GUN
@goldfish1971
第1話 拾得
その夜、坂口達也(さかぐち たつや)は、千鳥足だった。 金曜の夜。職場の同僚たちが開いてくれた、ささやかな婚約祝い。冷えたビールと上機嫌な祝福の言葉を浴びるだけ浴び、アパートへの道を揺れていた。
「……うっぷ」
込み上げる胃液をこらえ、達也は自販機が並ぶ路地裏に足を踏み入れた。駅前の喧騒が嘘のように静まり返り、湿ったアスファルトの匂いが鼻につく。壁にもたれて息を整えていると、視界の端、ゴミ集積所のカラス除けネットの脇に、見慣れない黒い箱が転がっているのに気づいた。
雨に濡れた段ボール箱ではない。もっと硬質な、アタッシェケースを小さくしたようなジュラルミン製の箱だ。 こんなところに、誰かの忘れ物だろうか。 酔いも手伝って、達也はふらふらとそれに近づいた。鍵はかかっておらず、留め金が外れている。
「……なんだ、これ」
好奇心に負けて蓋を開けた達也は、息を呑んだ。 黒いビロードの内張りに、それは鎮座していた。
銃だった。
鈍い光沢を放つ、回転式拳銃(リボルバー)。 現実感がなかった。テレビや映画でしか見たことのない「本物」が、今、ゴミ溜めの横に無造新に転がっている。 グリップには、銀色に光る精巧な蛇の細工が巻き付いていた。
「……っ」
背筋に冷たいものが走る。 警察だ。すぐに通報しなければ。 そう頭では理解しているのに、達也の手は、まるで意思を持ったかのように箱の中へ伸びていた。
ずしり。
指先に触れた金属の感触は、想像を絶するほど冷たく、そして重かった。 その重さが、これが玩具ではないことを雄弁に物語っている。 手に取った瞬間、グリップの銀の蛇が、達也の手のひらに吸い付くように馴染んだ。
耳の奥で、乾いた破裂音のような幻聴が響いた気がした。
なぜだか分からない。 だが、これを手放してはいけない、と強く思った。 いや、違う。 ——これは、俺のものだ。
達也は、まるで何かに取り憑かれたように周囲を見回すと、そのジュラルミンケースを拾い上げ、震える手でビジネスバッグの奥底に押し込んだ。 アパートに帰り着くまで、心臓は壊れそうなほど激しく脈打っていた。
「おかえり、達也。遅かったね。飲みすぎたんじゃない?」
玄関で迎えてくれたのは、婚約者の工藤沙織(くどう さおり)だった。エプロン姿のまま、優しく微笑んでいる。 いつも通りの、達也が何よりも愛する笑顔だ。
その笑顔を見た瞬間、バッグの中の「それ」が、ずしりと重みを増した気がした。
「……あ、ああ。ただいま、沙織。ちょっと、飲みすぎたみたいだ」 「もう、シャワー浴びて早く寝なよ」
沙織の小言を背中で聞きながら、達T也は寝室へ直行した。 バッグからあの箱を取り出し、クローゼットの奥、もう何年も使っていない古い旅行カバンの底に押し込む。 これでいい。 何が「いい」のか分からないまま、達也は鍵をかけ、深い罪悪感と共に冷たいシャワーを浴びた。
それから三日後の、日曜の昼下がりだった。 達也はリビングのソファで、溜まっていた雑誌をぼんやりと眺めていた。あの夜のことは、酔った上での悪夢だったかのように忘れかけていた。
「ねえ、達也」
キッチンから、沙織が顔を出す。 その手には、あのジュラルミンケースが握られていた。
「これ、なに? クローゼットの旅行カバンに入れっぱなしだったけど」
達也の心臓が、喉元まで跳ね上がった。 血の気が引いていくのが分かる。なぜ。どうしてあの場所が。
「あ……いや、それは……」 「開けてみてもいい?」
無邪気に尋ねる沙織に、達也は「待って」と叫ぶこともできなかった。 沙織はソファの隣に座ると、好奇心に満ちた目で、パチン、と留め金を外す。
「わ……」
沙織が小さく息を呑む。 黒いビロードの上に鎮座する、銀の蛇が巻き付いたリボルバー。
「触るな!」
達也は、自分でも驚くほど鋭い声で叫んでいた。沙織の肩がビクリと震える。 「ご、ごめん……」 「いや、俺こそ……。それは、その……」 しどろもどろになる達也をよそに、沙織は恐る恐る箱の中身を覗き込む。
「すごい。……モデルガン?」 「……え?」 「達也、こういうの趣味だったんだ。知らなかった。すごく精巧。本物みたい」
沙織はそう言って、箱に手を伸ばそうとする。 「だめだ!」 達也は、沙織の手を払いのけるようにして、先に銃を掴み取った。
その瞬間だった。
ずしり、としたあの重み。冷たい金属の感触が、手のひらから全身に伝播する。
『——————ッ!』
脳を直接殴られたような衝撃。 視界が赤黒く点滅し、知らない映像が網膜に焼き付いた。
(泣き叫ぶ、見知らぬ女の顔) (血に濡れて倒れる、金髪の少女の姿)
そして、耳の奥で、今度ははっきりと響く。 パンッ。 乾ききった銃声の幻聴。
「……達也? 顔色、真っ青だよ?」
心配そうに顔を覗き込む沙織。 その優しい笑顔。 その、守りたいと誓ったはずの瞳。
——ゴクリ、と達也は唾を飲んだ。 自分の内側から、熱いマグマのような「何か」がせり上がってくるのを感じる。
(あれを、撃ちたい)
違う。
(あの笑顔を、壊したい)
違う。違う。
(この銃口を、沙織の眉間に押し付けて、引き金を絞りたい)
「うわあああああっ!」
達也は絶叫し、銃を箱の中に叩きつけるように投げ返した。 ガシャン、と重い金属音が響く。 「きゃっ! た、達也? どうしたの、本当に」
「……っ、はぁっ、はぁっ……」 衝動。 それは、紛れもない「殺意」だった。 人生で一番幸せなはずの今、この瞬間に、俺は、沙織を殺したいと思った?
「……なんでもない。ごめん、沙織。ちょっと、貧血かも」 「貧血って……」 「それ! それ、危ないから! 触らないでくれ!」
達也は沙織を突き飛ばすようにして立ち上がると、箱を乱暴に掴み、寝室を通り越して物置へ駆け込んだ。 古い工具箱の底に箱を叩き込み、使わない工具類を滅茶苦茶にその上へ放り込む。
「はぁ、はぁ……なんだよ、今のは……」
背中を冷たい汗が伝う。 あの銃は、おかしい。 俺も、おかしい。
その日から、達也は意識して沙織を避けるようになった。 「プロジェクトが佳境だ」と嘘をつき、わざと終電まで残業した。休日も「仕事だ」と偽り、ネットカフェで時間を潰した。 沙織と二人きりになるのが、怖かった。 彼女の笑顔を見るたびに、あの悍(おぞ)ましい「衝動」が蘇りそうになるからだ。
そして、悪夢が現実となったのは、それからさらに数日後の夜だった。 疲れ果ててアパートに帰り着くと、リビングの明かりがついていた。
「おかえり」
ソファに座っていた沙織が、振り向く。 達也は、その手元にあるものを見て、呼吸が止まった。
「……あ……」
沙織は、柔らかい布で、あの「GUN」を丁寧に磨いていた。 銀の蛇が、リビングの照明を反射して妖しく光っている。
「もう、達也ったら。こんな大事なもの、工具箱の底に入れっぱなしにして。錆びちゃうよ?」
沙織は、少し困ったように笑う。 「びっくりした。すごく重いし、本物みたい。この蛇の飾りもすごいね。……でも、モデルガンにしても危ないから、出しっぱなしはダメだよ?」
——モデルガン。 沙織は、これを精巧なモデルガンだと思い込んでいる。
達也は戦慄した。 あの忌まわしい「殺意」の塊を、沙織が「趣味のコレクション」だと思って、無邪気に、素手で磨いている。
違う。 違うだろ。
(こいつが、沙織に磨かせたんだ) (こいつが、沙織の善意を利用して、俺の目の前に戻ってきたんだ)
達也は確信した。 銃が物理的に移動したことよりも恐ろしいのは、この「GUN」には「意志」があり、沙織の“無知”と“善意”を完璧に利用していることだ。 そして、その矛先は。
「さ、沙織っ! それを放せ!」
達也は、リビングに飛び込んだ。 沙織の驚く顔を無視し、その手から銃をひったくる。 冷たい鉄の感触。 また、あの「衝動」が頭をもたげる。
「これは……! これは、危ないものなんだ!」 「た、達也……?」
戸惑う沙織をリビングに残し、達也は再び物置へ駆け込んだ。 ドアに鍵をかけ、暗闇の中で銃を握りしめる。
「……お前のせいだ。お前のせいで、俺は……」
銀の蛇が、まるで嘲笑うかのように達也の手のひらで冷たく光っている。
(このままでは、いつか本当に沙織を撃ってしまう)
捨てるしかない。 こんなもの、この世から消し去らなければ。
達也は震える手でスマートフォンを取り出し、「拳銃 処分方法」と打ち込もうとして……指を止めた。 警察に届けたら、俺が捕まる。 では、どこに?
達也は検索ワードを打ち直した。 「リボルバー 銀の蛇」
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