第20話「影女の図書室と書き換えられた歴史」
放課後のチャイムが鳴った瞬間、
クラスメイトたちは、一斉に椅子から飛び上がった。
「うおー解散だー!」
「家! 布団! ゲーム!」
「私はまず風呂! そのあと宿題をやったつもりになる!」
修学旅行帰り+通常授業という二段コンボで、みんなの脳はほぼ溶けている。
でも、特別クラスの僕たちには、まだ“残業”があった。
「じゃ、入間くんたちはそのまま図書室ね」
帰りのHRが終わった教室で、
沼田先生がさらっと言った。
「影女さんから、“ちょっと見せたいものがある”って連絡来てる」
「影女さんから連絡って、どんなツール使ってるんですか」
水守が眉をひそめる。
「校内LAN?」
「影だけでピッて。アナログだけどハイテクだよ」
「意味わからない……」
僕が机の中を片づけながらため息をつくと、
隣で猫屋敷が、グッと親指を立ててきた。
「図書室いいじゃん。エアコンきいてるし静かだし、
“この学校がただの学校じゃない証拠”だらけだし」
「最後の一個が重いんだよなあ……」
それでも僕たちは、言われた通りに教室を出た。
夕方の廊下は、もう人が少なかった。
遠くで部活の掛け声が聞こえる。
バスケットボールの音。吹奏楽の音階練習。
その音を、影だけが静かに聞いている。
***
図書室のドアを開けると、
ひんやりした空気と紙の匂いが出迎えてくれた。
棚の列。
整然と並んだ背表紙。
「静かに」のポスター。
いつも通りの光景――の、はずなのに。
「うわ、影がやばい」
水守が小声で言う。
本棚の影が、床に長く伸びている。
窓からの夕陽のせいかと思ったけど、
それだけじゃ説明がつかない。
背表紙の影に、別のタイトルが浮かんでいた。
「……え」
僕は、近くの棚に顔を近づけた。
実物の本には「○○高校沿革史」と書いてある。
なのに、床に落ちたその影の文字は、
『三界契約覚書』
全然違う。
隣の本は「学校だよりバックナンバー」なのに、
影には
『器安定試験記録』
と書いてある。
「おかえりなさい」
ふと、奥から声がした。
振り向くと、
窓際の床に落ちた人影が、ゆっくりとこちらを向いた。
逆光で見えないけれど、
輪郭は、長い髪の女子生徒のようだ。
「影女さん」
「はい」
影が、本棚の影から影へと滑るように動いて、
僕たちの足元までやってきた。
床に落ちた僕たちの影が、
挨拶するみたいに、かすかに揺れる。
「今日は、“図書室の影”をご案内しようと思って」
「ツアー形式なんですね……」
猫屋敷が、リュックを抱えたまま苦笑する。
「ここ、私の“持ち場”ですから」
影女さんは、本棚のほうに視線を向ける。
「本の影には、“書かれていること”だけじゃなくて、
“書かれなかったこと”も映るんです。」
その言葉に、雪白が静かに頷いた。
「“吹雪の日に行方不明になった人”の話みたいなものね。
新聞に載るのは事件の一部だけ」
「そういうのも、全部影には残ります」
影女さんは、僕たちを手招きした。
「こちらへどうぞ。
“この学校がただの学校じゃない”証拠コーナーです」
「コーナー分けされてるんだ……」
***
本棚の影の間を歩いていくと、
空気が、少しずつ変わっていくのがわかった。
紙とインクの匂いの奥に、
線香の匂いが混じる。
視界の端で、影がちらちら動く。
制服の影。
袈裟の影。
装束の影。
なのに、どれも実物はいない。
「ここは、“沿革史の影”の棚」
影女さんは、一番奥の高い本棚を指さした。
「表の本には、“○○高校は昭和何年に創設され〜”って書いてあります。
でも、影のほうのタイトルは、さっき見た通り」
『三界契約覚書』
「“覚書”?」
水守が、棚の下の影にしゃがみ込む。
「契約書そのものじゃなくて、“その打ち合わせのメモ”って意味ですか」
「そう」
影女さんは、どこか誇らしげに言った。
「この学校はね、
“三界の契約内容そのもの”じゃなくて、
“それをどう運用するか”を話し合った場所なの。」
「話し合いのメモを、学校にしまったってこと?」
「本物は、神社や寺や、もっと別の場所に保管されてる。
でも、その場その場で“これで本当に大丈夫?”って話し合った記録は、
どこかに集めておかないといけないでしょう?」
影女さんは、本棚の影を指先でなぞった。
「それを、“一つの場所にまとめてしまいましょう”って提案したのが――
この学校の、初代校長先生」
「初代校長、ただの教育者じゃないな……」
僕は、生徒手帳の校長挨拶ページを思い出した。
あの、ちょっと難しい言い回しのあいさつ文。
『本校は、人と人が学び合う場であると同時に、
見えないものたちのための“居場所”でもあります。』
あれ、そういう意味だったのか。
「影女さん」
雪白が、棚の上のほうを見上げながら言った。
「“話し合いのメモ”ってことは、
ここで、“日本滅亡まで五年”のカウントも決めた?」
「ここで“カウントを刻み始めた”のは確かね」
影女さんは、黒板に浮かんだ文字を思い出すように言った。
「器がどれくらいもつか。
どこで休ませるか。
どこで“線を切るか、繋ぎ直すか”。
そのあたりの“タイムテーブル”がここで決まった」
「タイムテーブルって言うと、途端に時刻表みたいに聞こえるな……」
犬塚が頭をかく。
「“日本滅亡行き最終列車・あと五年”とかやめてほしいんだけど」
「じゃあ、途中駅で止めてしまえばいい」
影女さんは、さらっと言った。
「“ここで一度、全員降りてください”ってね」
「それが、僕たちの仕事……ってことですか」
僕がそう言うと、影女さんは微笑んだ。
「その通り。
あなたたちは、“列車内アナウンス”でもあり、
“レール工事の人”でもあり、
“時刻表の書き換え担当”でもある。
「仕事多すぎるな!」
猫屋敷が全力でツッコんだ。
「給料出ないのにマルチタスクすぎるでしょ」
「給料は……」
影女さんは少し首をかしげる。
「“誰かが帰ってくる”たびに、
あなたたちの影が、少しだけ濃くなること、かな」
「それ、喜んでいいやつ?」
「たぶん、ギリギリ」
水守がぼそっと付け加える。
***
「で、“経巻”の話です」
影女さんが、棚の間をすっと移動した。
「“契約の覚書”がここにあるなら、
“契約の写し”も、どこかにあるはずでしょう?」
「それが、経巻」
僕は、海の底で見た数珠を思い出しながら言った。
「水鏡、鈴、数珠、勾玉……
それぞれが契約の一部を持ってて、
経巻は、“文章そのもの”」
「スラスラ出てくるあたり、だいぶ染まってきましたね」
影女さんは、冗談めかして言う。
「そう。
“契約の本文”は、巻物の形をとっている。
それを、この学校の地下のさらに下――
旧校舎の一番底にしまってある」
「旧校舎の一番底……」
水守が、図書室の床を見た。
「何階分潜るんだろう」
「物理的な階層だけじゃないからね」
影女さんは、さらっと恐ろしいことを言う。
「“作られた時代”ごとに層になっているから、
降りるほど、“古い日本”に足を突っ込むことになる。」
「それ、時代劇セットの裏側に迷い込むみたいな感じですか」
猫屋敷が、わくわくと不安半々の声を出す。
「そう思っておいたほうが、まだ楽かもしれないわ」
雪白が苦笑した。
「雪のない冬とか、
まだダムができてない川とか、
見たくないものもたくさん見えそう」
「旧校舎の地下に、経巻が眠っている」
僕は、口の中でその言葉を繰り返した。
そこに降りていくってことは――
“契約の本文”に、直接触れるってことだ。
(……怖いな)
もしそこに、
「日本滅亡まで五年」と、
はっきり書いてあったら。
それでも、触らなきゃいけないんだろうか。
「もちろん、今すぐ行けとは言いません」
影女さんが続けた。
「あなたたちには、まだ集めるべき工具がいくつかある。
“経巻に触る前に必要な道具”もね」
「道具?」
「そう。“場を決める言葉”と、“それを支える人たち”」
影女さんは、僕の足元に落ちた影を見た。
「入間くんの“ここはこういう場所だ”って言葉は、
もうそれ自体が小さな法具みたいなもの」
「法具。僕も道具扱いなんですか」
「いいじゃない。“場を繋ぎ止める道具”って、
この国では昔から偉い役目よ」
からかい半分、本気半分。
その視線に、背筋が少し伸びた。
ふと、その隣で――
猫屋敷の影が、じわりと揺れた。
図書室の床に落ちた彼女の影が、
さっきよりも薄くなっている。
人の形と猫の形が、半歩ずれて重なっているような。
「……猫屋敷さん」
影女さんが、そちらに目を向けた。
「さっきも言いましたけど、
あなたの影は、半分はここから来ていて、
半分は“向こう側”から来ている感じがします」
「向こう側、ねぇ」
猫屋敷は、自分の足元を見下ろす。
靴の先が、ちょっとだけ影からはみ出ている。
「向こう側って、どんなとこ?」
「たとえば――」
影女さんは、図書室の窓際に移動した。
夕陽が差し込む窓。
ガラスに映る教室側の影。
「“この学校が学校にならなかった場合”の歴史とか、ね」
窓ガラスの向こうに、
別の図書室の影がちらりと浮かんだ。
木の本棚。
古いランプ。
制服じゃない服を着た人たち。
その中に、
猫屋敷に似た後ろ姿の影が、一瞬見えた気がした。
今より少し、大人っぽいシルエット。
髪を下ろして、
猫の尻尾を一本引きずっている。
「……今の」
僕が息を呑むと、影はすぐに消えた。
「“もしも”の影は、長くは居られません」
影女さんの声が、どこか遠くから聞こえる。
「でも、あなたみたいに境目にいる子は、
時々、“別の歴史の自分の影”を引き寄せてしまう。」
「なんか、聞けば聞くほど面倒な体質だね、あたし」
猫屋敷は、自分の影を指でつつく。
「“別ルートの自分”ってやつ?
行き先被ってるから、予約取り合いになるみたいな」
「そう思っておいてもいいわ」
影女さんは、少しだけ笑った。
「でも、どのルートでも“塀の上に戻る”って決めてるなら、
最後にたどり着く場所はそんなに変わらないはずよ」
猫屋敷が、少しだけ目を細める。
「それ、けっこう信じるの難しいやつだよ」
「だからこそ、“約束”が必要になる」
影女さんの視線が、僕のポケットをかすめた。
朱音からもらった“結び”のお守り。
天宮神社の鈴。
そして、海から持ち帰った数珠。
全部が、どこかで線になって繋がっている。
***
「で、本題の“地下への入口”」
影女さんが、図書室の照明を見上げた。
白い蛍光灯が、じわりと暗くなり――
代わりに、窓の外の光が強くなる。
床に落ちた本棚の影が、
階段の形に変わっていく。
さっきまで本棚の足元だった場所に、
地下へと続く階段の影。
「……出た」
水守が、小さく息を飲んだ。
「これが、“旧校舎への影の階段”?」
「そう」
影女さんは、階段の一段目の影にそっと足を乗せた。
彼女の姿は見えない。
でも、影だけが下へと降りていく。
「旧校舎の本体は、今は使われていない。
でも、“階段の影”だけは残っている。
そこから、地下の層に降りられる。」
「物理的な入口は?」
「旧校舎の裏庭に、鍵のかかった小さな鉄扉があるわね。
でも、それは“迷い人”向けじゃない」
影女さんの声が、少しだけ低くなる。
「あなたたちは、“決めに行く側”だから」
「決めに行く?」
「この学校を、“どういう場所として残すか”。
契約の写しを、“どういう言葉で読み替えるか”。
そのために、経巻に触れなきゃいけない」
階段の影が、足元で揺れた。
さっきまで見えていた図書室の床が、
少しだけ遠く感じる。
「……今降りる?」
思わず口から出た言葉に、
影女さんはすぐには答えなかった。
代わりに、水守が言う。
「まだ無理。
準備も足りないし、“帰ってくるルート”も確認できてない」
「そうね」
雪白も頷く。
「“降りる”より先に、“戻る”ことを考えないと。
あの海みたいに」
「塀の上に戻る約束、したばっかだしね」
猫屋敷が、足元の影を見下ろす。
彼女の影は、さっきよりほんの少し、
僕たちのほうに寄ってきている気がした。
影女さんが言う。
「今は、まだ“影の入口”だけ覚えておきなさい。
ここにこういう階段があって、
いつでも降りられるってことを」
「いつでも降りられるって、あんまり安心できないフレーズだな……」
「大事なのは、“いつ降りないか”も自分たちで決められるってことよ」
影女さんは、階段の二段目の影から、すっと戻ってきた。
足元の影が、またただの本棚の影に戻る。
図書室の照明が、ふっと明るくなった。
さっきまで見えていた“別の歴史”の影は、
どこにも見えない。
「旧校舎の地下へ降りるのは――
もう少し、道具が揃ってからがいい」
影女さんは、僕たちの顔を順番に見た。
「まだ“仮面”も、“本気の水鏡の力”も、
“剣”も揃ってないでしょう?」
「“剣”って、あの、父さんの……」
思わず声が詰まる。
ぬらりひょん教師――古文の先生が言っていた、「境界の剣」。
父が封印に関わっていたという噂。
「そう。
あなたのお父さんが、一度“この学校の歴史”を書き換えかけた。
その反動も、まだ残っている」
影女さんの言葉に、
胸のあたりが、ずん、と重くなる。
(また、父さんか)
神社。
寺。
剣。
経巻。
全部に、父さんの影がちらつく。
「だからこそ、急いで降りる必要はない」
影女さんは、やわらかな調子に戻った。
「あなたたちには、まだ“教室で笑っていられる時間”も必要だから」
「……先生たち、たまに優しいこと言うよね」
猫屋敷が、少しだけ照れた声で言う。
「“たまに”って言うな」
廊下のほうから、沼田先生の声が飛んできた。
「図書室で怪談ツアーしてるところ悪いけど、
そろそろ下校時刻になるからねー。
“見えない残業”はほどほどに」
「はーい」
僕たちは、図書室の中央に集まった。
静かな本棚の列。
整然と並んだ背表紙。
さっきまで“別のタイトル”を映していた影たちは、
今はもう、何事もなかった顔で床に落ちている。
「じゃあ今日は、“入口の確認”まで」
影女さんが言った。
「旧校舎の裏庭の鉄扉。
そして、この図書室の“影の階段”。
どちらも、あなたたちのために空いている。」
「“空いている”って言い方やめてほしい……」
犬塚が頭を抱える。
「じゃあ、“いつでも閉めに来ていい”にしましょうか」
影女さんは、どこか楽しそうに言った。
「契約って、本来そういうものだから。
“永遠”じゃなくて、
“ちゃんと見直せるように書かれた約束事”。」
「見直しに行く、か」
僕は、図書室の扉のほうを振り向いた。
その向こうに、廊下。
階段。
屋上。
旧校舎へ続く渡り廊下。
学校全部が、一つの大きな器みたいに見えた。
(日本滅亡まで五年――)
黒板に浮かんだ文字。
海の底の数珠。
山の神社の鈴。
そして、この図書室の影の階段。
(この“タイムテーブル”、
本当にそのままにしておくつもりなのか?)
誰かが書いた“ルート”に従うだけなのか。
それとも――
「書き換える側に回るのか」
自分でも気づかないうちに、
口に出していた。
猫屋敷が、にやっと笑う。
「いいじゃん、“歴史改ざんサイド”」
「言い方!」
「でも、“誰かを守るための書き換え”なら、
あたしはけっこう賛成だよ」
足元の影が、半歩分、僕の影に寄り添う。
影女さんの声が、最後にもう一度聞こえた。
「歴史は、“誰がどこから照らすか”で、影の形が変わります。
だったら、ちゃんと“今ここにいる人たち”の側から照らしてあげて」
図書室を出るとき、
背中に本棚の影が落ちた。
その影が、
地下へ続く階段の形に見えたのは――
きっと気のせいじゃない。
旧校舎のほうから、
かすかに冷たい風が吹いてきた。
その風の中に、
紙の擦れる音と、誰かの笑い声と、鈴の音が混ざっている気がした。
(つづく)
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