《A.Q.N》-Aletheia Quantum Nerlith-
熊谷聖
序章・終末の世界と青髪と子羊
第1話 揺らぐ終末と青髪の青年
朝のフィラデルフィア市は、相変わらず色が薄かった。
快晴と言われればそうなのかもしれないが、十五年前の写真で見るような、澄み切った青空ではない。高層ビルのガラス面に滲んだ陽光はどこか白っぽく濁っていて、その下を走る車列と人の流れも薄いフィルム越しに見ているように感じられた。
それでも、街は動いている。
エイドス駆動トラックの低い唸り、空中広告ドローンのくぐもったプロペラ音は静かな世界を忙しなく動いている。
歩道橋の上では、通勤途中の人々が片手にコーヒーを持ち、もう片方の手でホログラムニュースを流し見ている。
『――エデン建国十五周年を記念して、本日スミルナ市で式典が――』
『――旧エデン跡地への無許可接近者を拘束。アノミア境界管理局は「極めて危険な行為」と――』
『――
ニュースのテロップに「
旧エデンの都市群はあの日、空から降ってきた観測不能の隕石と、その後に続いたアノミア境界の暴走で崩壊した。
隕石の落下地点だった旧エデン都市は未知の宇宙物質に汚染され、そして最後は核で焼かれた。
今あるエデン都市はその後、場所を変えて作り直された二つ目の国だ。国は
そのエデンの新しい都市のひとつであるフィラデルフィア市の大通りの一角に、人だかりができていた。
「また出てるよ、境界」
「こないだ封鎖したばっかりじゃなかった?」
「まぁ小さいやつだし。今日は通行止めじゃないってさ」
制服姿の女子高生が、スマホを構えて写真を撮る。
その横では、サラリーマンが眉をひそめながら早足に迂回ルートへと向かっていく。子どもを連れた母親は子どもの肩をぐいっと引き寄せた。
「ほら、見ちゃだめ。近づいたらダメでしょ」
「でもママ、きれいだよ?」
「きれいとかそういう問題じゃないの」
その会話の先に白と黄色のバリケードに囲まれて、歩道の一角がぼんやりと揺れていた。
空気がそこだけ水面みたいに歪んでいる。
輪郭の内側と外側で、景色が微妙にずれて見える。といっても表面は黒く外から見えるのはいわば「時間軸がズレた景色」だ。そしてその空間は縦に柱状に伸び、3階建てのビル相当の高さだった。
アスファルトのラインが途切れ、向こう側のタイルと噛み合っていない。
足を踏み入れれば、別の時間の地面を踏むことになる。
アノミア境界。
バリケードに立つ警告パネルには、赤い文字が踊っている。
『小規模アノミア境界(タイプC)
ラレース未装備者は接近禁止
エイドス耐性検査未実施の市民は半径五メートル以内立入禁止』
そのすぐ横に、緑色のロゴが描かれたバイクが一台、停止していた。
側面に描かれたロゴには、角を持つ獣人が荷物を抱えて笑っているシルエットが力強く表現されている。
ファウヌス急便。アノミア境界を介する配送を請け負う「境界許可」を持つ数少ない配送企業のひとつだ。
そのバイクにまたがって、青い髪の青年がじっと境界を眺めていた。
「……今日も元気に歪んでるな」
ヘルメットのバイザーを上げ青年、セラはぼそりと呟く。
ざわり、と境界の表面が揺れた。
その向こう側で、人が行き来しているのが見える。数秒だけ、昔風の服装をした人影がちらりと横切った気がしたが、瞬きしている間に消えていた。
この程度の小規模境界なら、ラレースさえあれば安全に通れる。そうやって境界管理局は言う。
反面、ラレースも持たずエイドス耐性もない市民にとってそこは、ただの見てはいけない穴だ。
「セラー! 朝イチから境界に見惚れてんじゃねぇー!」
背後からやたらと元気な声が飛んできた。
セラは振り返る。通りの向こう、道一本挟んだ先に低い建物が見えた。シャッターの上には、例の獣人ロゴと「ファウヌス急便 フィラデル支局」と書かれた看板がある。その前で、オレンジ色の作業着を着た青年ジロウが両手をぶんぶん振っている。
「おっそーい! 今日は境界ルート多いんだって、ドナさん怒ってたぞー!」
「はいはい、今行く」
セラは一つ息を吐き、バイザーを下ろした。
境界から視線を外してバイクを発進させる。
━━━━━━━━━━━━━━━
ファウヌス急便フィラデル支局の前は、もうすっかり朝の戦場と化していた。
プラスチック製のコンテナと金属ケースが山のように積まれ、スタッフたちが行き来しながらそれぞれのバイクや小型トラックに荷物を振り分けている。ホログラムの配送ボードには、七都市圏の地図が浮かび、無数のルートラインが赤や青で点滅していた。
「おっ、青頭のご登場だ」
セラがバイクを停めてヘルメットを脱ぐと、ジロウが歓声を上げた。青い髪が朝日にきらりと光る。少し長めの前髪が額にかかり、金色の瞳の片方を隠した。
「青頭って呼び方、やめない?」
「じゃあ青い稲妻」
「もっとやめて。何か色々やばい気がする」
「じゃあ境界特化型エリート配達員で」
「それはそれで気持ち悪い」
「なんだよ、褒めてるのにぃ」
ジロウは口を尖らせながらも笑っていた。
セラは肩をすくめ、コンテナの山に目をやる。
「で、今日の境界ルートの物はどれ?」
「お前のはこれとこれとこれ。午前は市内、午後は郊外って感じだな」
ジロウがタブレットを操作しながら、いくつかのコンテナを指し示す。
白い箱には青い十字マークと『第三衛生病院』の文字、灰色のケースには、『アノミア境界管理局フィラデル支局』、赤い警告ラベル付きの長方形ケースには、『ペルガモン軍港前補給所』とそれぞれの配達先が記されていた。
そして最後の一つ、小さめの箱には、『フィラデル郊外補給倉庫C-17』
「ここね、最近問題の場所だよ」
「問題?」
「ほら、こないだの通達。郊外の小規模境界でゆらぎが大きくなってるってやつ」
ジロウは少しだけ声を落とした。
「C-17の近くに境界が出ててさ。管理局的には通行許可レベルなんだけど、なんかどうもおかしいらしい」
「……おかしい、ね」
ゆらぎという言葉に、セラは眉をひそめた。
アノミア境界内部と外部の時間のズレ具合や、エイドス濃度の変動をまとめてそう呼ぶ。数分から数十年、酷いところでは数百年の差が出ることもあると言われている。
そのズレが小さいうちは、人間でもラレースを通じて補正できる。だが一定以上になると境界内の現在と、外の現在が噛み合わなくなる。
そういう場所に長くいると、戻ってきた時には外の世界だけが何十年も進んでいた、という話も聞いたことがあった。
「……まあ、お前の耐性なら平気だろ」
ジロウが軽く肩を叩く。
「エイドス耐性検査、覚えてるだろ? ほら、十六の時にみんなで行ったやつ。俺、ギリギリA判定でさ。境界通過は短時間なら可って。お前その時――」
「S判定だった」
「そうそれ。検査官のおっさんが目ひん剥いてたもんな。こんな数値生まれて初めて見たって」
「よく覚えてるね」
「そりゃあね。俺ら一般人にしてみりゃ、装備無しに境界の中で普通に歩ける身体なんて、ちょっと化け物じみてる」
ジロウは冗談めかして笑ったが、その目には羨望と不安と少しの敬意が混じっていた。エイドス耐性という言葉に素直に喜んでいいのか悩んでいた。
アノミア境界内部に満ちる未知の物質はエイドスと呼ばれている。それが人体にどのような影響を与えるかは、まだ完全には解明されていない。
現在判明しているのはエイドスには「良性」と「悪性」があること、「悪性」に侵食されると化け物になってしまうということ。良性エイドスに触れても何も起きない者もいれば、わずかな悪性エイドスに侵食されて発症する者もいる。
エイドスはこの国の復興と繁栄の源だ。
発電、医療、交通、通信……
旧エデン都市の崩壊、そして核によって焼け野原になった世界の原因は紛れもないエイドス物質だが、同時に都市として再び立ち上がらせたのは、エイドスを利用した技術群だった。
だが同時にエイドスはエイドス由来の構造体である
良性と悪性。
紙一重の境界線上にある物質。
その影響に耐えられるかどうかは、人によって大きく違う。だからこそ境界に入っていい人間は限られていた。
「おい、お喋りはそのくらいにして働け」
力強い声が支局の奥から響いた。
振り向くと、支局長のドナがタブレットを片手に歩いてくるところだった。短く刈った髪に、煙草で少し枯れた声。見た目はボーイッシュだが、元からの美貌は隠しきれていない。目つきは鋭いが、その奥に不器用な心配性が隠れていることをセラとジロウは知っている。
「おはようございます、ドナさん」
「おはようございます支局長。今日もお美しく…」
「おべっかはいい。荷物が逃げる。それとジロウは上司に対するセクハラで減給な」
「えっ」
突然の減給宣言にジロウは鯉のように口を開き、セラは肩を竦める。ドナは二人のやりとりを無視してセラの前に立った。
「セラ。今日のルートは頭に入ってるな?」
「第三衛生病院、境界管理局支部、ペルガモン軍港前補給所、それと郊外のC-17倉庫です」
「そうだ。特に最後のC-17だ」
ドナの声が少しだけ低くなる。
「言ったはずだが、最近あの周辺のアノミア境界が落ち着かない。管理局からも注意喚起が来てる。あいつらは許容範囲内って言ってるが、あいつらの許容範囲内で死人が出た例は何件もある」
「……」
「だから繰り返す。ラレースの調子が少しでもおかしいと思ったら境界を避けろ。ルートを変えてもいい。時間がかかっても構わない」
「でも――」
「でもじゃない」
ドナの目が、セラの金色の瞳をまっすぐ射抜く。
「いいか。エイドスに耐えられる身体だろうが、ラレースがあろうが、アノミア境界は危険って大前提は変わらない。特にお前みたいに境界慣れしすぎてるやつほど、変なところで足を踏み外す」
セラは言葉を失い、少しだけ俯いた。ドナはそれを見て溜息をつき、わざとらしく頭をがしがしと撫でる。
「……ったく。真面目に聞きすぎだ。昔の話もしてやるよ」
「昔?」
「お前がまだガキだった頃だ。
「教科書と……親父から少し」
親父と言った瞬間、胸の奥がきゅっと痛んだ。
血はつながっていない。行くあてのなかったセラは近所のおじさんに拾われて、育てられただけだ。
それでも、セラにとっては唯一の家族だった。
「天から降ってきた隕石、その大きさにもかかわらず何故か観測不能。軌道データなし。気づいた時にはもう上空にいた」
ドナの声が少しだけ低く響く。
「落ちた場所から昼間なのに星が見えるような穴が空いた。そこから、ありとあらゆるものがおかしくなった。時間も、街も、人間も。あたしの知り合いも、あの時何人も境界の向こう側に置き去りにされた」
「……」
「国防軍も、当時はまだアノミア境界をなんだか理解してなかった。ラレースも今ほど精度がよくなかったしな。あたしは物流部隊の一員として、避難民の輸送に駆り出されて……」
そこでドナはふっと言葉を切り、微妙に顔をしかめた。
「……って、こんな昔話してる場合じゃないか。とにかく境界は人を平気で食う。それだけ覚えとけばいい」
「……はい」
「よろしい」
ドナはタブレットを操作し、セラのラレースのシリアル番号を確認した。
「管理局のリモート診断では正常だ。バッテリー残量も十分。ただし、予備バッテリーを二つ持っていけ。それから――」
少しだけ目つきが柔らかくなる。
「戻ってこい、ちゃんと」
「……了解しました」
「よし。行け、ファウヌスの稼ぎ頭」
「最後の一言余計ですって。結局心配してませんよね?」
ジロウが吹き出し、空気が少しだけ和らいだ。
セラはコンテナを一つ持ち上げる。中で微かな振動が伝わり、エイドス封入装置特有のひんやりした気配がした。
エイドスは本来、悪性しかないが良性への加工技術が発達し、人々のあらゆる生活のエネルギーに転換された。良性に制御されたそれは冷蔵庫や医療機器、道路の発光ラインやドローンの動力源として使われている。旧エデン崩壊後の復興財源も、多くはエイドス関連産業から出ていた。
だが、悪性に偏れば疫魔が生まれ境界が肥大化し、人を引きずり込む。同じ物質が光にも牙にもなる。
セラはコンテナをバイクの荷台に積み、ラチェットベルトを締めた。最後にもう一度、ラレースに触れる。
冷たい金属の塊の中で小さく脈打つようなエネルギーの気配、同時にアノミア境界を生き抜くための命綱だ。ラレース、正式名称「時間軸安定化装置」がなければ瞬く間に乱流する時間軸に投げ出され、過去も現在も未来もバラバラにされて存在が消える。アノミア境界とはそんな場所だ。
「……頼むぞ」
誰にともなくそう呟いて、セラはヘルメットをかぶった。エンジン音が、支局の喧騒を少しだけ遮る。ジロウが大袈裟に手を振った。
「いってらっしゃーい! 無事に帰ってこいよー!」
「カップ麺、塩とんこつで」
「だから高いの要求すんなって!」
笑い声を背中で聞きながら、セラはバイクを走らせた。
━━━━━━━━━━━━━━━
午前中の市内ルートはいつものように忙しく、そしていつものように異常に満ちていた。
第三衛生病院のエイドス診断フロアでは、真新しい機器が並んでいた。ガラス越しに見える患者のベッドの横で青白い光が脈打つ。
「ファウヌス急便さん、いつも早くて本当に助かります。あの
荷物を受け取った老年の医師が、しみじみとした声で言った。
「今はこのエイドス診断機のおかげで悪性エイドスの侵食も早期に見つかる。あなたたちみたいな境界配送員がいるからこそ、うちはやっていけるのさ」
「いえ、仕事ですから。でもそう言っていただけると励みになります」
セラは苦笑しながらも、心のどこかが少し暖かくなるのを感じていた。エイドスは確かに人を救っている。良性に制御されたそれはがん細胞を焼き、欠損した組織を補う。
同時に別の場所では、悪性エイドスが人を蝕んでいることも知っていた。
境界管理局フィラデル支局の受付は、そんな温度のある病院とは対照的に無機質な空気に満ちていた。
「配送物、確認しました。ここに署名を」
インターフェース越しに、淡々とした声が返ってくる。ラレース端末の提出を求められ、セラは腰から外して窓口に差し出した。担当者が機械に接続して数秒で診断を終える。
「内部ログ正常。エイドス反応値も許容範囲内です」
「さっき、郊外の境界のゆらぎが大きくなってるって話を聞いたんですが」
セラが何気なく聞くと、担当者は一瞬だけ視線をそらした。
「統計的には、まだ危険域には達していません」
「まだ?」
「……境界に長時間留まらなければ、問題はありません。ラレース装備者であれば」
言葉に、微妙な間があった。
問題はない。
その問題はないの重さを、セラは以前からうすうす感じていた。
アノミア境界関連の機関は、皆制御できていると強調するが、実際には常に危険との綱渡りなのだろう。ペルガモン軍港前の補給所に近づくと、空気の匂いが変わった。
鉄と油と潮の匂いが鼻をつく。遠くでは、巨大なクレーンがエイドスコンテナを吊り上げ、軍艦の甲板へと運び込んでいる。
ゲート前のチェックポイントに近づくと、灰色の装甲車が数台並んでいた。車体にはエデン国防軍のエンブレム。その中の一台の側面にはさらに別の紋章が描かれている。
盾と境界を模した歪んだ輪が組み合わされたマーク、曰くアノミア境界に立ち向かう勇敢さの表れらしい。
「おーい! フィラデルの青いのー!今日もご苦労さーん!」
装甲車の後ろから、黒いスーツ姿の女性がひょいっと顔を出した。ヘルメットを片手にショートボブの髪を揺らしている。その可憐な見た目からは想像もできないほどの戦闘能力を有している。
「ミレイ中尉!」
「はいはーい、その通りぃ!境界装甲課、ミレイ・グラン中尉様だ」
敬礼ポーズを取って見せながら、彼女は笑う。
境界装甲課のスーツは、普通の軍用アーマーとは違う。関節部分や胸部にエイドスラインが走っており、動くたびに淡く光る。ラレースと似た技術で、境界内の物理法則の乱れに対抗するための装甲らしい。
境界配送の仕事を始めてからこういった軍との関わりも増え、特にセラはエイドス耐性の高さからたまにミレイ中尉に軍にスカウトされている。
「今日も境界ですか?」
「んー、ペルガモン沖の小さいやつの巡回とラオディキア方面の様子見。最近あっちも怪しい奴らが彷徨いてるって話だからね」
「怪しい奴らですか。アノミア境界で何かしようとするなんて、命を捨てるようなものですよね。割に合わないですよ」
セラのように正規の許可や依頼を受けてアノミア境界を利用する商売の人は皆一様にエイドス耐性が高いことが条件だ。だがほとんどの人はそうはいかない。しかし都市の発展から見てもエイドス、そしてアノミア境界の利益はそれこそ希少鉱石並に莫大だ。命を顧みずに利益を得ようとする所謂「違法業者」は多い。
「ま、詳しい話はまた今度。はい、お荷物お荷物」
ミレイはコンテナを軽々と受け取る。
「第三衛生病院と管理局支部にも行ったんでしょ? 境界の調子、どうだった?」
「市内の小さい境界は、そこそこ安定してるように見えましたけど……郊外が不安定らしい、って話は聞きました」
「あー、聞いてる。うちにもデータ回ってきてる」
ミレイは眉間に皺を寄せた。
「数値上はギリギリセーフ扱いだけど、時間軸の揺れ方が、ちょっと前と違う。波が細かくてピッチが不規則って言うか……境界の中でラレースが補正しづらいタイプの揺らぎね」
「補正しづらい?」
「うん。ラレースって一つの時間の流れに引っ張る装置でしょ。でも境界のゆらぎが細かくバラバラだと、一つにまとめるのが難しくなる。装甲課のスーツでも最近ちょいちょい酔う隊員が出ててね」
「そんな状況で俺に郊外ルート走らせるんですけど」
「うん。だから言ってんじゃん」
ミレイはにやっと笑い、セラの胸を人差し指で軽く突いた。
「あんた、自分の嫌な予感をちゃんと信じなさい。まだ大丈夫だろって思って粘るのが、一番危ない」
「……リスクあるなら、国防軍が全部やればいいのに」
「人手が足りないのと、うちの装甲車じゃ小回りきかないからねぇ。民間の境界配送がないとエイドス医療もインフラも回らないのよ。あんたらはあんたらで、立派な境界の前線だよ」
そう言って、彼女は親指を立てる。
「だからちゃんと帰ってきなさい。次、飲みに行く約束はまだ果たしてないんだから」
「そんな約束しましたっけ」
「今した。はい有効」
くだらないやりとりに少しだけ緊張がほぐれる。セラは微笑を返し、バイクのエンジンをかけた。
「では、また無事に会えることを祈ってます、中尉」
「死亡フラグみたいな言い方すんな!」
笑い声と装甲車のエンジン音を背中で聞きながら、セラは軍港を後にした。ふと、視線を上げる。遠くの空に、黒い柱の影が見えた。
雲を突き抜け、さらにその上へと伸びていく、透明な巨柱。正確には光学的には見えないはずのものだがそこにあると知っていると、なぜか輪郭がぼんやりと浮かび上がる。
巨大アノミア境界。
エデンを取り囲む七本の柱状異常空間の総称だ。
その内部では、外の世界と数十年単位で時間がずれていると言われている。国防軍の一部隊が入っていったはずなのに、その数日後に外から観測したら、内部ではまだ出発前だった――なんて話も聞いた。
人の言葉で「危険だ」と何度説明されるより、その存在感そのものが、世界の歪みを示していた。セラはぞくりと背筋を震わせ、視線を戻した。今向き合うべきなのは、あの巨大な柱ではない。
もっと、身近な、小さな境界だ。
━━━━━━━━━━━━━━━
午後。
フィラデルフィア市の中心を離れ、工業地区を抜けると景色は徐々に緑を増していった。
道路脇には低い木々と雑草が生い茂っている。遠くにはかつて農地だったのか、広く平らな土地が広がっていた。そこにも小さな白いバリケードが点々と見える。
小規模アノミア境界が管理局のホログラム地図には、それぞれの発生位置と規模がリアルタイムで反映されていた。
セラのバイクのハンドルには、簡易ナビが取り付けられている。そこにも前方に一つ、赤い円が表示されていた。
『前方二百メートル タイプC小規模境界
通行登録:許可
推奨:ラレース起動/速度二〇キロ以下』
セラは小さく息を吐く。
この先のC-17倉庫へ向かう最短ルートは、その小規模境界を横切る道路だ。ぐるりと迂回すれば倍以上の時間がかかる。
ラレースが正常なら、数秒の話。
そう、正常ならば。
「……正常だよな?」
セラは思わず、腰のラレースに触れた。
冷たい金属が指先に触れる。予備バッテリーも持っている。管理局の診断でも問題なしと言われた。
それでも、どこか胸の奥に小さな棘が引っかかっていた。
子どもの頃、境界安全講習で聞かされた話を思い出す。
『ラレースを持たずに境界に入ってはいけません。ラレースが止まったら、すぐに引き返してください。あなたの身体の時間は、世界と同じ速さでは流れなくなります』
教室のホログラムスクリーンに映し出された映像は、今でも鮮明に覚えている。境界の中で足を止めた人間の身体がいきなり老けたり、逆に子どもに戻ったり、影だけが置き去りになったり。
その映像を見た夜、セラは布団の中でしばらく眠れなかった。隣の部屋でTVを見ていた養父の笑い声が、妙に遠く聞こえていた。
『大丈夫だ。お前はちゃんと戻ってこれる』
そう言われた時、自分が境界に行く側の人間になるなど、まだ想像もしていなかった。
「……戻ってこれてるしな、今のところは」
セラは自嘲気味に呟いた。
バイクの速度を落とし、境界の手前で停車する。周囲には誰もいない。鳥の声と遠くの道を走るトラックの音だけが聞こえた。
道路の中央に白と黄色のバリケードが円形に並んでいる。その中で、空気がゆらゆらと揺れていた。街中にあるものより、わずかに大きい。揺らぎも少し粗い。
「……よし」
セラはヘルメットを半分脱ぎ、深呼吸をした。肺に入った空気が、微かに金属のような味をしている。
腰からラレースを外し、手のひらに乗せる。
楕円形の黒いデバイス。表面にいくつかの小さなスリットが入っている。親指でスイッチを押した。
ピッ、と小さな電子音が鳴る。中央のインジケーターが青く光る。次の瞬間、薄い光の輪がセラの身体を包み込んだ。
境界を通るたびに感じる、膜のような感触。
世界と自分の間に薄い透明な壁が張られる感覚。
時間軸の乱れが、ラレースの内側でなだらかに均されていく。ざらついた空気が少しだけなめらかになる。セラは目を閉じ、数秒だけその感覚を味わった。
――大丈夫だ。
インジケーターの点滅は安定している。
内部のエイドス反応も問題ないように見える。
端末をベルトに戻し、ヘルメットを深くかぶり直した。
「さっさと抜ける。躊躇うな」
自分に言い聞かせるように呟き、バイクのエンジンをかける。境界の揺らぎの向こうに、普通の道路が続いている。少し先には目的地の倉庫の屋根も見えた。
アクセルを開き、バイクをゆっくりと進ませる。前輪が揺らぎに触れる。薄い水膜をくぐるような抵抗に上下の感覚がわずかにふわりと揺れる。視界の端で、景色が二重写しになった。
今の道路とひび割れた古い道路が重なり、葉を落とした冬の木々と満開の花をつけた春の木々も重なる。
どこかの時代のトラックと荷馬車の影、過去と未来の時間が混ざり合う。
ラレースの光がセラを中心に安定した球を作る。その内側だけが、今であり続ける。そのはずだった。
妙な違和感が、指先を走った。
ハンドルを握る手に、唐突な空白が生じる。
時間が一瞬だけ、手から滑り落ちたような嫌な感覚が走った。腰のあたりでかすかな振動が止んだ。セラは反射的にラレースに手を伸ばした。
インジケーターは青く光っていない。
「……は?」
喉から間抜けな声が漏れた。親指でスイッチを押す。カチ、と軽い感触だけが返ってくる。青く光るはずの装置が、光らない。
「待て待て待て、嘘だろ、おい」
ラレースは、アノミア境界内で最も壊れてはいけないものだ。過去と今を繋ぐ時間を超えた命綱だ。通常、境界内での誤作動を防ぐために多重保護がかけられているはずだった。
それが今、沈黙している。耳鳴りが急に大きくなった。周囲の揺らぎが、さっきより荒くなっている。木々の影が不自然な速度で伸びたり縮んだりして見えた。
バイクの速度を落としながら、セラは必死に境界の出口を探した。だが、どこが入口でどこが出口なのか、感覚が急に曖昧になる。
ラレースが作っていた膜が剥がれ落ちたのだ。
「……戻る。いったん戻る、戻らないと!」
セラはそう呟き、ハンドルを切ろうとした。その瞬間――
足元で何かがずるりと滑った。アスファルトの感触がすっと消える。タイヤが空を踏んだような手応え。世界がぐらりと傾いた。
空と地面がひっくり返る。林が渦を巻き、道路が縦に伸び、バリケードの黄色がスローモーションの光の帯になって視界を横切る。
「っ――」
声にならない声が喉に貼りついた。胸の奥で、何かがきしむ。時間そのものが、肩を掴んでどこかへ引っ張ろうとする。
ラレースのランプは、最後まで点かなかった。
「待っ────」
境界の揺らぎが、セラとバイクごと、飲み込んだ。
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