第19話 本心



背中の痛みが和らぎ、少し動くのも苦ではなくなった頃、私は秀忠のもとを訪ねることにした。

廊下を歩く途中、花乃が気を揉むように私の後ろをついてくる。


「姫様、本当にもう痛みはございませんか? あまりご無理をなさらず……」


「大丈夫よ。少し、秀忠と話したいだけ。」


花乃は唇を噛み、うつむいた。


「……秀忠様も、ずっと気に病んでおられるようで……目に見えて食が細くなってしまって……」


その言葉に、胸が締め付けられた。

あの日、私を守ろうとしてくれた彼が、まだ自分を責めているのだとしたら――。




武家屋敷の前に着くと、中から声がした。

少し疲れた声音。


「殿からのお咎めはございませんでしたが……しかし、私は……」


誰かと話しているのだろう。沈んだ調子が、聞く者の胸まで重くする。

私はそっと襖を叩いた。


「綾乃です。少し、よろしいでしょうか。」


襖が勢いよく開いた。秀忠が驚いたように目を見開き、すぐに深く頭を下げた。


「姫様……! この度は……この秀忠の不手際により――」


「秀忠殿。」


私はやわらかく言葉を遮った。



「あなたのおかげで、私は無事でした。花乃も。本当に、ありがとうございます。」


秀忠は息を呑んだように顔を上げ、視線が揺れた。


「しかし……姫様は深い傷を……!」


「これくらいの傷、すぐに治ります」


微笑むと、秀忠の肩がふっと震え、堪えていたものがほどけたかのように表情が緩んだ。



「姫様……」


「どうか、ご自分を責めないでください。あなたがいてくださって、本当によかった」


その瞬間、影から気配がした。

気配というより、胸の奥が自然とそちらを向くような、不思議な感覚。


秀忠の背中の向こうに護泰が立っていた。その眼差しは微かに揺れているように見えた。


ただ静かに、私たちを見ていた。



私の視線に気付いた秀忠は振り返る。


「……殿」


秀忠が慌てて姿勢を正すと、護泰は軽く頷いた。


「その調子なら、安心だ」


誰に言ったのかはわからない。秀忠にも、私にも聞こえる声だった。


そのまま彼は私のほうを見た。

それは、とても優しい目だった。







その夜も、彼は手当てに訪れた。


いつも通りの手付き。

けれど、いつもより少しだけ距離が近い気がした。


「秀忠に会いに行ったのか」


ぽつりと言った。

背中に触れる指が、一瞬止まる。


「はい。あの方が、私のことで気を病んでいたようなので」


「そうか」


それ以上、彼は何も言わなかった。

ただ、包帯を巻く手はいつもより丁寧で、ゆっくりで、まるで触れるたびに何かを確かめているようだった。


沈黙が落ちた後、手当てを終えたその手が止まり、わずかに息を吸う気配がした。



「秀忠には信頼を置いている。あいつの心の重荷を下そうと、気遣ってくれたことが嬉しかった」



背中越しなのに、彼の真っ直ぐな気持ちが伝わってきた。



「……少しだけ、羨ましくなった。」



その言葉が私の胸に落ちた瞬間、息が詰まった。


――何故?


それは、声にはならなかった。




「手当ては終わりだ」


そう言って立ち上がる彼の声は、いつもより少しだけ掠れていた。


「明日も、また来る」


「……はい」



護泰が去ったあと、部屋に静寂が戻る。

その静けさの中で、私はようやく自分の胸の鼓動の速さに気づいた。


護泰が小さく落とした言葉が耳から離れない。


――羨ましくなった。




それは、いつも人を気遣う言葉を選ぶ彼が、少しだけ見せた本心だと思った。


私は胸に手を当て、ゆっくりと目を閉じた。


その夜、背中の痛みよりも、胸のざわめきのほうがずっと強かった。

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