忌ノ里の祟り
アスファルトが熱を逃し始めた夕暮れ時。
愛車であるロードバイクをこぎながら、人里離れた山あいの村にたどり着いた。
日本一周の旅を始めて半年、今日は、この名も知らぬ小さな村で一晩の休息をとるつもりだった。
村の入り口を示す木製の看板には、達筆な文字で『忌ノ里』とだけ記されていた。
読み方が分からず、妙に不気味な響きに胸騒ぎを覚えたが、日の入りはもう目前だ。
このまま先に進むのは危険すぎるため、村に入り宿を探すことにした。
村は驚くほど静まり返っていた。
村の家は古く、黒ずんだ木造の壁は湿気を吸っているようだった。
時折すれ違う村人の視線は、よそ者である俺を品定めするような、冷たく探るようなものだった。
誰もが表情に乏しく、挨拶を返してくる者もいない。
「すみません、旅の者なんですが、一晩泊めていただける宿を探しています」
そう言って、比較的綺麗に見えた一軒の民家の戸を叩いた。
出てきたのは、白髪をきっちり結い上げた老婆だった。
老婆は俺の顔を一瞥すると、すぐに戸を閉めようとする。
「あの、野宿でも構わないのですが、軒先だけでも…」
「いけません、いけませんよ」
老婆は細い声で、はっきりとした拒絶の意を述べた。
「うちには泊められる部屋なんてありません。それに、この村では旅の者を受け入れる風習はないんです。お早く、お早くお立ちなさい」
他の何軒かに尋ねてみたが、反応は皆同じだった。
「空きはない。」
「よそ者を泊める家はない」
「早く、村を出ていけ」
断る理由は様々だったが、その背後に共通して流れる、敵意のようなものを感じ取った。
すでに太陽は完全に地平線の下に沈み、空は濃い藍色に染まり始めていた。
仕方なく、村外れの廃れた神社の裏手に、テントを張ることにした。
午後十時を回った頃。
疲れ切っていた俺は、深い眠りの中にいた。
突然、遠くから聞こえてきた奇妙な音で目が覚めた。
それは、太鼓とも鈴とも違う、低い、『ドンドンドン』という地を這うような鈍い響きと、抑揚のない合唱のような、ざわめきだった。
テントのチャックを開け、顔だけを出す。
外は闇に包まれているが、月明かりが時折雲間から差し込み、周囲をぼんやりと照らしていた。
音は、村の中心部から、俺のいる神社の方へ向かって近づいてきているようだった。
やがて松明の明かりがいくつか見え始めた。それはまるで、音もなく進む影の集団だ。
俺は息を殺し、テントに身を潜めた。
行列が神社の鳥居をくぐり、俺のテントのすぐそばを通り過ぎていく。
チャックの隙間から外を確認すると、その集団は村人だった。
皆、白い着物のようなものを着て、頭には粗末な縄を巻いている。
顔はロウのように青白く、まるで感情がない。そして、その視線は足元の一点に集中し、周囲には目もくれない。
行列は神社を通り抜け、裏山の斜面を登り始めた。
その先に、かすかな明かりが見える。
どうやら、山の中のどこかへ向かっているらしい。
好奇心と恐怖がせめぎ合い、結局、俺はテントを置いて、村人と距離を置きつつ、後を追うことにした。
行列が立ち止まったのは、神社の裏山を少し登った、大きな古木の根元だった。
周囲には、異様な湿気と、わずかに生臭いような臭いが漂っている。
村人の中心には、苔むした石の囲いがあった。
その中央には、黒く汚れた、井戸があった。
村人たちは囲いの周りを一周し、再びあの抑揚のない合唱を始めた。
今はその声が、呪文のように聞こえる。
やがて、老婆が一人、井戸の前に進み出た。
俺に宿を貸すことを拒否した、最初の老婆だ。
老婆は、懐から取り出した小さな木札を、井戸の縁に投げ入れ、裂けるような声で言った。
「淀んだる地の底の神よ!この里に疫病をもたらすことなかれ!我らは、外の穢れを清め!新しい血を捧げる!その命を地に還し、村の安寧を
老婆の言葉を聞いた瞬間、俺の背筋を悪寒が走った。
『外の穢れを清め』『新しい血を捧げる』『その命を地に還し』『村の安寧を贖う』
それらの言葉は、全てがひとつに繋がった。なぜ、村人はあれほどまでに、よそ者である俺を拒絶したのか。
村の平穏を脅かす祟りや疫病を鎮めるため、村の外から来た者を捕らえ、その命を供物としてこの古い井戸に沈めてきた。
そして今日、村に迷い込んだ『外の穢れ』は、旅人である俺だ。
俺は心臓が凍りつくのを感じた。
これは儀式だ。
そして生贄だ。
村人が俺を拒絶したのは、この儀式のためだったのだ。
俺は動揺を隠せず、ついその場から後ずさろうとした。
しかし、村人たちが俺に気づいた。
数人の男たちが、瞬く間に俺に飛びかかってきた。
彼らの力は異常なほど強く、俺は抵抗する間もなく縄で縛られ、口には布を詰め込まれた。
「新たな贄が、自ら招かれた」
老婆が、満足そうにうなずく。
「地の底の神も、お喜びになろう」
俺は引きずられるように、井戸の縁へと運ばれた。
黒々とした井戸の底から、冷たい、淀んだ空気が立ち上ってくる。
足がすくみ、全身が震えた。
俺の視界の端で、月明かりが井戸の底を照らそうとしている。しかし、その光は決して届かない。暗闇が、口を開けて俺を待っている。
「許せよ、旅の者」
男の一人が、そう言った。
その声には、冷徹な響きの中に、微かな慈悲のようなものが含まれているように聞こえた。しかし、彼らの目は、まるで悪魔に取り憑かれたように、狂気に満ちていた。
そして、俺は井戸の中へ突き落とされた。
ザバン!
水面を叩く音が響き、その後に続くのは、井戸の底からこだましてくるような、もがき苦しむ俺自身の悲鳴だった。
水は氷のように冷たく、身体の自由を奪っていく。
俺は必死にもがいたが、縄で縛られた身体は動かない。
叫び声は長く、深く、まさに地の底から聞こえてくるようだったが、すぐに水音と土に吸い込まれるように消えていった。
静寂
村人たちは、満足そうにうなずき合っている。
彼らの顔には、先ほどの無表情とは違う、歓喜と安堵、そして深い信仰のようなものが浮かんでいた。
「これで、今年も安寧がもたらされる」
「忌ノ里に、祟りは来ない」
彼らの会話が、俺の意識の最後の断片をかすめていく。
俺の全身を、冷たい闇が包み込んだ。
――エピローグ――
数時間後。
朝日がすっかり昇り、周囲を照らしている。
井戸の縁に、一台のロードバイクが倒れていた。
旅の装備は、全てそのまま残されている。
村人たちは、いつもの日常に戻ったかのように、静かに生活を送っている。
誰もが、昨日起こった出来事について語ることはない。
ただ、忌ノ里の深い井戸は、今も底の見えない闇の中で、次の旅人が訪れるのを、静かに待っている。
そして、夜が来るたびに、村人たちの、あのドンドンドンという鈍い太鼓の音が、村の奥深くから、かすかに響き続けているのだ。
永遠に。
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