第7話 小さな波紋


「おい、当主様、今日はまた一段と冴えておられるな」


「昨日、千住から姫様がお越しになったからではないか。気持ちが引き締まっておられるのだろう」


庭の端で控えていた他の家臣たちが、囁き合っているのが聞こえた。

耳を澄まさずとも、その言葉は私の胸に届いた。


「しかし……千住の姫がこちらに嫁ぐとはな。長年の戦も、これでようやく終わるか」


「当主様があの縁談をお受けになったのも、民のためを思ってのことだ。戦続きでは田畑も荒れる。ここで血を流さずに済むのなら、それに越したことはない」


「真田の守護神とまで呼ばれるお方が、己の武名ではなく、民の暮らしを選ばれるとはな……」


真田の守護神――

その呼び名を聞いた途端、胸の奥に冷たい痛みが走った。


千住との戦だけではない。今までに護泰が率いた軍はほとんど負け知らずだったと聞く。

その強さは畏れとなり、そう呼ばれるようになったと。



噂話や俗称から勝手に膨らんだ護泰の姿は、私の中で長く「怪物」として形を取っていた。

しかし実際に目にした真田護泰という男は、怪物などではなく、ひたすらに鍛錬を積んだ一人の武士だ。


 


家臣たちの声が続く。


「当主様がお決めになったことだ。俺たちは従うだけだが……」


「何だ、不満か?」


「いや、そうではない。ただ、千住と真田……互いに多くの血を流してきたからな。簡単に割り切れぬ者もいるだろう」


「それでも、当主様は姫様を迎えられた。恨みだけを抱いていては、この先の世が成り立たぬとお考えなのだ。元来、護泰様は心優しいお方であるしな」


花乃も言っていた。護泰は優しい、と。

だが、優しさだけで戦が止まるなら、世はとうに平らかになっている。



私はそっと廊下の柱に手を添えた。

木肌の冷たさが指先から伝わってくる。


護泰は稽古を続けていた。次々と相手を変え、誰に対してもある程度の手加減はするが、決して侮らない。合間には軽口も交わすが、誰かが動きを崩せばすぐに指摘し、改善の手立てを示す。


家臣たちは皆、護泰の言葉に真剣に耳を傾けていた。



「……不思議な人」



思わず小さく声に出してしまい、自分で驚いた。

護泰がこちらを見るかと一瞬身構えたが、稽古に集中していて廊下の陰に潜む私の存在には気づいていないようだった。


ほっとしながらも、胸のどこかがきゅっと締め付けられるのを感じた。


兄上も、家臣たちから慕われていた。

戦場では冷静に指揮を執り、帰ってくると皆の苦労をねぎらい、一人ひとりに声をかけていた。

その姿を見て、兄はいずれ皆から慕われる当主になるのだと信じてやまなかった。


護泰はそんな兄の姿と重なり、私の心を乱した。

 


「……そんなこと、認めてなるものですか」




私はくるりと踵を返し、静かに部屋へと戻った。

ふと振り返ると、護泰が木刀を納め、深く一礼して稽古を締めくくる姿が見えた。その背中は、まっすぐ伸びていた。


もし、この人が敵でなければ――


そんな考えが一瞬、頭をよぎる。

私は慌ててその思いを打ち消した。



朝の稽古を終えた護泰が、やがて廊下を歩く気配がした。

 

私は慌てて部屋の障子を閉め、呼吸を整えた。鼓動がわずかに早まるのが自分でもわかる。


足音が、部屋の前で一瞬だけ止まった。けれど、戸が開かれることはなく、足音は遠ざかっていく。


私は障子に背を預け、静かに息を吐いた。




護泰という男は、私の中で形を結びそうになっては、霧のように指の間からすり抜けていく。

敵だと決めつけるにはあまりにも多くの矛盾があり、かといって、目の前の姿を素直に受け入れることはできない。


私はまだ、この城に来てから二日目にすぎない。それなのに、心の中にはすでに、いくつもの小さな波紋が広がっていた。

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