第35話 帰郷

戦地から届く報せは、思い描いた希望を打ち砕く。


護泰様が率いる軍は、ほとんど負けを知らぬと謳われた。だが今、城に届く書状や使者の言葉は、その栄光を踏みにじるような現実ばかりであった。


城内の士気は微かに揺らぐ中、私はただ情報を待っているだけではいけないと感じ、千住の情報筋にまで目を向けた。


けれど得られるのは、真田が不利であることを示す断片的な事実ばかりだった。兵の損耗、補給路の不安、敵の勢力拡大──胸の奥に冷たい鉛のような感触が沈み込む。



「姫様……どうか、落ち着いて」


花乃がそっと声をかけてくれる。だが私はじっと城の壁の向こうを見据えていた。

城で待つ私たちの焦燥は、戦の勝敗を変えはしない。しかし、胸の奥で何かが抑えきれずに膨れ上がっていく。


――私は、護泰様をこのまま待っているだけでよいのだろうか。


胸の奥の問いの答えは、ひとつしかなかった。

護泰様が無事に帰って来られるように、私ができることを、自らの手で探さねばならない。


私は決心した。



「千住に行ってくるわ」


「ひ、姫様?」



唐突に思える私の言葉に混乱する花乃。

しかし私の決意は、私の体を突き動かした。



花乃に千住へ向かう支度を頼み、その間私は文をしたためた。おそらく千住にも真田の状況は伝わっているだろうが、私の知り得た情報を全て書いた上で、この状況を打破する手立てはないか、と文に書いた。


書き上がったものを早馬に託し、父に届けるよう伝える。



「姫様、支度が整いました。私も共に参ります。」


共にゆくという花乃の言葉が心強い。


刻一刻と変化する戦況に怯えながらも、護泰様の無事を思うと立ち止まっている場合はない。迷いは一瞬で霧散した。


城門をくぐり、輿に乗る。生暖かい風が吹き、私は思い切り深く息を吸い込んだ。心の奥にある恐怖も、不安も、すべてを抱えながら前へ進む。



約半日を掛けて、千住の城に近づいた。


輿から見えた道の両脇に広がる田畑や民家の姿が、懐かしさを湛えつつも、今は慰めにはならない。胸に迫るのは、守るべき者への思いだけだった。


私の到着を知らせる声が響き、輿が止まる。

城を目の前にし、真田にいた頃この場所を思い郷愁にふけていたあの頃の自分を思い出した。


深くお辞儀する門番の姿を横目に、城内へと進んだ。


城内に足を踏み入れると、久しぶりの景色に一瞬心が揺れた。石畳の冷たさ、廊下の奥に差し込む光の角度、柱に刻まれた年号の跡――すべてが私の記憶と重なり、懐かしさを呼び起こす。


しかし、今はただ、護泰様を救うための手立てを知るためにこの城に来たのだ。感傷に浸る余裕はなかった。


父に会いに長く続く廊下を歩いていると、会いたくてたまらなかった人がいた。


「姫様……お戻りなさいましたか」


「千夜…!」



千夜の姿に、思わず肩の力が抜けそうになる。胸に広がる温かな懐かしさ。

千夜の瞳を見つめると、この身を深く案じてくれていたことが分かった。


しかし、私はすぐに心を引き締め、冷静さを取り戻す。千夜は笑顔を浮かべるが、私の表情から戦況への懸念を察したのか、すぐに口を閉じた。


「千夜、父上は奥御殿にいるのね」


「はい、綾乃様の到着は耳にされたはずです」



迷いはなかった。胸の奥で焦燥が渦巻き、護泰様の命を救う手立てを知るには、父に直に会うしかない。

千夜は私の決意の強さを感じ取ると、奥御殿へと共にしてくれた。


「姫様、お強くなられましたね」


その声の響きは、とても優しかった。




廊下を進む足音は、かつて聞き慣れたものと同じはずなのに、今の私には重く、鼓動のように響いた。父の居室の扉が目の前に迫る。心の奥で、懐かしい記憶と、恐怖とが混ざり合う。深呼吸を一つ、私は覚悟を整え、扉を押し開けた。


「父上、綾乃でございます。」



従者により開けられた襖の向こうに、父上は座していた。その姿はいつも通り冷静で厳格だった。胸が一瞬、高鳴った。


言葉を紡ごうとしたそのとき、父の口が先に開いた。



「久しいな。息災であったか」


「はい。父上こそ、息災であられましたか」



見ての通り、何も変わりない。

父上はそう言い、話の本筋を進めるような視線が送られた。


「文に書いた通り、私は真田を救う手立てが父上にないかを知る為に帰って参りました。」


父は沈黙を少し置き、私をじっと見据えた。冷たく厳しい瞳は、けれどどこかに慈愛を含んでいるようでもあった。胸の奥で、私の決意は一層固くなる。護泰様のため、私はこの城に帰ったのだ。


 


「真田を救う手立てはある」



父の言葉に、私は胸を高鳴らせた。真田を救う手立てが、ここにある――。希望が芽生え、体の奥に光が差し込む。


だが、その光はほんの束の間。

父が次に放った言葉で、私の胸は再び冷たい暗闇に覆われた。


――その言葉は、あまりにも苛酷に、私の決意を試すものだった。

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