第8話 「日本滅亡のカウントダウンと契約の話」

 翌日、僕は二時間目の途中で死にかけていた。


 ……正確には、「なんかめちゃくちゃだるい」の状態である。


「入間、大丈夫か? いつもより、さらに死んだ魚の目してるぞ」


 前の席から犬塚が振り向いてくる。

 いつも通りのやかましさなのに、今日はその声すらちょっと遠い。


「ちょっと、だるいだけ……」


「ちょっと、のレベル超えてる顔だと思うけど」


 隣の猫屋敷が、じっと僕の額をのぞき込む。

 オレンジ色の前髪がさらりと落ちて、視界がちょっとだけ明るくなった。


「熱あるかも。触っていい?」


「おでこ同士で測るやつなら遠慮しときます」


「残念。じゃ、先生呼ぶね」


 あっという間に、担任に「入間くん顔色悪いです」報告が飛び、

 僕は保健室行きとなった。


 階段を降りるだけで足が重い。

 筋肉痛とも違う、変なだるさだ。


(……これ、もしかして)


 昨夜、水鏡を握ってから続いている、胸の奥のじわじわした違和感。

 あれと同じ気配が、身体のあちこちに広がっている。


 妖怪特別クラス的に言えば――


(これが、“妖怪的な疲労”ってやつか)


 神社巡りのあとに、やたら眠くなるとか、

 お祭りの準備を手伝ったら、理由もなくぐったりするとか。


 そういうのを、何倍かに濃縮した感じ。

 たぶん、普通の保健体育では教えてくれない類の疲れだ。


***


 保健室のドアをノックすると、中からのんびりした声がした。


「はーい、どうぞ。入間くん?」


 ドアを開けると、白衣の先生が振り返った。


 ゆるくまとめた髪に、落ち着いた色の口紅。

 年齢不詳の美人タイプだ。


 胸元の名札には、こう書いてある。


 養護教諭 轆轤木(ろくろぎ)


 ……うん、苗字からして妖怪。


「顔色、ひどいわねえ。昨日、ちょっと頑張りすぎた?」


「えっと……まあ、その、鏡とか、水とか、いろいろと」


 普通の生徒が聞いたら一発でアウトなワードを、

 普通のトーンで口にしてしまう自分が怖い。


 轆轤木先生は「ああ、音楽室」とすぐに察した顔をした。


「とりあえずベッド横になって。はい、体温計。

 あと、ポケットの中身はぜんぶ出してね?」


「えっ、なんでポケットまで」


「“妖力”が変なところに溜まってると、検温の数値がぶれるの」


 そんな理由で? と思いながらも、言われるままにポケットをあさる。


 ハンカチ、スマホ、シャーペン、そして――


 小さな、勾玉型の水鏡。


 掌に出した瞬間、ふわっと冷たい風が吹いた気がした。


「やっぱりそれ、持ってきちゃったのね」


 先生の目が、すっと細くなる。

 白衣のポケットから、なぜか聴診器を取り出した。


「心音も聞いときましょうか」


「それ、普通の検査ですよね?」


「首、伸ばしてやるから安心して」


「安心材料どこですか」


 次の瞬間、先生の首がすっと伸びた。

 マジで、すっと。


 頭だけがスライドするみたいに、僕の胸のあたりまで迫ってきて、

 聴診器の先が、制服の上からそっと当てられる。


「ドクンドクン……あ、妖力、ちゃんと循環してる」


「……心音じゃなくて妖力見るんですか、それ」


「ここ保健室だから。人間と妖怪、両方の保険担当よ」


 さらっと言いながら、先生は首を元の長さに戻した。

 その光景があまりにも自然すぎて、

 逆におかしくなってきて、ちょっと笑ってしまう。


「笑える余裕があるなら大丈夫ね。

 でも熱は、ほら」


 体温計を渡されて見ると、三十七度八分。


「微妙に高い……」


「“場”をいじったあとの初日としては、かなり控えめね。

 普通の半妖くんなら、四十度コースでもおかしくないわ」


「普通の半妖の基準がわかりません」


「大丈夫。あなた、普通じゃないから」


 さらっとひどいことを言われた。

 先生は、僕のベッドの横に腰をおろして、

 水鏡を指先でつつく。


「これ、“向こう側”のテストを受けた子じゃないと、基本、目覚めないのよ」


「テスト……?」


「鏡越しに、神さま側と地獄側、両方の景色を見たでしょ?」


 図星だった。


「片方だけなら、まだ“観光客”の扱い。

 両方まとめて覗いちゃった時点で――」


 先生は、人差し指と親指で円を作って、僕の額に軽く当てる。


「はい、“総代候補”にチェック入りました、って感じ」


「そんな軽い判定なんですか」


「判定は軽いけど、後始末が重いのよねえ」


 先生は、ちょっとだけ肩をすくめた。


 その仕草の途中で、首が三センチくらい余計に伸びているのが地味に怖い。


「でも、妖力の器自体は悪くないわ。

 “普通の半妖レベルじゃない”っていうのは、

 褒め言葉だと思っておきなさい」


「褒め言葉の罠みたいな響きしてません?」


「してるわね。ごめんね?」


 悪びれずに笑われると、怒る気力も薄れる。


 そのとき。


 保健室のドアが、こん、と軽い音を立てて開いた。


「失礼するよ。……おや、ちょうどいた」


 着流しっぽいジャケットに、湯呑みを持った男。

 霧ヶ丘高校・古文教師。

 そして、妖怪特別クラス担任。

 ぬらりひょんOBこと、沼田先生。


「先生、職員室から湯呑み持ってこないでください」


「いやあ、保健室のほうがゆっくり茶が飲めるからね」


 そう言って、当然のようにベッドのカーテンをしゃっと閉める。


 カーテンの上から、すっと首だけ覗き込む轆轤木先生。


「ちょっと、勝手に個室つくるのやめてくれる?」


「プライバシー配慮だよ。大丈夫、変なことはしない」


「“変なことはしない”って前置きする人、だいたい変なことする人だけど」


 言いながらも、先生はちゃんと中に入ってきた。

 代わりに丸椅子を引き寄せて腰をおろす

……ではなくちゃぶ台がわりにして湯飲みを置いて床にあぐらをかく。


「さて、入間くん。

 昨日は初任務お疲れさま。どう? “向こう側疲れ”、来た?」


「来ました。めちゃくちゃ来てます」


「だろうねえ」


 先生は湯呑みをひとくち飲んでから、

 いつものへらっとした笑みを少しだけ引っ込めた。


「で、その“疲れ”が抜ける前に、

 ひとつ話しておかないといけないことがある」


 保健室のカーテンの向こうから、

 チャイムとざわめきがうっすら聞こえてくる。


 この狭いスペースだけ、

 校舎の時間から切り離されたみたいに静かだった。


***


「三界の話、したっけ?」


「神さまと、仏さまと、妖怪のやつですか」


「そう。それぞれの“界”があるって話。

 今日は、そのあいだの話をしよう」


 沼田先生は、湯呑みをちゃぶ台がわりの丸椅子の上に置くと、

話すモードの顔になる。


「昔々――って言うと、ほんとに昔っぽくなるけど。

 ざっくり言えば、千年以上前だ」


「平安とか、そのへんですか」


「そのへん」


 先生は、指で机の上に円を描いた。


「まず、日本列島という“器”があった。

 山と川と海と、神さまが座る場所。

 そこに仏教が入ってきて、仏さまの“浄土”って概念が増えた」


 円の上に、さらに小さな円をいくつか重ねて描く。


「――で、そこに、妖怪たちがいた」


「神さまの“シマ”と、仏さまの“シマ”と、

 人間の暮らす“生活エリア”が、だんだん重なってきた。

 そこに、名前のない“ナニカ”も、うじゃうじゃ増えた」


 轆轤木先生が、横から補足する。


「山の神さまの機嫌を損ねたら土砂崩れ。

 川の神さま無視したら洪水。

 お寺壊したら疫病。

 そこに、名前のつかない“もやもや”が混じると――」


「災害と戦と怪異の、コンボ技が出る」


 沼田先生は、指で×印を描いた。


「で、そのごたごたを、誰かがまとめないといけなくなった」


「そこで“総代”?」


「そう。

 神でも仏でも妖怪でも、人間でもない、

 “場の顔役”みたいな立場のやつが必要になった」


 ちゃぶ台代わりの丸椅子を、くるりと回す。


「偉い僧侶とか、陰陽師とか、土地の大名とか、

 時代ごとに姿は変わるけど、『場をまとめる人』はずっといた。

 それが総代って呼ばれるようになったのは、もう少し後だけどね」


「その人たちが、三界のあいだを取り持つ、と」


「簡単に言えばそう。

 どこまで神さまの“領域”にしていいか。

 どこから仏さまの“御利益エリア”なのか。

 妖怪たちは、どこまで人間を脅かしてよくて、どこからアウトか」


 先生は、保健室の天井を指さす。


「“空”を誰のものにするか決めたり、

 “地下”をどこまで掘っていいか決めたり。

 そういうややこしい話を、百年おきくらいに契約として更新してきた」


「百年に一回の、超めんどくさい会議ですね」


「そう。

 資料も多いし、出席者は勝手なことしか言わないし、

 たまに物理的に雷とか落ちるし」


「会議中に雷落ちるの、絶対神さまキレてますよね」


「だいたい誰かキレてる」


 轆轤木先生が、くすっと笑う。


「でもね、その“契約のおかげで”、

 日本列島って器は、ぎりぎり安定してきたの」


 山の神さまが暴れても、

 仏さま側がなだめたり、

 妖怪たちが現場を調整したり。

 人間が無茶な開発をしても、

 どこかでブレーキがかかるように、

 “見えない交通ルール”が敷かれてきた。


「――問題は、ここ数十年」


 沼田先生の声が、少しだけ低くなる。


「無節操な都市開発。金の儲け主義。

 信仰心の薄まり。

 神社やお寺が、コンビニより少なくなってきた」


「コンビニと比較される神社お寺、かわいそうですね」


「便利さでは勝てないからねえ」


 先生は肩をすくめる。


「でも、“神社や寺が減る”ってことは、

 神さまや仏さまの“窓口”が減るってことでもある」


 窓口が減った結果。


「直接どなり込んでくるやつが増えたのよ」


 轆轤木先生が、両手を広げて見せる。


「『うちの山に変な道通しただろう!』とか、

 『川に変なもの流すな!』とか。

 前は神主さんやお坊さんが聞いてくれてたクレームが、

 全部、現場にダイレクト突撃してくるようになった」


「現場って、妖怪側?」


「そう。特に“半妖”と“妖怪”」


 沼田先生は、湯呑みを指先でくるくる回した。


「で、本来なら二十年くらい前に、契約の大改訂をやるはずだった」


 保健室の空気が、わずかに重くなる。


「神さま側も、仏さま側も、人間側も、妖怪側も。

 “このままだと器がもたない”ってことは、

 なんとなく分かってたからね」


「……“器がもたない”って」


「簡単に言えば、

 地震や水害やら怪異やら、

 あらゆる“ひずみ”が、一気に噴き出すってことだ」


 先生は、両手で湯呑みを包む。


「ただ、“誰が総代になるか”で、もめに揉めて」


「政治かな?」


「宗教と土地と妖怪と政治、全部込みのごった煮かな」


 先生は、わざと軽い調子で言ったが、

 目の奥には、笑いきれない色があった。


「その会議の最後のほうでね。

 ある人間側の代表が、こう提案したんだ」


 湯呑みを、ことり、とちゃぶ台がわりの丸椅子の上に置く。


「『今すぐ決められないなら、“タイマー”を仕掛けましょう』って」


「タイマー」


「そう。

 このまま放置したら、何十年か後に“器が割れる”ように設定する。

 ただし、完全に砕け散る前に、“五年カウント”が見える仕組みをつける」


 それが、あの「日本滅亡まで五年」の正体。


「罰として滅ぼすんじゃなくて、

 “このまま行くと、ここで限界が来るよ”って知らせるための、

 安全装置としてのカウントダウンだ」


 先生は、さらりと言った。


「本来、その“タイマー”が見えるのは、

 総代候補と、そのごく近くにいる連中だけ。

 一般の人には、ただの“なんか最近ヤバくない?”で終わる」


「じゃあ、あの“あと五年”って感覚も、

 誰かが見てるから、ってことですか」


「見てるし、掴んじゃったね、君が」


 沼田先生の言葉に、

 胸の奥が、ぞわりとした。


「……その会議に、“ぬらりひょん枠”の代表も来てたんでしょう?」


「もちろん」


「そこに、僕の父さんもいた、とか」


 一瞬、保健室の時計の音だけが聞こえた。


 カチ、カチ、カチ。


 沼田先生は、しばらく僕を見ていた。


 その目の奥に、古い写真の残像みたいなものがちらついた気がした。


「――いたよ」


 ようやく、それだけを認める。


「細かい話は、今はまだしない。

 君の体調と、場の安定と、向こう側の様子を見ながら、

 順番に出さないといけない話だからね」


「出し惜しみって言いません、それ」


「情報も一気に出しすぎると、器が割れるんだよ、人間も」


 先生は、冗談めかして笑った。


「ただ、ひとつだけ言えるのは――」


 湯呑みを指先で軽く叩く。


「そのタイマーと“水鏡”を、

 今の君が握っている状態っていうのは、

 完全な偶然ではない、ってこと」


「なんで僕なんですか」


 気づけば、声が少しだけ上ずっていた。


「神さまや仏さまや妖怪の偉い人たちが、

 “お前やれ”って指さしたわけじゃないなら。

 誰が、どう決めたんですか」


 轆轤木先生が、ベッドのカーテンの向こうから、そっと顔をのぞかせる。

 首だけにゅっと伸びているので、シュールさがすごい。


「ねえ、ぬまた。そこ、ちゃんと答えてあげなさいよ」


「ちゃんと、ねえ」


 沼田先生は、少し考えるように天井を見上げた。


「“総代”っていうのはね、誰かが任命するんじゃない」


 真正面から、僕を見た。


「場のほうが、その人を中心にしちゃうんだ」


「……中心に、しちゃう?」


「教室で、いつの間にか相談役になってるやつとかさ。

 グループラインで、最終的に“この人が言うなら”って話がまとまるやつとか。

 そういう“場をまとめる才能”のある者が、

 結果的に総代になる」


「そんな、クラスの雑用係みたいなノリで決められても」


「世界の半分は、そういうノリで回ってる」


 先生は、肩をすくめた。


「君が本気で“いやだ”って言うなら、

 別のやつに回す手も、実はゼロじゃない。

 でも、多分その場合――」


「僕、絶対巻き込まれますよね」


「うん。めっちゃ巻き込まれる」


 あまりにも即答だった。


「だったら、せめて真ん中に座って、

 “どこまで持ちこたえさせるか”くらいは、自分で決めたほうが、

 まだマシかな、って思わない?」


 昨日、水鏡を握ったときの感覚が蘇る。


 あの、「どっちにする?」って迫られた声に、

 「どこまで持ちこたえさせるかくらい、こっちに決めさせろ」と

 言い返したときのムカつきと、妙なスッキリ感。

 あれは、僕の中の“総代筋”が勝手にしゃべったのかもしれない。


「……正直、まだ全然腹はくくれてないです」


「それでいいよ」


 沼田先生は、穏やかに笑う。


「腹をくくりすぎた総代は、だいたいロクなことしないからね。

 “いやだいやだ”言いながら、でも最後まで席を立たないやつが、

 いちばん信頼できたりする」


「褒められてるのかディスられてるのか、わかんないです」


「半々かな」


 またそれか。

 轆轤木先生が、ベッドの端に手を置いた。

 首はもう元の長さに戻っている。


「とりあえず今は、“日本滅亡”とか大きいワードは置いといて」


「それ、簡単に置いといていいやつですか」


「いいの。今のあなたに必要なのは、

 ちゃんと寝て、ちゃんと食べて、

 明日、また学校に来ること」


「……ずいぶん、地味な使命ですね」


「その“地味な日常”が、器の表面を守ってるの」


 先生は、そう言って微笑んだ。


「世界がどうとかの前に、

 まずは自分の体温三十七度台から下げましょう」


「現実的……」


 ベッドに背中を預けると、天井の白い板が、ゆっくりとにじんだ。

 ポケットの中の水鏡が、

 ひんやりと、でも少しだけ温かく感じる。


 日本滅亡。

 カウントダウン。

 三界の契約。

 父さんの影。


 全部まとめて考えようとすると、頭が割れそうだ。

 

 でも、今の僕でもわかることがひとつある。


 あの「日本滅亡まで五年」という言葉は――

 沼田先生が、最後にぽつりと言った。


「日本滅亡まで五年――あれは脅しでも予言でもない。

 “器が割れるから、なんとかしろ”っていう、最後通告なんだよ」


(つづく)


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