不図羅駅

最終の電車が出たのは、もうずいぶん前のことのように感じていた。


深夜、日付が変わる直前に飛び乗った各駅停車。

仕事が長引き、乗り換えを二度三度と繰り返すうち、意識は朦朧としていた。

気づけば、車内には自分一人。

周囲の景色は暗闇に溶け込み、時折、ぼんやりとした街灯の光が車窓を掠めるだけだった。


アナウンスは流れずに、駅に停車した。

停車した駅の名を見て、思わず二度見した。


不図羅フズラ…」


聞いたことのない駅名だ。

反射的に鞄を掴んで扉から飛び出した。


扉はすぐに閉まり、電車の鈍い走行音が遠ざかっていく。


ホームに降り立った瞬間、異様な静寂に包まれた。

耳鳴りがするほどだ。

駅名表示板の古びた文字は、夜目にもはっきりと不図羅フズラと読めた。

周囲を見渡すが、次の停車駅を示す看板はない。

時刻表の貼り紙もなく、自動販売機すら見当たらない。


ここはどこだ?

乗り過ごしたにしては、妙な場所だ。


不安に駆られ、ポケットからスマートフォンを取り出した。

画面には、お馴染みのアンテナマークの代わりに、小さく圏外の文字が冷たく表示されている。

再起動させてみるが、状況は変わらない。


連絡手段がない。


地図アプリも開けない。


突然の孤立感に、背筋に冷たいものが走る。


駅舎らしき建物の方へ歩いてみる。

木造の簡素な造りで、古びたベンチが一つあるだけ。

灯りはホームの数カ所にある薄暗い蛍光灯だけだ。

駅の外、つまりロータリーらしき場所を覗くと、そこには何もなかった。

アスファルトの道が、すぐ先の深い森のような暗闇に飲み込まれている。

車の往来を示す音や光は皆無。

聞こえる音は、自分の足音と鼻息のみ。


「すみませーん、誰かいませんかー?」


大きく声を出すが、虚しく静寂に吸い込まれるだけ。


時計を見ると、午前1時を過ぎていた。

このまま朝を待つしかないのだろうか。


ふと気づいたことがある。

この駅は何かおかしい、この静けさは、眠っている街の静けさではない。

何かが欠落している静けさだ。

いくら静かと言っても、風で草木が揺れる音や、虫の鳴き声が聞こえるはずだ。


ホームに戻り、ベンチに座り込んだ。

寒さが身に沁みる。

見た事のない駅名に、好奇心でつい、反射的に降りてしまったことを、今では深く後悔している。

疲労と、この状況への恐怖で、頭がうまく働かない。


ふと、線路の向こう、暗闇の中に小さな光を見た気がした。

ぼんやりとだが、確かに動いている。

懐中電灯のような直線的な光ではない。

ふらふらと、低い位置で揺れている。


目を凝らす。


光は近づいてくるようだった。

同時に何かが地面を擦るような音が、微かに聞こえ始めた。


恐怖で体がこわばる。

立ち上がって、駅舎の陰に身を隠した。


音は徐々に大きくなる。


ギィ…ギィ…


という引きずるような音。

それに混じって時折、何かを吐き出すような湿った音が聞こえる。


オェ…ウッ…


光も大きくなり、その輪郭が少しずつ見えてきた。


それは、人ではない。


低く猫背のような体勢、腕は不自然なほど長く、地面を引っ掻くようにして、体を押し進めている。

顔は布のような物で覆われていて、確認することができない。


その光は、その人ではない『何か』の胸元あたりから発せられているようだった。


息を殺し、壁にへばりつく。

心臓がうるさいほどに脈を打つ。


『何か』は、ゆっくりとホームを横切り、駅舎の反対側へと消えていった。

引きずる音も、湿った音も、遠ざかっていく。


どれくらい時間が経っただろうか。

数分かもしれないし、数十分かもしれない。

静寂が戻ってきたが、それは安堵の静寂ではなかった。


ここはいけない。


この駅に留まってはいけない。


あの『何か』から逃げなければ。


そんな静寂に感じた。


ベンチに置いていた鞄を手に取り、出口とは逆の、線路が伸びる方向へと歩き出した。

線路を歩きたくないが、駅の外の暗闇の森に入るよりはマシだ。


それに、もしこれが幻覚や夢ではないのなら、線路こそが現実への唯一の道標。

幻覚や夢を見ていると、自分自身に言い聞かせて線路を歩く。


線路脇の砂利を踏みしめる度に、音が響く。

夜空を見上げると、星がやけに近い。

その星の間に、黒い巨大な影のようなものが、低い空をゆっくりと覆っているような気がした。


しばらく歩くと、足元に違和感を覚えた。

砂利ではなく、土がむき出しになっている。

線路そのものが、錆びつき、枕木が朽ちて、森の蔓や草に覆われ始めている。


まるで、使われなくなった線路のようだ。


この先に、もう駅はないのだろうか。


立ち尽くす。


引き返すか? 引き返せば不図羅駅がある。

あの『何か』がいた場所へ。


その時、遠くから汽笛のような、いや、もっと電子的な、甲高い音が響いてきた。


それは間違いなく、電車の警笛だ。


希望に胸が高鳴る。


助る!


慌てて振り返ると音は、自分が歩いてきた方向、つまり『不図羅駅』の方向から聞こえてくる。


駅へ向かって駆け出す。

線路はだんだんと元の姿を取り戻し、砂利の感触が足に心地よい。


駅が見えた。


ホームの蛍光灯の光が、闇の中で温かく見える。


駅に着くと目の前には、自分が乗ってきた電車とは違う、レトロな車両が停車していた。

車体は漆黒に近く、窓は全て真っ暗。

先頭車両のヘッドライトだけが、ギラギラと輝いている。


そして、扉が開いていた。


「助かった…」


安堵し、乗り込もうとした時、車両の向こう側、暗闇の中に人影のようなものが立っているのに気づいた。


フードを深く被り、こちらを見ている。

男か女かもわからない。

ただ、その手には、まるで駅員が持つような、古い信号灯が握られていた。

信号灯は、カチリ、と音を立てて赤色に切り替わった。


そして、フードの下から湿っぽく、か細い低い声が微かに聞こえた。


「ノ…ノルナ」


確かにそう聞こえた。

車両の向こう側の人影を凝視すると、少し猫背で、腕が長いような気がした。

理性が警鐘を鳴らす。

『何か』の仲間かもしれない。

あるいは、この電車そのものが、『何か』と関係あり、自分をここへ連れ込んだ元凶かもしれない。


踵を返し、再び線路を走った。

駅員らしき人影は、特に追いかけてくる様子はない。ただ、静かに、赤く光る信号灯を掲げているだけだった。


どれだけ走っただろうか。

足は棒のようになり、呼吸は限界に達していた。


力尽きて線路脇に倒れ込んだ瞬間、スマホの画面が一瞬、強く光った。


アンテナマークが、一瞬だけ、満タンになった。

そしてすぐに「圏外」に戻る。


だが、その一瞬の間に、一件のメールが受信トレイに滑り込んでいた。


差出人不明。件名なし。本文には、ただ一文。


[この駅は、あなたが不図羅(ふと)考えた場所にあります。]


メールの意味を考える間もなく、遠くから、またあの引きずるような音が聞こえ始めた。今度は複数の音が、砂利の上を擦りながら、確実にこちらへ近づいてきている。


顔を上げると、夜の闇はさらに濃くなっていた。

頭上の黒い影は、星を完全に覆い尽し、ただ冷たい風が吹き抜けるだけ。


この線路を、どこまでも走るしかないのだろうか。


朝日は来るのだろうか。


この線路の果てには、何があるのだろうか。


「不図羅…」


駅の名を、誰に聞かせるでもなく、小さく呟いた。

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