第24話 友の言葉
邦彦が訪れて二日目の夜。
客間に灯された行灯の淡い光が、静かに揺れている。
邦彦は昔から酒に強く、その相手をできるのは私ぐらいだった。
だが今夜の酒は、なぜか重く、喉を通るたび胸の奥に濁りが溜まっていくようだった。
「いやあ、護泰。お前が当主になってからも、こうして酒を酌み交わせるのは嬉しいものだな」
「……そうだな」
杯を口に運びながら、私は彼の明るい声音とは裏腹の、どこか真剣な眼差しを感じていた。
邦彦は昔から、何か言うべきことがあるときにだけ、妙に穏やかな声を出す。
その癖を、私は子どもの頃から知っている。
やがて、彼が口を開いた。
「護泰。お前に言わねばならぬことがある。」
その声にはいつもの軽さがない。
胸の奥がきゅ、と小さく縮まった。
「今回の婚姻は、真田と千住の和平を決定づけた。誰がどう見ても、両家にとって最善の結果だっただろう」
「ああ」
杯を置くと、邦彦はじっと私の目を見た。
「だがな、護泰。この先の結びつきは……本当に必要なのか?」
その言葉が落ちた瞬間、空気が重く沈んだ。
私は返事をする前に、自分の心臓が高鳴るのをはっきりと感じた。
邦彦は続ける。
「姫は若い。気立ても良く、美しい。お前が離縁したところで、縁談などいくらでも舞い込むだろう」
ゆっくりと胸に沈んでいく言葉。
邦彦は、優しい目をして綾乃のことを言う。
「綾乃姫のためにも、いつかは解放してやるべきなのではないか?」
心臓が、大きく、痛むように脈打った。
離縁――
綾乃を解放する。
千住へ戻す、あるいは別の縁談へ送り出す。
それが彼女にとって幸せなのかもしれない。
ここで過ごす彼女は、まだ完全に心を開いているわけではない。
兄を失った悲しみは消えず、真田に嫁いだことで失ったものも多い。
私はその全てを知っていた。
だけど。
綾乃が笑ったとき――
あの微かな笑みがほんの僅かな間私に向けられたとき――
胸に広がった温かさを思い出すたび、息が詰まりそうになる。
失いたくない。
その本当の願いを、私は誰にも言えずにいた。
何より、本人にも。
邦彦の言葉がさらに落ちてくる。
「護泰。お前は情に厚い。だからこそ、姫の未来を思ってやれる男だと思っている。……だがな」
一拍置かれた後、言葉が鋭くなった。
「お前が姫を手放せない理由があるのなら、俺は、聞く」
胸に突き刺さるような静けさ。
邦彦の目が、鋭く私を射抜く。
だが、私は何も言えない。
この身勝手な思いを形にすることは憚られた。
綾乃に、これ以上の重荷を背負わせたくなかった。
沈黙が落ちる。
行灯の火が揺れ、影が大きくゆらめいた。
やがて邦彦は小さく息を吐き、杯を置いた。
「……今はいい。だが、覚えておけ。姫の未来を決めるのは、お前だ。」
胸の奥は嵐のように荒れている。
邦彦の言葉は責めではなかった。むしろ、私と綾乃の未来を真剣に考えてくれてのものだ。
それが分かるからこそ、胸が痛んだ。
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