第30話 今宵は共に
護泰様が戦地へ赴く前日の夜、私はまるで嵐の前の静けさのような、ごく静かな風が吹いたのを感じた。
花乃が部屋に来て湯を運び、「姫様、どうか早くお休みになってくださいませ」と心配するように言ったけれど、眠れそうにないことは自分でもわかっていた。
「護泰様は、今夜もお忙しいのかしら」
「ええ。家臣の者が申しておりました。戦略の最終確認をしておられると」
「そう。ありがとう、花乃」
湯気がゆらゆらと揺れ、その香りに少し心が緩んだ。けれど、胸に沈む不安は消えなかった。
明日、彼はここを発つ。
憎むべき存在だったはずなのに──今はただ、無事に戻ってきてほしいと願うばかりだった。
湯呑みを手に取っても、中身がほとんど減らない。心ここにあらずの自分に気づき、私は静かに息を吐いた。
そのときだった。
襖の向こうで、足音が止まった。規則正しく鳴り響くその音は、この数日間私がずっと望んでいたものだった。
「綾乃」
低く柔らかい声が聞こえた。
胸が跳ねる。
何度も、夜の静かな時間に聞いてきた声だ。
「護泰様?」
「開けてもよいか」
「は、はい!」
返事をした途端、心臓が早鐘のように打った。
襖が静かに開く。灯火の明かりに照らされた護泰様の顔が現れた。
鎧ではなく、紺の着物。
戦へ向かう前とは思えないほど柔らかな表情。
しかし、その瞳の奥には疲れと……どこか迷いのようなものがうっすら影を落としていた。
「申し訳ない。こんな夜更けに」
「いえ、私は……」
言葉がうまく続かない。
護泰様は私の様子を観察するように一瞬だけ目を細めたあと、ふと微笑んだ。
「綾乃の顔が見たくなった」
前にも一度、そう言われたことがある。
あの時は突然のことで驚いたけれど。
でも、明日貴方は……
「…どうされたのですか?」
「いや。言うつもりだったことがあったのだが」
そう言いかけて、そのまま視線を畳に落とした。
いつも臣下の燈となって確固たる意志で進み続ける人が、迷いを見せている。
邦彦殿と話した後から、どこか思いつめたような瞳をしていた。その理由を尋ねることができずに日々が過ぎていたけれど、今、その理由に触れる気配を感じた。
護泰様はゆっくりと顔を上げる。
光の中で、その瞳がわずかに揺れた。
「……すまぬ。やはり言うまい。今日はただ、そなたの無事な顔が見られればそれで良い」
そう言うと、彼はふと微笑んだ。
穏やかで、優しくて、どこか寂しい笑み。
――そんな笑い方をしないで。
喉がきゅっと締めつけられ、涙が出てしまいそうだった。
「大したことのない用事で赴いてすまないな。夜は冷える。風邪などひかぬようにな」
明日戦地に行くというのに、優しい笑みを残して、あなたはまたすぐに去ってしまう。
「護泰様」
呼び止めた途端、護泰様は振り向く。
「どうした?」
唇が震えた。言わなければと思えば思うほど、声が出てこない。
だけど、今言わなければ後悔する。
私は勇気を絞り出して歩み寄り、彼の衣の袖をそっと指でつまんだ。
護泰様が息を呑む気配が伝わる。
初めて、私の方から触れた。
胸が苦しいほど高鳴って、声が震えた。
「……今宵は、どうか……」
そこまで言って、言葉が続かなくなる。緊張で蚊の鳴くような声しか出なかった。そんな私の声を聞き漏らすまいと、護泰様は顔を近づけた。
「ん……?すまぬ、もう一度言ってくれ」
戸惑う声。
もう、顔が熱くて、目の前がぼやけて彼の顔が見えなかった。
「……今宵は、共に眠りませんか。」
静かな室内に、その言葉が落ちる音がした。
護泰様がわずかに目を見開くのが分かった。
沈黙。
その無音があまりにも長く感じられ、私は顔を上げられなかった。
羞恥と不安で胸が押しつぶされそうになる。
拒まれたらどうしよう。
迷惑に違いない。
戦前の大切な夜に、私はなんて無茶を──。
護泰様の手が、そっと私の肩に触れた。
「綾乃」
深く、優しい声。
「そなたが眠れるまで、俺はそばに居る」
その言葉が胸に落ちた瞬間、膝が抜けそうになった。
安堵と、喜びと、悲しみと……名前のつけられない感情が一度に押し寄せる。
護泰様は彼の衣を掴んだ私の手を取り寝所へ進んだ。いつものように距離を取られるのではと不安がよぎったが、彼は同じ布団に入った。
私に愛護的に布団をかけ、向き直ってから、さらにもう一つ距離を縮めた。
すぐ目の前に彼の鍛えられた胸板があり、その近さが耐えきれないというかのように私の胸は高鳴った。
彼はというと、普段とあまり変わらない落ち着いた様子で、子供にするように私の背を軽く叩いた。
とん、とん、とん。
規則正しい優しい音。
私は思わず目を閉じた。
胸が痛い。
嬉しくて、苦しくて、どうしていいのか分からない。
「護泰様……」
また、声が震える。名前を呼ぶのがこんなにも難しいなんて、知らなかった。
「ん?」
「……怖い。」
ぽろりと涙がこぼれた。止めようとしても止まらない。
彼の手が止まり、次にその手は私の頬に触れる。
「綾乃…」
「ごめんなさい。あなたは戦わねばならないのに。私、こんな……」
涙と一緒に溢れてくるものは、ずっと抑えてきた想いだった。
「あなたが傷つくのが、怖いの。兄を失った日のことを思い出すの。二度と、誰かを失いたくない……」
護泰様は何も言わず、ただ私を強く抱きしめた。
その腕の中は驚くほど安心できて、それがとても切なかった。
「……戻る。必ず戻る」
耳元で低く呟かれたその声は、力強く、優しかった。
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