第14話「鈴と赤鬼の一夜決戦」


 その夜、蓮照寺の境内は、昼間とは別の顔をしていた。


 修学旅行生の笑い声も、売店の呼び込みも消えて、

 山の上には、虫の声と、遠くの温泉街のざわめきだけが浮かんでいる。


 山門の向こうは、まるごと夜の器だった。


 常夜灯の灯りが、石畳の上に細い光の帯を描いている。

 それ以外はほとんど闇だ。

 空を見上げれば、星が、やけに近くに感じる。


「……なあ、今さらだけどさ」


 犬塚が、小声で僕に耳打ちしてきた。


「修学旅行で、夜に山寺に来る高校生って、普通じゃなくない?」


「普通じゃない高校に通ってるから、今ここにいるんだよ」


「それもそっか」


 苦笑しながらも、犬塚の耳は少しだけ伏せている。

 満月じゃないのに、夜になると本能がざわつくらしい。


「皆さん、こちらへ」


 先を歩いていた蓮見が、手に持った懐中電灯を掲げた。


 細い光の輪が、鐘楼とその手前の小さな祠を照らす。

 祠の中には、白布で覆われた小さな台座。


 その上に――鈴がある。


 観音寺から移送してきた、問題児その一。

 今は布の上からでもわかるくらい、落ち着きがない。


 チリ……チリリ……ッ


 箱の中に閉じ込められていたときより、

 音が鋭くなっている気がした。


「やっぱり“本山の空気”を吸って、テンション上がってるね」


 水守が眉をひそめる。


「こっちとしてはテンション上がってほしくないんだけど」


「鈴の“本来の役目”を思い出しつつあるんでしょう」


 蓮見が、静かに言う。


「迷える霊を呼んで、導く。

 そして、封印された鬼を見張る」


「……最後の一個、今さらさらっと足しましたよね」


 僕は全力でツッコんだ。


「鬼って、ほら、あの“赤鬼山 鬼鎮寺”の?」


「ええ。この山の向こう側に眠っている“それ”です」


 蓮見の声色が、少しだけ低くなる。


「鈴は、もともと鬼の暴走を知らせる警報でもありました。

 鬼が封印からにじみ出ようとするとき、この鈴が鳴る」


「警報鳴ってるじゃん今!」


 猫屋敷が、思い切り指差した。


「チリチリ言ってるよ! ピーピーピーだよこれ!」


「まだ“遠くの雷雨注意報”くらいです」


「その比喩、あんまり安心できないんだけど」


 僕は、祠の前で立ち止まった。


 鈴の音が、だんだん耳の奥に入り込んでくる。

 音というより、振動に近い。


 水鏡をポケットから取り出してみると、

 表面に赤いノイズみたいなものが走った。


(やばい。なんか、向こうからも“鳴り返されてる”感じ)


「悠真」


 雪白が、そっと隣に立った。


「今夜の目的、確認しておくわね」


「鈴の暴走を止める。

 ついでに、“鬼側からのノイズ”を切る」


 水守が答える。


「鬼鎮寺の封印そのものには手を出さない。

 あくまで“こっちに漏れてきたやつ”を押し返す」


「その通りです」


 蓮見が頷いた。


「本体はあくまで向こうにいます。

 こちらに来るのは“残響”や“腕”のようなもの。

 それでも、普通の人間には十分危険ですが」


「腕?」


 犬塚がぎょっとする。


「鬼の腕とか、そういうホラーなワード、さらっと出さないでほしい」


「しっぽとか耳とかよりマシでしょ」


 猫屋敷が、ケロっとした顔で言う。


「“腕一本くらいなら、まだ本気じゃない”って感じするじゃん」


「感覚が完全にズレてるんだよなあ、お前」


 そんな掛け合いをしながらも、

 全員、心のどこかで緊張している。


 足の裏が、冷えた石畳を通してそれを教えてくる。


「では、始めましょう」


 蓮見は祠の前に進み、両手を合わせた。


 その声が、鐘楼の影に吸い込まれていく。


「水鈴山の鈴よ。

 今夜、すべての“迷い”と“怒り”をここに集め、

 しかるべき場所へと送り届ける。

 どうか、その鳴り声を、我らに貸してください」


 祠の中の鈴が、

 ふっと明るく光った。


 次の瞬間――


 チリィィィィィィィィン!


 境内全体が、鈴の音で満たされた。


 耳の鼓膜だけじゃない。

 骨の芯まで震える音。


 同時に、地面の下から、

 なにか巨大なものに蹴られたみたいな衝撃が来た。


 ドン――ッ!


 石畳が、わずかに浮き上がる。


「うわっ!」


 僕たちは思わず体勢を崩した。


「来ます」


 蓮見の声が、かすかに震えた。


 鐘楼の影が、ぐにゃりと伸びる。


 地面に落ちた影が、

 人の形でも、動物の形でもない“何か”に変わっていく。


 巨大な“腕”の影。


 指が五本。

 人間より一節多い関節。

 爪は岩を砕くような鉤爪。


 その影が、石畳の上で盛り上がり――

 現実にせり上がってきた。


 赤黒い皮膚。

 縄のようにねじれた筋肉。

 鉤爪が石をえぐる。


 鬼の腕だけが、

 鐘楼の足元の闇から、現実世界に突き出ていた。


「マジで腕だけ来た!」


 猫屋敷が、素で叫ぶ。


「蓮見さん! “腕だけだから大丈夫”とか言わないでよ!?」


「言いません! 腕だけでも危ないです!」


 蓮見は即答した。


「犬塚くん、前衛! 雪女さんは右側を凍らせて動きを制御!

 水守くんは境内から外へ被害が出ないよう、水の壁を!」


「はいよ!」


 犬塚の背中から、獣のような気配が立ちのぼる。

 目が薄く光り、爪が伸びる。


 雪白は、ふっと息を吸い込んだ。

 白い息が、夜気にすっと溶ける。


「悠真」


 水守が言う。


「“ここは寺の境内で、鬼の遊び場じゃない”って決めて。

 暴れられる範囲を、最初から狭めたほうがいい」


「わかった」


 僕は、境内全体を見渡した。


 山門。

 石灯籠。

 本堂。

 鐘楼。

 大きな木。


 そして、その真ん中にいる仲間たち。


(ここは――)


「ここは蓮照寺だ。

 鬼の腕一本が好き勝手に暴れる場所じゃない。

 ここは、迷ったやつが一回落ち着いて、

 行き先を決める場所だ!」


 言葉を放った瞬間、

 水鏡が強く光った。


 境内の外周に、目に見えない“線”が引かれる感覚。


 赤鬼の腕が、

 その線のところでぐっと動きを鈍らせた。


「よし、場の制限、入りました」


 水守がすかさず確認する。


「境内の外には手を出しにくくなってる。

 あとは中で暴れん坊をなんとかするだけ」


「なんとかするって、簡単に言うな!」


 犬塚が、鬼の腕に飛びかかる。


 獣のような反応速度で、

 鉤爪をかわしながら拳を叩き込む。


 赤鬼の腕が、岩のような重量感で揺れた。


「おらぁ!」


 犬塚の蹴りが、鬼の手首に命中する。

 筋肉が波打つ。


 でも、鬼は痛がるというより、

 “邪魔な虫を振り払う”みたいな動きしかしない。


 バチン、と空気が弾ける音。


 犬塚の体が石畳を滑った。


「っつー……! 重てぇ!」


「無茶しないで!」


 雪白が、右手をかざした。


 彼女の指先から、

 氷の筋が地面を走る。


 赤鬼の腕の肘あたりまで、一気に凍り付いていく。

 氷柱が、筋肉の隙間を縫うように伸び、関節を固める。


 鬼の爪が、氷を割ろうときしんだ。


「これで、しばらくは動きが鈍るはず」


「さすが雪女」


 猫屋敷が、石灯籠の上からひょいっと顔を出した。


「じゃ、あたしは――」


 そう言って、猫屋敷は、

 ふっと姿を消した。


「え?」


 思わず目をこする。


 次の瞬間、

 鬼の腕の上を、三匹の猫が走っていた。


 黒猫、白猫、三毛猫。


 全部、尻尾の振り方と笑い方が猫屋敷にそっくりだ。


「分身!?」


「正確には、“どの顔でいるか迷った結果、全部出した”って感じかな!」


 黒猫が鬼の手の甲で踏ん張り、

 白猫が爪の間をすり抜け、

 三毛猫が肘の上でくるっと一回転する。


「ねえねえ、でっかい腕くん!」


 三匹が一斉に声をあげた。


「こっち見て――」


 その瞬間、

 三匹の猫が一つの猫屋敷に収束した。


 彼女は鬼の手の甲の上、

 鉤爪のちょうど死角にあたる場所でしゃがみ込み、

 祠を背に、にやっと笑った。


「はい、こっちが“前”だよ。

 よそ見してると、後ろからやられるよ?」


 鬼の腕が、わずかに動きを止める。


 その一瞬の隙を――雪白が見逃さなかった。


「今!」


 雪白の冷気がさらに強まる。

 凍った部分が増え、鬼の腕の動きが半分まで落ちる。


 水守が、両手を前に突き出した。


 手水舎の水、屋根のしずく、

 見えないほどの湿気まで集めて、

 透明な水の壁を鬼の腕の外側に張り巡らせる。


「境内から、これ以上はみ出させない!」


 水の壁にぶつかった鬼の指先が、じゅっと音を立てて煙をあげる。


 蓮見は、鈴を祠から取り出した。


 紐を指に絡め、そっと持ち上げる。


 小さな鈴が、

 月明かりを受けて淡く光る。


「入間さん」


「はい!」


「“ここをどんな場所にするか”を、もう一度はっきりさせてください。

 鬼の怒りをただ押し込めるんじゃなく、

 鈴が本来すべき仕事を思い出せるように。」


「……わかった」


 僕は、水鏡と鈴を、胸の高さで合わせるように持った。


 鈴の中には、

 鬼鎮寺の方向から這い寄ってくる赤いノイズ。

 水鏡の中には、

 さっきまで見送った霊たちの、淡い光。


(ここは――)


「ここは、蓮照寺だ。

 鬼の腕が、恨みのままぶん殴る場所じゃない。

 ここは、“迷ったものを落ち着かせて、送り出す場所”だ。

 鬼も、人も。

 ……その“怒り”も、どこかへ流してやる場所だ!」


 声を張った瞬間、

 鈴の中で何かが反応した。


 チリ――ン……。


 さっきまでの鋭い音じゃない。

 どこか、懐かしいような、柔らかい音。


 水鏡の表面に、

 赤いノイズと、淡い光がぶつかり合う。


 しばらく、

 ぶつかり合ったまま揺れて――

 やがて、赤が少しずつ、光のほうに溶けていく。


 赤いノイズの中に、

 人の顔のようなものが一瞬だけ浮かんだ。


 怒鳴り顔じゃない。

 悔しそうで、悲しそうで、

 どこにも行けなかった誰かの顔。


(……あんたも、ずっと“途中”で止まってたのか)


「いいから、一回引っ込め!」


 僕は、鈴を強く鳴らした。


 チリン――!


 音が境内に広がる。


 その瞬間、

 鬼の腕が、ビクリと震えた。


 凍りついた部分から、ひびが逆再生みたいに消えていく。

 氷が解けているわけじゃない。

 腕そのものが、闇に引き戻されている。


 水の壁が、

 その退く力を後押しするように流れを変える。


 犬塚が、最後の一撃を手首に叩き込む。


「帰れッ!」


 猫屋敷が、鬼の手の甲を軽く蹴った。


「続きは、ちゃんと封印の中でやんな!」


 赤鬼の腕が、

 鐘楼の足元の闇へ、ずるずると沈んでいく。


 巨大な鉤爪が、

 最後に、

 猫屋敷のほうを見たような気がした。


 爪の先が、

 空気を掻き分けるように動く。


 そこから、

 声にならない声が漏れた。


 ――「境ノ子」。


 その一言だけが、

 僕の耳に届いた。


「……今、何て?」


 思わず振り返ると、

 もう鬼の腕は消えていた。


 鐘楼の足元には、

 ただ黒い影だけが残っている。


 鈴は、

 僕の手の中で、静かになっていた。


 さっきまでの赤いノイズは消え、

 代わりに、淡い光が一筋、鈴の中に宿っている。


「……ふう」


 蓮見が、胸に手を当てて息を整えた。


「どうやら、“向こう側”への通話は切れたようですね」


「今の、通話ってレベルだった?」


 猫屋敷が、石灯籠からひらりと降りてくる。


 さっきまで鬼の手の上にいたはずなのに、

 靴も服も、まったく汚れていない。


 ただ、

 影だけが、ほんの一瞬、猫の形をしていた。


「猫屋敷」


「なに?」


「最後、鬼、何か言ってた?」


「うーん……」


 猫屋敷は、自分の尻尾をくるくると指に巻きつけた。


「聞こえたような、聞こえなかったような。

 “境界の子”とか、“外側の子”とか……そんな感じ?」


「境界の子」


 蓮見が、かすかに眉を上げた。


「やっぱり、あなたは“そっち寄り”なんですね」


「“そっち寄り”って何よ。

 こっちはこっちで、ちゃんと高校生やってんのに」


 猫屋敷は笑って見せた。


 でも、その笑顔の中に、

 ほんの少しだけ、影が差している。


 さっき鬼の手の上で見せていた、“どの顔でいようか迷う顔”。


 それに気づいてしまったから、

 僕はなんとなく目を逸らした。


「ともあれ」


 蓮見は、手の中の鈴を見つめた。


「法具①、『鈴』。

 これで、完全にこちらの管理下に入りました。

 鬼鎮寺との“誤接続”も、しばらくは起こらないはずです」


「“しばらくは”?」


 水守がすかさずツッコむ。


「そこ大事なとこなんだけど」


「この国の器が限界に近づいている以上、“永遠の安定”は約束できません」


 蓮見は正直だ。


「でも今日、ここで、“鈴は導くために鳴る”ってことを、

 ちゃんと思い出させてくれました。

 それは大きい」


 鈴が、彼の言葉に応えるように、

 カラン……と小さく鳴った。


 今度は、

 優しい音だった。


***


 境内から宿への帰り道、

 山道を下るバスの窓から、

 僕は暗い山の稜線を見ていた。


 その向こう側に、

 赤鬼山 鬼鎮寺がある。


 今もどこかで、

 封印された鬼が、怒りとも嘆きともつかない何かを抱えて眠っている。


「ねえ、ゆうま」


 隣の席で、猫屋敷がこっちをつついた。


「“途中駅、用意しといて”って話、覚えてる?」


「さっきの?」


「うん」


 猫屋敷は、窓ガラスに額をくっつけた。


 外の闇に、自分の顔がぼんやり映る。


 人間の顔。

 その輪郭に、猫耳と、細い目と、

 いくつもの“別の顔”が重なっている気がした。


「もしさ」


 猫屋敷は、ガラス越しの自分に向かって話しかけるみたいに言った。


「あたしがどっかの“境目”で、

 どっちにも行けなくなったとき。

 そのときだけは、ちゃんと呼んでよ。鈴でも、水鏡でも、なんでも使ってさ」


「……そんなことにならないように、

 今こうして頑張ってるんだけどな」


「ね」


 猫屋敷は笑った。


「でも“ならないように”って頑張ってても、

 世界のほうが“なるように”動きたがることもあるじゃん」


「不吉なこと言うなよ」


「不吉じゃないよ。予告編」


「それを不吉って言うんだよ」


 そんなやりとりをしているうちに、

 バスはだんだん温泉街の灯りに近づいていく。


 フロントガラスの向こうに、

 川沿いの旅館の灯りが連なり始めた。


「ま、いいや」


 猫屋敷は、座席にごろんと寝転がった。


「今日は“鈴回”、大成功ってことで。

 鬼の腕一本、サービスで付き。

 なかなかいい修学旅行でしょ」


「サービスポイントのつけ方が完全におかしい」


 僕は呆れながらも、

 どこかほっとしていた。


 鈴は手元にある。

 鬼の腕は引っ込んだ。

 みんな、ちゃんとバスに乗っている。


 ――それでも。


 窓に映った猫屋敷の影が、

 ほんの一瞬、席から半歩ずれて見えたのを、

 僕は見てしまった。


 さっき山門で見たのと同じ、“半歩のズレ”。


 気のせいだ、と言い聞かせる。


 今は、とりあえず。

 今日の任務が無事に終わったことだけを、

 ちゃんと喜んでおきたかった。


 だけど、

 胸の奥で、小さな鈴の音が鳴り続けていた。


 チリ――ン。


 それが、

 この先の“予告編”の音だと気づくのは、

 もう少し後の話になる。


(つづく)

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