でも、どこか可笑しくて、笑ってしまう。
リアナの〈共感〉の数字が、少しだけ上がった。
「いいんですよ。筋力は、時間をかけて鍛えればそれなりにはなります」
リアナは、自分の剣を軽く振ってみせた。
しなやかな動きに、鍛錬の積み重ねがにじむ。
「あなたにとって大事なのは、“自分の弱さを知っておくこと”です。剣で勝てないなら、距離を取る。魔法が使えないなら、仲間の位置を見て、誰が危ないか判断する。――共感値98のあなたなら、それは得意なはず」
「……そう言われると、やれる気がしてきますね」
「実際、さっきもやっていたじゃないですか」
避難誘導。
恐怖の数字を見ながら、誰に声を掛けるべきか、どの言葉が効きそうかを選んだ感覚が蘇る。
たしかに、それは俺にとって自然な動きだった。
意識しなくても、人の顔色を読んできた経験が、勝手に働いていた気がする。
「よし。では、剣の基礎は今日はほどほどにして――」
リアナが訓練場を見回す。
その視線の先には、何人かの新人冒険者候補たちがいた。
「共感値98の実験台になってもらいましょうか」
「実験台って言いました?」
◇ ◇ ◇
訓練場の隅で、三人の若者が、ぎこちない構えをしていた。
まだ十代後半くらいだろうか。
それぞれ頭上に数字が浮かんでいる。
一人目:
〈勇気:60〉〈恐怖:40〉〈共感:18〉
二人目:
〈勇気:35〉〈恐怖:65〉〈共感:22〉
三人目:
〈勇気:45〉〈恐怖:50〉〈怒り:30〉
「ギルドに入るかどうか迷っている子たちです」
リアナが小声で説明してくれる。
「戦う素質はなくはないですが、恐怖のコントロールが上手くできていません」
三人はそれぞれ、標的に向かって木剣を振っては、すぐにへたり込んでいる。
特に二人目の少年は、汗だくになりながらも足がすくんでいるようだった。
「篠原さん。彼らの“今の気持ち”、なんとなく分かりますか?」
問われるまでもなく、胸の奥にざわざわとした感覚が広がる。
緊張、不安、焦り。
「うまくやらなきゃ」「失敗したら笑われる」といった焦燥感が、渦を巻いている。
「あの真ん中の子は、“怖いのをバカにされるのが怖い”って感じですね」
気づけば、そう口にしていた。
「自分が怖がりだって、自分が一番分かってるのに、それを見せたら終わりだって思ってる。だから、余計に固まっちゃってる」
リアナが目を丸くした。
「……詳しいですね」
「共感98ですから」
冗談半分に言うと、リアナの口元が緩んだ。
「では、彼に声を掛けてみてください。具体的にどうすればいいかは、任せます」
「任せますって、そんなアバウトな」
「この世界では、そういう役割も必要なんです。あなたの“訓練”でもありますよ」
逃げ道はないらしい。
俺は深呼吸をして、二人目の少年に近づいた。
「……大丈夫ですか?」
声をかけると、少年はビクッと肩を震わせた。
頭上の〈恐怖〉の数字が、さらに1だけ跳ね上がる。
「ご、ごめんなさい! 俺、ほんとに向いてないかも……!」
「謝らなくていいですよ」
俺は慌てて首を振った。
「怖いの、当たり前じゃないですか。命かかってるんですから」
「で、でも……他の人は、あんなに平気そうで」
「そう見えるだけですよ」
訓練場の別の場所で、ヘルマンが新人たちに大声で指導している。
彼の頭上の〈恐怖〉は、たしかにほとんど動いていない。
でも、それを基準にしてしまうのは、あまりにも酷だ。
「実は俺も、めちゃくちゃ怖かったんです。昨日の魔物」
少年の視線が、少しだけこちらに向く。
「でも、怖いって口に出したら、少しだけ楽になりました。“怖いけど、それでもどうするか”を考えられるくらいには」
話しながら、自分でも不思議な感覚があった。
これは、俺自身が必要としていた言葉でもある。
「……怖いです」
ぽつりと、少年が呟いた。
「素振りしてるだけなのに、もし本物が来たらって想像しちゃって。足がすくんで」
「ですよね」
肯定すると、彼の表情がわずかに緩んだ。
頭上の数字が、静かに変化する。
〈恐怖:65 → 58〉
〈共感:22 → 28〉
「怖いって認めると、不思議と少しだけ動けるようになるんですよ。……俺も昨日、そうでしたから」
俺は木剣を拾い、軽く構えてみせた。
標的に向かって振り下ろす――今度は、かろうじて当たる。
標的はびくともしないけれど、当たったという事実が、わずかな自信になった。
「ほら。俺でもこれくらいしか出来ないんです。だから、あなたが一歩踏み出せたら、それだけですごいことですよ」
少年が、小さく笑った。
震える手で木剣を握り直し、標的に向き合う。
周りの視線が気になっているのが、ひしひしと伝わってくる。
それでも彼は、足を前に出した。
「――っ!」
ぎこちない一振り。
標的の端をかすめただけかもしれない。
でも、その瞬間、彼の〈勇気〉の数字が確かに上がった。
〈勇気:35 → 42〉
「すごいですよ」
本心から言うと、彼は照れ臭そうに笑った。
「ありがとうございます……!」
◇ ◇ ◇
午前の訓練が終わる頃には、俺の筋肉痛はさらに悪化していた。
が、不思議と気分は悪くなかった。
「あれだけ動ければ上等ですよ」
リアナが水筒を差し出してくれる。
「新人たちの恐怖の値も、だいぶ落ち着きましたし」
「それならよかったです」
水を飲みながら訓練場を見渡すと、さっきの少年たちが互いに笑い合っているのが見えた。
頭上の数字も、極端に振れることなく安定している。
「――面白いですね」
背後から、穏やかな声がした。
振り向くと、白い法衣をまとった女性が立っていた。
年齢は二十代後半くらいだろうか。柔らかな雰囲気をまといながらも、どこか芯の強そうな瞳をしている。
「あなたが、噂の“共感98”さんですね?」
「噂、もう広まってるんですか」
頭を抱えると、女性はくすっと笑った。
「私はセレス。このギルドに所属している癒し手――まあ、神官のようなものだと思ってください」
「セレスさんは、感情ステータスの専門家でもあります」
リアナが補足する。
「世界全体の感情の流れを視ることができる、貴重な人です」
「世界全体……?」
スケールの大きさに、思わず言葉を失う。
セレスは静かに頷いた。
「最近、この国だけでなく、各地で“感情の歪み”が増えています。恐怖や憎悪が過剰に高まり、それが魔物として具現化してしまう現象――昨日、あなたが見たようなものですね」
黒い塊。
あれは、ただのモンスターではなく、人々の感情が形を持ったものだということか。
「私やリアナたちは、それを力で鎮めることはできます。でも……」
セレスは、訓練場の新人たちに視線を向けた。
「本来なら、感情そのものの流れを整えなければ、根本的な解決にはなりません。人々の心が疲れ切っていけば、いくら魔物を倒しても、また別の場所に絶望が生まれるだけですから」
それは、俺のいた世界の光景にも重なった。
会社で、誰かが鬱になって休んでも、すぐに代わりの人が入って、同じ働き方をさせられる。
根本的な仕組みは何も変わらないまま、消耗品だけが取り替えられていく。
「だからこそ、あなたのような人材を待っていました」
セレスが、真っ直ぐに俺を見る。
「共感値98。人の感情を読み取り、言葉で揺らせる人。――この世界の“感情の流れ”に、直接触れられる可能性がある人です」
「そんな大層な……」
本能的に否定しかけたが、その言葉をリアナが遮った。
「篠原さん。ここから先は、“選択”です」
彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。
「ギルドの雑務や避難誘導をしながら、ここで静かに暮らしていくことも出来る。危険な前線からは距離を置いて、自分の身を守ることを優先する生き方も、立派な選択です」
それもひとつの答えだ。
元の世界で、俺がもし会社を辞めて、もっと楽な仕事を選んでいたなら――そういう未来もきっとあった。
「でももし、あなたが“自分の共感で救えるものを見たい”と思うなら」
リアナの瞳が、少しだけ熱を帯びる。
「危険な依頼にも、私たちと一緒に来てもらうことになる。それは、前の世界であなたをすり減らした働き方とは、少し違うかもしれません」
「違う……?」
「誰かの都合のために、自分を削るんじゃない。自分で選んで、自分で決めて、それでも“やりたい”と思える仕事です」
喉が、からからに乾く。
昨日、老人が言っていた言葉が、遅れて胸の奥で響いた。
――それを決めるのは、わしでも会社でもない。お主自身じゃよ。
「どうしますか、篠原悠斗」
セレスも、静かな目でこちらを見る。
「あなたの共感を、“誰のために”使いたいですか?」
ギルドの訓練場。
木剣のぶつかる音、仲間たちの笑い声。
この場所は、まだ出来たばかりの俺の「居場所」だ。
ここで静かに暮らす未来も、たしかに悪くない。
もう二度と、あんな会議室には戻りたくないから。
理不尽に晒されるのは、正直こりごりだ。
それでも――昨日、泣きそうな顔で俺の袖を掴んだ少女の手の感触を、忘れられなかった。
リアナが魔物に向かっていった背中の震えを、共感98の心は見逃してくれなかった。
「……見たいです」
気づけば、声が出ていた。
「俺の共感で、誰かが楽になったり、守られたりするところを。怖いですけど、それでも――見てみたい」
リアナが、ふっと笑った。
セレスも、安心したように目を細める。
「分かりました。それが、あなたの選択ですね」
「じゃあ、正式に決まりですね」
リアナは、右手を差し出した。
「あなたは〈暁の環〉の“感情ナビゲーター”です」
「なんか、恥ずかしい肩書きですね」
「慣れますよ。そのうち」
くだらないやり取りの裏で、胸の奥が静かに熱くなる。
ステータス画面をちらりと見ると、〈勇気〉と〈喜び〉の数字が、また少しだけ上がっていた。
〈勇気:58 → 62〉
〈喜び:35 → 43〉
数字なんて、ただの記号かもしれない。
それでも、俺にはそれが、この世界での「手応え」に思えた。
最弱のままでもいい。
共感98という、めんどくさい特性を抱えたままでもいい。
――もし、そのわがままが誰かの背中を押せるなら。
今度こそ、この共感を、自分のためにも使ってみたい。
そう思えたとき、異世界での二日目が、ようやく本当の意味で始まった気がした。
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